竹宮ゆゆこ総合スレ SS補間庫
   

 

我等が同志(後編-2)

「ネットオークションはダメだよ。概して相場よりも高い値段で売られている。インターネットを利用するにしても、オーク ションよりも安くて確実な方法があるよ」


そうして榊は亜美に、「よかったらついて来て…」と言って、先行した。亜美は勝手が分からず、本を抱えたまま榊の後 を追った。行く先はパソコンが設置されているブースだった。
榊は設置されているパソコンの一台に向かうと、ブラウザを立ち上げ、『Google』のサイトにアクセスし、検索欄に『日 本の古本屋』と入力して、『Google検索』のボタンをクリックした。
その検索結果から『日本の古本屋トップページ』を選択する。


「これこれ…。このサイトは、日本中の古書店の在庫を検索してくれるんだ」


榊はそう言いながら、『古書検索』の欄に『特許法概説』と入力して、『GO』のボタンをクリックした。全国の古書店で の『特許法概説』の在庫が表示される。


「川嶋さん、ラッキーだよ。神田神保町の古書店に第九版が二冊ある。値段も六千円とお手頃だ」


亜美は手元の『特許法概説』を見た。その本は第十三版だった。


「あのぉ〜、図書館にあるのは第十三版なんですけどぉ、第九版って古すぎませんか?」


榊は亜美の突っ込みももっともだと言わんばかりに軽く頷いたが、言うことは違っていた。


「その第十三版だって法改正には対応できてないんだから似たようなもんだよ。それに、知的所有権の分野で有名な N大法学部のG先生がうちの大学に来たときに、この本のことが話題になったんだけど、G先生は『特許法概説』は、 著者の吉藤先生が存命中に発行された第九版あたりまでがベストなんだそうだ。どう? 俺が君のような立場だった ら買うけどな…」

「そうですねぇ…」


六千円という価格も手頃だ。しかも同じ第九版が同じ店に二冊ある。それでも、古そうなのが気になるのだ。


「今となっては第十三版も第九版も、古いってことに違いはないさ。それに、本は、買わずに後悔するより買って後悔し ろ、だよ。身銭を切って買わないとありがたみがないから真剣に読まない。どうしても入手できない本は図書館とかで 借りるしかないが、古書店で買える本だったら、購入しておくべきだ」


亜美はそれでも躊躇していた。それを見抜いてか、榊が声をひそめて囁いた。


「それに、だ…。見ての通り、同じ第九版が二冊も同じ店にあるんだぜ? 君と君の彼氏の分がちょうど用意されて いるようなもんさ。これは天の配剤と言っていい」

「は、はい!」


密かに思っていたことを指摘され、亜美は照れて頬が火照ってくるのを感じた。

それが榊にも分かるのだろう、流し目でちょっと意地悪そうに微笑している。


「決まりだな、君と高須くんの分が等しくあるってのは奇跡だね。おっと、このページをプリントアウトしとこう。 何なら、今すぐにでも予約の電話を入れといた方がいいだろう」


プリントアウトされた書面が亜美に手渡された。店の場所は神保町の交差点のすぐ近くのようだ。


「何から何まで、すみません」


亜美が礼のつもりで深々とお辞儀をすると、榊は、それを押し止めるつもりなのか、「まぁまぁ…」と言いながら右の掌 をヒラヒラと翻した。


「君らは俺たちのサークルに来てくれた。これも何かの縁だよ。それにお互い弁理士になったらなったで、付き合いが あるだろう。狭い業界だからね、できれば敵としてではなく、味方としておつき合いしたい」


そう言って、持ち前の笑顔を見せた。弁理士の業界が狭いことは竜児も言っていた。瀬川のような悪辣な奴は願い下 げだが、榊のような善人なら、おつき合いは大歓迎である。

亜美は時計を見た。時刻は十二時近い。


「俺は、今日はここでずっと勉強しているけど、君はどうするの?」


「は、はい、実は、あたしと高須くんの共通の友人に誘われて、ソフトボールの練習試合を観戦する予定です。これから 理学部の教室に行って、高須くんと合流する予定です」

「そっか、じゃぁ、今日ぐらいは勉強のことは忘れて楽しんで来なよ」

「はい、色々とありがとうございます。それと、二次試験の合格をお祈りしています」

「うん、川嶋さんに祈ってもらうんだから、今度こそ絶対に合格するよ」


亜美は軽く会釈をして榊と別れ、手にしていた『特許法概説』を書架へ元通りに戻すと、図書館を出た。 携帯電話を取り出し、榊がプリントアウトしてくれた古書店の番号に電話する。


「はい、こちら……古書店でございます」


古書店というイメージを裏切るような意外にも若々しい声がした。単なる若い店員なのかも知れないが、責任感を感じ させるはきはきとした口調に店の跡継ぎといった雰囲気が感じられた。亜美は、その相手に『特許法概説 第九版』 の在庫の有無を尋ね、次いで、二冊とも予約する旨を伝えた。

図書館を出た亜美は、時間を稼ぐようにゆっくりと歩く。土曜日に法学部の必須科目の講義はない。竜児に対しては 『ある』と、要は嘘をついているのだ。そうでもしなければ、麻耶が指摘した通り、亜美のことを変に気遣って、プチデー トのために毎週上京してくることを止めさせるに決まっている。

亜美は時計を見た。時刻は十二時十五分、この頃合いで今から理学部の旧館に行けば、講義の後に法学部の教室か らやって来たように見せかけることができる。

木立の中に古色蒼然とした理学部旧館が見えてきた。大正か昭和か知らないが、とにかく戦前の建物であることは疑 いようがない。一応は鉄筋コンクリートで、竣工直後は白亜の殿堂のような偉容だったに違いないが、歳月を経て平 成の世となった今では、うらぶれ、薄汚れ、老朽化した哀れな姿を晒している。

もうちょっとメンテナンスにお金を掛けていれば、こうはならなかったのであろうが、予算が乏しい上に、理系学部は実 験や研究の施設に莫大な予算が必要なため、ついつい学舎の整備が疎かになるのだろう。

それにしても、LANケーブルが設置されているというのに、エアコンどころか扇風機すらないのは亜美もどうかと思う。

今は未だ何とかなるが、これから夏本番を迎えたら、ほとんど地獄だろう。

館内に入ると、むっとする湿っぽい暑さが亜美の身体を包み込んだ。その暑さで、長年建物の隅に溜まっている埃やカ ビが臭ってくる。高須棒をあちこちに突っ込んだら、大変な量の埃やカビが掻き出されてくるだろう。だが、大学は高校 と勝手が違う。学舎の掃除やメンテナンスは業者に一任されているから、一学生の勝手な行動は許されない。


「高須くん、ストレス溜まりまくりだろうな…」


竜児の影響で、料理や掃除をできるだけ自力でやっている亜美も、隙間に高須棒を突っ込みたい衝動に駆られる。

竜児であれば、亜美以上に歯がゆい思いで薄汚れた学舎を見ているはずだ。

数学科一年の必須科目である線形代数学の講義は、その旧館の二階で行われていた。現に二階からは暑さと講義で ぐったりとした感じの数学科の学生らしき一団が、黒っぽいリノリウムが貼られた階段を下りてくる。その一団の流れに 逆らって、亜美は階段を上った。

階段と同じような黒っぽいリノリウムが貼られた廊下に出る。窓は全て開け放たれていて、風通しは階段付近よりも マシではあるが、それでも少々蒸し暑い。エアコン完備の法学部の教室とはえらい違いだ。

その廊下にも、講義が終わってほっとした表情の学生が散らばっている。

だが、亜美は廊下にたむろする学生の中に、悪意を放射する切れ長の双眸を認め、ぎくりと驚悸した。


「あらぁ〜、川嶋さん、来たのぉ?」

「せ・が・わ・さん?」


昨夜のコンパで亜美と竜児を利用して、榊が率いていた弁理士試験対策のサークルを乗っ取った四人の女たちが そこに居た。

「また会えてうれしいわぁ〜、川嶋さぁ〜ん。それにしても講義がないのに毎週彼氏をお迎えとはねぇ〜。 ほんと、ご苦労さん。よほどご執心みたいね、高須くんを〜」


そう言って、瀬川は、ほほほ、と甲高く笑った。知的美人であることは認めるが、所作の全てに相手を小馬鹿にしている ような傲慢さが微かに見え隠れしている。それが、底知れぬ意地の悪さを感じさせ、亜美は思わず身震いした。それに 何よりも、昨夜のコンパでは、意地の悪い出題で亜美を這いつくばらせた張本人なのだ。

それにしてもお目当ては竜児だろうか。そうでなければ法学部二年であるはずの瀬川が理学部の旧館に居る理由が 見当たらない。いや、『それにしても講義がないのに毎週彼氏をお迎えとはねぇ〜』という発言が気に掛かる。

何なんだ、どうしてそんなことを知っているんだ、この女は!

亜美は、憎悪を込めて瀬川の顔を睨み付けたが、それ以上は関わらないことにした。まともに相手をしてもろくなことに はならない。こんな連中は無視して、竜児と一緒にさっさと練習試合が行われるグラウンドに行ってしまうに限る。

だが、無言で瀬川の傍らをすり抜けようとした亜美は、瀬川の取り巻きの女子学生三人に行く手を阻まれた。


「あらぁ〜、川嶋さん、先輩である私たちを無視するのぉ〜? ほんと、あなたって、粗野で礼儀知らずねぇ〜。 それだから、高須くんを元カノに奪い返されちゃうんだわぁ〜」

「瀬川さんたちには関係ありません! ここを通して下さい。それに、高須くんが元カノに奪い返されるとか、 根拠のない妄言はやめて下さい!!」

「根拠のない妄言かどうかは、教室を覗いてみれば分かるんじゃなぁ〜い」


嫌味たっぷりの猫なで声で、瀬川が亜美をそそのかすように言った。


「どういう意味ですかぁ、それ!!」

「お〜、怖い怖い…。本当にあなたって育ちが悪いのねぇ〜。そんなにカッカして、私なんかに食ってかかるよりも、早く 教室の中を覗いた方がいいんじゃないかしらぁ〜〜」


昨日と変わらぬ悪意丸出しの物言いに亜美はムッとしながら、前にバリケードのように立ちふさがる上級生越しに、 つい先ほどまで線形代数学の講義が行われていた教室を見た。藤色のポロを着た竜児の後ろ姿が目に入る。

だが、視野に飛び込んできたのは竜児の姿だけではなかった。


「祐作、それに実乃梨ちゃん! どうしてここに」


着席している竜児の傍らには、北村祐作と櫛枝実乃梨が立っていた。


「うふふ、そら、ご覧なさぁ〜い。私の言った通りでしょぉ〜? 高須くんはどうやら、あの元カノとよりを戻すみたいねぇ。
まぁ、容姿はそこそこだけど、勉強も料理もまるでダメなあなたよりも、明るくて元気そうな元カノの方が高須くんには ふさわしいんじゃなぁ〜い?」


甲高く哄笑する瀬川たち四人に囲まれて、亜美は茫然としてその光景を目にしていた。予期せぬ実乃梨の出現、その 理由が亜美には分からない。これから試合に出るというのに、実乃梨の荷物は小さなポシェット一つだけ。その格好も、 薄い黄色でボディラインにフィットしたシルキーなブラウスに、赤が際だつチェック柄のスカートという、ジーンズばかり 着るはずの普段の実乃梨らしくない。

まるで、これからデートにでも出掛けるような雰囲気がする。


「ほらほら、ボケッと突っ立っているだけじゃ、元カノに彼氏を奪い返されちゃうわよぉ〜。さっさと彼氏の元に行って、
月曜日の喧嘩の続きでもしてくれないかしらぁ〜。それも警備員が駆けつけるような大乱闘を…。退屈な土曜日の 午後のいい刺激になるでしょうねぇ〜」

「あ、う…」


瀬川たちが意地悪くそそのかす中で、亜美は、理不尽とも言える実乃梨の出現に混乱していた。実乃梨とは穏便に話 し合うつもりだった。しかし、それは亜美が言うところの『迎撃準備』、要するに相応の覚悟がある状態での話である。

このような不意打ちとも言えるような状況は想定外もいいところだ。


「ほらほら、三人とも楽しそうに談笑しているじゃなぁ〜い? もう、みんなあなたのことなんか眼中にないみたいねぇ〜」


耳元で囁く瀬川の声も亜美には聞き取ることができなかった。ただ、「どうして…」という呟きを、蚊の鳴くような声で 繰り返していた。


「北村に、櫛枝に…、一体全体どうしたんだ?」


亜美が現れるものと思って、講義が終わった後も教室で待っていた竜児は、意外とも言える顔ぶれが目の前に居る ことに当惑した。北村なら未だ理解できる。しかし、実乃梨というのは全くの予想外だ。それにしても亜美はどうした のか、と竜児は訝しんだ。


「高須が驚くのは無理もないな。実は櫛枝から昨夜電話で頼まれてな、月曜日の亜美との諍いに手を打つためにも、
四人揃ってグラウンドに行きたいってことなんだ。で、亜美は毎週土曜日にはここに来るって聞いていたから、櫛枝とやっ て来たってわけさ」

「というこって、高須くん、あーみんが来たら、みんなで電車に乗ってグラウンドに行こう。まぁ、私は試合に出る関係上、 ちょっと早く行かないといけないから、それに合わせてもらうと、私らが着替えたりミーティングしている間は、ちょっと 待って貰うことになるけど、メンゴ!!」


軽い謝罪のつもりなのか、実乃梨が敬礼するような仕草をした。そのため、肩に掛かっていた小さなポシェットが揺れた。


「い、いや、別にそんなことは気にしねぇけど…。櫛枝、バットとか、ユニフォームとかグラブとかはどうした? 見たところ、 ほとんど手ぶらじゃねぇか」

竜児の問い掛けに、実乃梨は、にっこりと微笑んだ。


「ああ、荷物は大学の寮からチームのみんなが乗るバスに乗っけてもらうことになってんのよ。他のメンバーには申し訳ないけど、せっかく高須くんたちと出掛けるんだから、いかにも体育会系っていう大きな荷物を持って行くのは避け たかったんだ」

「そんなことして、大丈夫なのか? 櫛枝は新入生なんだろ」

実乃梨は、ちょっと得意そうに胸を張った。

「私はこれでも今回のチームのキャプテンだからね。今回は一年生だけのチームなんだよ。で、ちょっとばかし、特権を 行使させてもらったのさぁ」

「お、おう…。そ、そうなのか」


それにしても、何でスカート姿なのだろう。実乃梨のスカート姿は、高校の制服以外では、もしかしたらこれが初めての ような気がする。これはこれで似合っているし、正直、目の保養にもなるのだが…。

それと引き替えというわけではないだろうが、亜美が来ない。いつもならとっくの昔にこの教室に来ているのだが、 そうではないということは、何らかのトラブルか、と竜児は心配になった。

「なぁ、北村、北村は川嶋と同じ法学部だよな。川嶋は、午前中の講義に出てなかったのか?あいつが言うには、 土曜日の午前中には必須科目の講義があるから、こうして土曜日も出てきている、ってことらしいんだが…」


その竜児のコメントに、北村は鳩が豆鉄砲を喰らったように目を丸くした。


「必須科目の講義? 土曜日にはそんなもんありゃしないぞ? 選択科目なら土曜日にも講義があるが、 亜美は土曜日には選択科目も設定していないはずなんだが…」

「何だってぇ?!」


教室の外では亜美が茫然とした面持ちで竜児たちを見ていた。


「ほらほら、どうしたの川嶋さぁ〜ん。何だか三人とも浮き足だってきたみたいだし、この分だと、高須くんと、元カノと、 もう一人の男子と一緒にすぐにでも出かけそうな雰囲気じゃなぁ〜い? このまま、私たちと、教室の中の三人を交互 に睨んでいても何の問題解決にもならないわよぉ〜。今すぐ彼氏の前にすっ飛んで行かないと、何だが取り返しのつ
かないことになるんじゃないかしらぁ〜」


瀬川の言うことにも一理ある。竜児が実乃梨と一緒に出かけるところなんて見たくもない。それを見たら、しばらくは立 ち直れなくなりそうだ。しかし、いざとなると、足がすくんだように動かない。竜児の前で屈託なく笑う実乃梨は本当に 太陽のように輝いて見える。昨日の深夜、『実乃梨から逃げない』と宣言したのに、実際にはこのざまだ。


--あたしは、結局、実乃梨ちゃんが怖いんだ…。


より正確には、亜美には備わっていない実乃梨の明るさや屈託のなさ、それに竜児が惹かれることを恐れているのだ。

それ故に、竜児をめぐって実乃梨と対峙すると亜美は平常心を保てず、皮肉を言ったり、茶化したりで、その場を煙に 巻こうとする。思えば、月曜日だって、最初に皮肉で兆発したのは亜美ではなかったか。


「ほぉ〜ら、川嶋さぁ〜ん、どうしたのぉ? 顔色が悪いわよぉ〜。まるで何かに怯えているみたぁ〜い、あははは!」


それに瀬川たちと居合わせるなんて、最悪だ。もう、彼女らの目当てが何であるか、亜美にもはっきりと分かった。竜児 ではない、他ならぬこの亜美だ。


「瀬川さん…、あなたって人は…、何が目的なんです?! 何のために、わざわざ理学部の旧館に来ているんですか?!」

亜美は、持ち前の大きな瞳で、瀬川の切れ長の双眸と対峙した。その冷たい悪意を秘めた瀬川の両の眼の禍々しさに、 亜美は正直ぞっとする。陽の実乃梨とは対極の、陰の極致とでも言うべきか。虚勢を張って睨み付けてはいるものの、 本当は亜美ごときが敵う相手ではない。

その証拠に、瀬川は、先ほどと変わらぬ冷やかな笑みを崩さない。


「あらあら、そんなことも分からないのかしらぁ〜、おばかさぁ〜ん。平たく言えば、昨日あれだけ痛めつけたあなたがど うなったのか、確かめに来てあげたんじゃないのぉ〜。光栄に思いなさぁ〜い」

「それ、どういう意味ですか?!」

「あら、あれだけの精神的なダメージを受けたんだから、もしかしたら世を儚んで自殺くらいしているかと思ってぇ〜。 でもぉ、川嶋さんって、粗野だけあってしぶといのねぇ〜、あれだけ恥をかいたのに、おめおめと生き延びているんです ものぉ〜」


何て奴だ、こいつは本当の外道だ、と亜美は憤怒よりも戦慄した。昨夜、まかり間違えば、本当に身投げをしていた かも知れないというのに、こいつは亜美がそうなる可能性を承知の上で、あのような意地の悪い出題をし、さらには、 実乃梨を引き合いに出して陰湿に亜美をいたぶったのだ。


「あたしが自殺って、あんたって、どこまで非道なの! それでも法律職を志す者なの? それどころか、人として許され ないわよ!!」

「それが何? 昨日も言ったけどぉ〜、利用されたり騙されたりする方がバカなのぉ〜。で、利用されるようなバカは、 聡明な私たちから見れば、その利用以外に存在価値は無に等しい。生存権なんか認められない、って言い換えてもい いかしらぁ〜。だから、どうなろうと知ったこちゃないわね、基本的にぃ〜」

「何ですってぇ〜!!」

「それに、未だ参っていないようなら、とどめを刺す必要があるんじゃなぁ〜い? 私って、何事も徹底的に、っていうの がポリシーなのぉ。そのおかげで、学業でも、何でも、そこそこ成功しているってわけぇ〜。だから、昨日程度のことで、 あなたが死ぬなり何なりしていたら、その程度の雑魚ってことだし、今日みたくしぶとく生きているようなら、とどめの 刺し甲斐があるってもんだわぁ〜」

「人でなし!!」


亜美は怒り心頭の面持ちで、瀬川の胸ぐらを掴もうとした。瞬間だが、瀬川に対する恐怖よりも、憤怒が勝った。だが、 亜美は、瀬川の取り巻き三人に両腕を掴まれ、押さえ込まれた。
瀬川は、亜美のショルダーバッグに手を突っ込んで、携帯電話を取り出し、その電源を切った。


「何、人の電話をいじくってんのぉ! それよりも放してよ!」


「あら、あら、本当に粗暴なこと。所詮、芸人なんて成り上がりだから、その娘も品がないのねぇ〜。まぁ、あなたが騒ぐ のは勝手だけどぉ〜、ここであんまり大きな声を出すと、あなたが逃げるように避けている元カノにあなたの存在が知 られちゃうわねぇ。ぞれも、粗野で、野蛮で、下品丸出しのぉ〜」


怒りに我を忘れそうになっていた亜美は、再び、瀬川の恐ろしさにぞっとした。人の弱みに付け込むことがあまりにも 巧みすぎる。

講義が終わった直後ということもあって、教室や廊下はその余韻のようなざわめきがあるため、未だ竜児たちは亜美 の窮状を察知していないらしい。竜児には助けて貰いたい。だが、実乃梨には、今、窮地に追い込まれている状況を見 られたくない。


「あそこに実乃梨ちゃん、あんたが言う元カノが居るのも、まさか、あんたの差し金じゃないでしょうね!」


「あらあら、いくら私だって神様じゃないから、そこまでのお膳立てはできないわね。偶然よ、偶然。やはり、人を支配する に足る器の私には、こうしたチャンスが巡ってくるのかしらぁ〜。うふ、人の運命を弄ぶって、ほんとに痛快ぃ〜」

「神様ですってぇ?! 冗談じゃない、悪魔も裸足で逃げ出すわよ、あんたなんかを目の前にしたら!!」

「おやおや、この私を悪魔以上に邪悪だと言いたげねぇ〜。でも、それも悪くないわ。だって、あなたのような凡庸な 雑魚とは明らかに格が違うってことになるんだからぁ〜」


瀬川は、口元に右手の甲を軽くあてがって、ほほほ、と鈴を転がすように笑った。


「くぅ!」


悔しくて涙が出そうなのを、亜美は必死で堪えていた。それにしても、どうして、瀬川は亜美がここに来ることを知り得た のだろう。


「まぁ、状況がある程度思い通りになるのは、独自の情報網を備えているからなんでしょうねぇ〜。それも法学部だけで なく、理学部や工学部からも情報が入ってくる。その情報源は私たちの色香目当てのバカな男どもなんだけどぉ〜。
まぁ、適当にあしらって利用しているだけ…。要らなくなればポイだわぁ〜」

「じょ、情報源って…」


瀬川は、亜美を理解力のない幼稚園児か何かのように嘲笑った。その視線は氷のように冷たく、亜美の心胆を 寒からしめた。


「モデルだったあなたにだって経験あるんでしょぉ〜。女の武器を最大限に使うのよぉ〜。ま、イケメン男子限定だけ どぉ、ペットにして一回だけセックスしてやるだけ…、よほどセックスが上手じゃないと、もう二度目はないのにねぇ〜、
それでも次を期待して、いろいろ無茶なことをやってくれるから、ほ〜んと、面白くってぇ〜」

「けがらわしい! 冗談じゃない、あんたみたいに、ふしだらな女じゃないわよ!」

亜美は嫌悪感で鳥肌が立つ思いだった。確かに、中学、高校の時に、男子をからかったことは幾度となくある。 恋愛寸前の経験も皆無ではない。だが、キスも、愛撫も、本当に心を許した相手、竜児以外は御免だ。

「ふん、何を清純ぶっているんだか。まぁいいわぁ〜、その情報源のおかげで、月曜日に学食で騒いだあなた達の素性 がすぐに分かったわぁ〜。それだけでなく、あなたが講義もないのに毎週土曜日に律儀にここに現れるということもねぇ〜。
何でも高須くんとのプチデートですってぇ? ほんとに幼稚なままごとねぇ〜」

「何とでも言うがいいわ。でも、自分たちが特別な存在だって思い上がって、そんなことばかりしていると、いつかきっと 痛い目を見るわよ」


両腕を押さえつけられたまま、亜美は、瀬川のぞっとするような瞳を睨め付けた。
しかし、瀬川は、相変わらず亜美を侮蔑するような冷たい笑みを崩さない。


「川嶋さぁ〜ん、今の自分の状況が分かって言っているのかしらぁ〜? 高須くんの目の前には元カノが居て、あの 浮き足立っている様子からすると、今にも一緒に出かけそうな感じがするじゃなぁ〜い? そうなったときの、あなたの 精神的なダメージが見物だわねぇ〜」

「どういうことなんだ、土曜日は講義がないって? 川嶋は、どうして? ありえねぇ…」


鈍い竜児にも、それが何を意味するのかは、さすがに理解できる。ただ、あまりにバカげていて、現実味がないのだ。


「それはお前にも、今は分かったんじゃないか? 亜美は、土曜日にお前に会うためだけに上京しているんだろう。
だけど、それを正直に言えば、お前のことだ、亜美の負担を気にして、それを止めさせようとする。亜美もそれを分かっ ているから、敢えてお前に嘘をついていたんだな…」


北村は、諭すような口調で竜児に言った。


「そんな、土曜の午後なんて、単に二人で昼飯食って、それから下町で買い物したり、フリーマーケットを冷やかして、 他愛もないことを話して、夕方に大橋の町に帰ってくる、ってだけのことだぞ。そんなことのために、あいつは貴重な 時間を費やして講義もないのに大学に来ているって言うのか? バカな…」


実乃梨が、ちょっと寂しそうな笑顔を、竜児に向けている。


「高須くんは、あーみんとの土曜の午後を単なる買い物としか思ってないようだけど、あーみんにとっては違うってこと さね。あーみんは、土曜の午後は高須くんとのデートのつもりで出かけているんだよ、きっと。でも、それを正直に言った ら、さっき北村くんが指摘したように、高須くんに止められちゃう。だから、あーみん本人も、高須くんにはデートだって 言わないし、できるだけそんな素振りは見せないようにしているんだねぇ」


実乃梨の言葉で、竜児は改めて土曜日の記憶をたぐってみた。言われてみれば。いつも亜美は楽しそうだった。下町 の老舗での、彼女にとってはつまらないであろうはずの買い物の最中にも、瞳を輝かせて竜児と一緒に行動していた。

もちろん、下町だけでなく、銀座や原宿、青山にも行くことがあるが、それでも元モデルが好みそうなきらびやかな ブティックなどが目当てではない。


「そんな…、デートだなんて、あり得ねぇ。俺と川嶋が行くところは、地味な老舗とかばっかで、とてもじゃねぇが、川嶋 みたいな女子が喜ぶようなところじゃねぇよ」


北村が、やれやれ、という感じで嘆息した。


「なあ、高須、お前は亜美という女をどんな奴だと思っている? 昨日や今日の付き合いではないお前なら、あいつの 気持ちが分かるんじゃないのか? 意外にも、あいつは服装とかも地味な配色が好きだからな。うわべは派手そうに 見えるけど、内面は決してそうじゃないことは、お前だったら俺よりも分かっているんじゃないのか?」

「そうかもしれねぇけど、そうでないような気もするんだ」

「なぜ、そうでないような気がするんだ?」

「いや、実は、つい先週の日曜日に川嶋と初めて本格的なデートをしたんだが、そのデートの行き先を決める時に、俺 は、浅草付近とかを提案したんだ。しかし、川嶋はそれを『地味だ』って嫌がったんだよ。それで、川嶋は地味な場所が 好きじゃないけど、土曜日は俺に無理につき合ってくれている…、そんな気がするんだ」

「本当にそう思う? 私も女の子だから、あーみんの気持ちはちょっとだけ分かるような気がするんだ。本当は、 あーみんは浅草でもよかったんだよ。ただ、初めての本格的なデートだから、いつもとは目先の変わった場所に行きた かっただけなんだ。浅草が地味だっていうのは、あーみんのうわべの口実だと思うよ」

「どうなんだろうな…」


曖昧に否定したが、実乃梨の言うことに思い当たるふしがなくはない。
台所でピクニック用の弁当を一緒に作っていた時のことだ。台所仕事をしながら竜児は亜美に買い物がてらのデート を申し出た。竜児が提案した行き先は浅草と調理器具なら何でも揃う浅草近隣の合羽橋だったが、その時、亜美が、 『どうせなら、横浜に行こうよ』と言い、『浅草は大学から近いから、いつでも行ける』ということで、横浜に行き先を変更 したのだ。
今にして思えば、『どうせなら』という言葉は、『目先を変えて』程度のつもりだったのかもしれない。

「あいつは、高須、お前に出会って変わったんだ。世話になってる親戚の影響もあるんだろうけど、堅実な生き方を指向し ているように傍目には感じられる。というか、あいつの外交的な面は、女優の娘ってことで、後天的に身に付けたものな んじゃないかな。だから、今、高須と一緒にいる時の、地味な感じの亜美こそが、あいつの素の姿なんだろう」


北村の言葉に、竜児は考え込むように、しばらく「うーん…」と唸った。
美貌や、元モデルというステータスに、竜児も幻惑されていたのかも知れない。だから、地味なところや、生活臭が感じ られるような買い物などは、亜美が喜ばないと思い込んでいたのだ。


「そうかも知れねぇ…。俺は、川嶋の内面を見誤っていたようだ。高校時代の派手な印象が強すぎて、そのイメージを 未だに引きずっていたんだな。結局、俺は、あいつのことを何も分かっちゃいなかったんだ…」

「身近に居すぎると、相手の変化は分からないものさね。あーみんも、急に変わったわけじゃなくて、本当にここ二年で 徐々に変わってきたんだと思うよ。月曜日には、私もさ、売り言葉に買い言葉で、料理もできないバカ女とかって、 あーみんを罵倒しちゃったけど、後で北村くんに聞いたら、高須くんに料理教わっていて、自宅でも料理しているって 知って、ちょっと申し訳なかったかなって、反省してるんだ、これでも…」


実乃梨が、眼前に手刀を構え、「あーみんと高須くんに、メンゴ!」と呟いて、きゅっ! と目をつぶった。


「おっと、櫛枝、そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」


北村は腕時計で時刻を確認した。時刻は十二時三十五分になろうとしていた。


「ほんとだ、こいつぁヤバい。じゃ、私は行かなきゃ、北村くんと高須くんは、どうするの?」

「俺は櫛枝と一緒に行くよ。高須は? どうやら亜美は来ないみたいだし、一緒に行くか?」

「その前に、北村、すまねぇが、川嶋に電話してくれねぇか? 俺は不覚にも携帯電話を昨夜壊しちまって、あいつに 連絡できねぇんだ」


北村は、「ああ、なら、ちょっとかけてみるか…」と呟いて、亜美に電話した。


「出ないぞ、亜美の奴。何だか、携帯の電源を切っているみたいだな」

「何だって? おかしいじゃねぇか。あいつが携帯の電源を切っているなんてのは、そう滅多にはねぇぞ」

「そう言えばそうだな。でも、そうなると、ますますこっちとしてはどうしようもない。亜美には悪いが、そろそろ出掛けた 方がよくないか?」


竜児は、首をはっきりと左右に振った。

「あいつは、昨日、櫛枝と差しで向き合うために、ここへ来るって言ったんだ。だから、俺はあいつのその言葉を信じる。
いや、信じてやらなきゃいけねぇんだ。それに、何か嫌な予感がする。俺は、あと五分待ってみて川嶋が現れないような ら、探しに行くなり、学生課に飛び込んで、呼び出しをして貰うつもりだ」

「嫌な予感だなんて、考え過ぎじゃないのか?」

「いや、ちょっと思い当たることがあるんだ。だから、北村に櫛枝、悪いが先に行ってくれ。俺も川嶋と合流したら、すぐにグラウンドに向かう」

「そうか…。高須がそうするなら、それでいい。じゃあ俺たちは先に行くよ」

「ああ、すまねぇ…」


呟くような竜児の一言に、北村と実乃梨は軽く頷いた。


「ほら、ご覧なさぁ〜い。あなたの彼氏は、あなたを見捨てて元カノと一緒に出かけるところだわぁ〜」

「ううう…」


瀬川の取り巻きに押さえつけられて、唸り声を上げている亜美にも、そんな雰囲気が察せられた。三人は、やがて亜美 のいる廊下に出てくるはずだ。そうなると、今の無様な姿を実乃梨に見られてしまう


「今の川嶋さんの姿を元カノに見せたら、どうなるかっていうのも興味深いけどぉ〜、私たちが川嶋さんを痛めつけて
いるのが彼氏とその友人に分かっちゃうのは、まずいわねぇ〜。ということで、隣の空き教室に連行よぉ〜」

「ちょ、ちょっと!」

見れば諍いだっていうのが明らかなのに、廊下に居合わせた数学科の男子学生は、我関せず、とばかりに無視してい る。大学は高校と違って、個々人の結び付きは希薄だ。故に、女子同士のトラブルに、わざわざ首を突っ込む男子学生 は居ない。

両腕の自由を奪われた亜美は、引きずられるように隣の教室に連れていかれた。そうして、押さえ込まれたまま、席に 着かされ、顔を廊下に面した窓に向けられた。


「もうじき、あなたの彼氏と元カノがここを通って行くでしょうねぇ〜。どう、見捨てられたってのが、間もなく証明される 気分はぁ〜」

「まだ、そうなると決まったわけじゃないわ!」


そうならない、という保証もない。竜児は、亜美が土曜日の講義のついでに会いに来ていると思い込んでいるとしたら、 亜美が来ないということに、さほどの疑念を抱かず、実乃梨と一緒に行ってしまう可能性の方がむしろ高いだろう。


「ほら、来たぁ〜」


瀬川が、鼻歌でも歌いそうなほど、呑気な口調で呟いた。
廊下に面した窓越しに、北村の頭が左から右へ移動しているのが見えた。次いで、実乃梨のショートカットの頭が通過 していった。
だが、それまでだった。


「あの子が来ない!」


瀬川が、予定が狂ったことに当惑して短い叫び声を上げると、一人、隣の教室を覗きに行った。 戻ってきた瀬川は、忌々しそうに眉をひそめている。その表情を見て、亜美は竜児が未だに自分を待ってくれていること を確信した。


「思惑通りにはいかなかったようね」

亜美が、瀬川の顔を睨め付けて言った。瀬川は、そんな亜美を冷たい瞳で一瞥したが、無言だった。狙いが外れるとは 思ってもみなかったのだろう。

もうしばらくの辛抱だ。実乃梨がこの建物を出てしまえば、大声で竜児に救いを求めることができる。

だが、この女には、言うべきことがあった。


「高須くんは、あんたが考えているような軽薄な人間じゃない。だから、あたしとの約束は必ず守る。後は、ここで大きな声を出して、高須くんに助けを求めるだけ。覚悟なさい」


瀬川が、きっ! と亜美を睨み付けた。


「うるさい小娘ねぇ。ちょっと、当てが外れることなんて珍しくないじゃなぁ〜い。それに、顔つきが険しいだけの一年坊 主なんかどうってことないわぁ。何なら、既にセックスで手なずけたペットの男どもにボコらせればいいんだしぃ〜」

「セックスで手なずけたとか、ボコらせるとか、本当に下品ね。あたしなんかよりも、あんたの方がよっぽど育ちが悪いん じゃないの。陰険で卑怯だし、ほんとにあんたって最低な女ね。現に、あたしや高須くんみたいな初学者に三次試験の 問題を出すような卑劣な奴じゃない、あんたは!」

「ちょっとルックスがいいだけの劣等生が、口のきき方に気をつけなさい。ほんとに生意気な小娘ね。減らず口ばかり叩 いていると、セックスに飢えているペットどもの慰みものにしてやってもいいのよ?」


瀬川が語尾を伸ばす独特のしゃべり方を止めている。その瞳からは侮蔑の色が消え、亜美に対する怒りと憎悪がたぎっ ていた。


「やれるもんなら、やってみなさい! そんな犯罪行為が許されるわけがないじゃない。本当にふしだらでおぞましい女 ね。あんたみたいな信義則に真っ向から反するような存在が法律職を志すなんて、どうかしてるわ!」

「信義則なんて糞喰らえだわ。試験の結果が全てなのよ。で、知力に秀でた私たちは、今年にも合格する。それだけの ことなんだわ」

「受かるもんですか! 世の中を嘗めきって、相手を見くびっているあんたたちが、最終合格なんかするもんですか! 合格して弁理士になれても、どうせあんたみたいな卑劣な女は法に触れることをしでかして逮捕、弁理士登録も抹消 されるのがオチだわ。そんなクズにあたしも高須くんも負けない、負けてたまるもんですか!!」


「ほんとにむかつく小娘だわ。どうやら本気でペットどもの肉奴隷になりたいらしいわね」


瀬川が、顎をしゃくって取り巻きに指示をした。亜美の背中を押さえていた女が、ポケットからハンカチを取り出して亜 美の口に押し込もうとする。
首を振って抵抗しながら、亜美は、実乃梨がこの理学部旧館を出て行った頃合いだろうと考えた。


「たすけてぇ!! た・か・す・くーーーーん!!」


声を限り亜美は叫んだ。この声なら、壁の向こうにいる竜児にも聞こえるはずだ。
瀬川は、舌打ちすると、亜美を押さえていた三人の女子学生に「その小娘はほっといて、退却よ!」と叫び、竜児が居る 教室からは遠い方のドアを指差した。
亜美の叫びを聞きつけた竜児が空き教室に飛び込んで来たのと、瀬川たち四人の女子学生が、竜児が入って来たのとは別のドアから出て行こうとしたのは、ほぼ同時だった。


「お前は、瀬川!」


ドアから出ようとする刹那、瀬川は、にやりと竜児に妖艶な笑みを返してきた。
その瀬川たちを竜児は追いかけようとしたが、座席にぐったりともたれている亜美に気づき、駆け寄った。


「川嶋、大丈夫か?! 奴らに何をされた?! 怪我はねぇか?!」


竜児に抱き抱えられながら、亜美はうっすらと目を開けた、


「け、怪我はないけど、怖かったよぉ〜。人の弱みをねちねちと陰湿にいたぶって…。あいつ、瀬川って、本当に悪魔か も知れない。あたしが、毎週ここに来ることを知っていて、待ち伏せしていたんだわ…」


そう言って、身震いし、竜児に縋りついた。


「もう大丈夫だ。心配いらねぇ。しばらく、ここでじっとして、落ち着いてきたら、今日はこのまま帰ることにしよう」


だが、亜美は、ゆっくりと首を左右に振って、竜児の提案を拒絶した。


「昨日のあたしの覚悟を翻すわけにはいかないよ。あたしは、実乃梨ちゃんから逃げないって約束したんだ。白状する とね、瀬川たちに捕まったのは事実だけど、実乃梨ちゃんが祐作と一緒に先に来ていることで、高須くんが居た教室に
入っていく勇気がなかった…。そこを瀬川たちに付け込まれたんだよ」

「て、おい、川嶋…」

「今度は、あたしは逃げない。あたしだったら大丈夫。だから、高須くん、あたしを実乃梨ちゃんのところに連れてってよ」

「川嶋…」


竜児は、亜美を、きゅっ、と抱きしめてから、亜美を立たせてみた。


「歩けるか? 川嶋」


亜美は、ふっ、と脱力したような笑みをたたえて竜児に頷いた。


「高須くんに抱いてもらって、高須くんのパワーを貰ったから大丈夫。歩けるよ…」

「そうか、でも、無理はするなよ」

「ありがとう、でも、実乃梨ちゃんとのことは決着をつけておきたいの。だから、あたし行かなきゃいけない…」

竜児は亜美のショルダーバッグを持とうとしたが、それは亜美の手によって遮られた。


「ほんとに大丈夫だから。バッグぐらいは自分で持てるよ」


亜美は、「よっ!」という軽い掛け声とともに重いバッグを肩に掛けたが、その瞬間に足元がふらついた。


「言わんこっちゃない…」


竜児が亜美の肩を支えてやろうとしたが、亜美は首を左右に振って拒絶した。


「今回、瀬川たちなんかに付け込まれたのは、あたしが思慮なく高須くんに甘えていたところを連中に目撃されたのが、 いけなかった…。大学は高校に比べて、みんな互いには我関せずといった雰囲気が強いから、多少は高須くんに甘え ても大丈夫って油断していたのね」


「川嶋…」


「でも、大学って、高校と違って、教職員が学生を学業以外ではほとんど束縛しないから、一般社会と同じように悪意の ある人間も野放しになっているんだわ。社会に悪意ある人間がいることぐらいモデルの仕事を通じて分かっていたは ずなのに、どっかにここは学校だから、何かが起こるにしてもたかが知れている、って嘗めていたのね…」

「それは俺もそうだよ…退屈だけど平穏な学園生活が続いていくものだとばっかり思っていたんだ」


しかも、大学には警察が滅多に介入してこない。一般社会以上の無法地帯であるかも知れないのだ。瀬川のような 非常識なほど悪辣な女が存在することが、それを端的に物語っている。


「そうよね、でも、それはあまりにも無防備だったんだわ。だから、四六時中、高須くんに甘えるような子供っぽいことは、 そろそろ卒業しなくちゃいけない。白状するとね、あたし、高須くんが本当にあたしことを好きなのか不安だったから、 必要以上に高須くんにベタベタしていたんだと思う」

「おいおい、信用ねぇんだな…」

「高須くんの真意は分かっている。だけど、思考と感情は別物なんだわ。だから、いざとなると、不安になるのね。そこを瀬川たちに狙われた。でも、そんなものから、いい加減脱却しなくちゃいけない。そのためにも、今日は実乃梨ちゃんと 差しで話して、自分自身の心に決着をつける必要があるんだわ」

「そうか…」


亜美の決意は固い。であれば、好きにさせてやるのが一番だ。

二人は、空き教室から廊下に出た。廊下からは既に学生たちの姿は消えていた。退屈で難解な講義から開放されて、 帰宅するなり、ショッピングに行くなり、あるいは今日以外の竜児と亜美のようにプチデートと洒落込んでいるのかも 知れない。

古い建物らしく、傾斜が急で滑りやすいリノリウムの階段を慎重に下り、埃っぽい理学部旧館から外に出た。

竜児は瀬川たちが待ち伏せしていないか気になった。それは亜美とて同じだった


「気をつけて、高須くん。瀬川たちも怖いけど、あいつらのペットが高須くんを狙っているかもしれないから」

「そう言えば、昨日、瀬川も言ってたけど、あいつの言うペットって何なんだろうな」


亜美は、羞恥からか嫌悪からか、頬を赤く染めていた。


「瀬川たちだけど、ほんとに最悪! あいつらの言うペットって、男子学生を、そ、その、セ、セックスで手なずけて、 言いなりにさせた連中のことなんだって…」

「うへ、まじかよ…」

「で、そのペットをけしかけて、高須くんをボコるとか、亜美ちゃんをペットたちの肉奴隷にするとか言ってたよ。 ほんとおぞましい。狂ってる、あいつら…」

「たしかに、冗談じゃねぇな…」


竜児は、感覚を研ぎ澄ませて、理学部旧館入口付近を伺った。だが、さすがにそこまではしつこくないらしく、瀬川と そのペットらしい者が潜む気配は感じられなかった。


「ねぇ、瀬川たちは、また狙ってくるかしら?」


亜美が、大きな瞳を不安そうに見開いている。


「どうなんだろうな、多分、連中にとって俺や川嶋は、からかい甲斐のあるオモチャみたいなものなんだろう。その程度 のものに、犯罪行為そのもので報いるとは常識的には思えねぇ」

「それは、そうなんだけど…、あたし、あいつらに『そんなクズにあたしも高須くんも負けない、負けてたまるもんです か!!』って啖呵切っちゃった…」


さすがにやりすぎた、と亜美は思った。相手の恐ろしさを考えずに、宣戦布告をしたようなものだからだ。


「そっか…」


竜児は、深くため息をついた。


「ごめん…、軽率だったね…」

「仕方ないさ、俺が川嶋と同じような状況だったら、同じようなことを言っただろう。ああいう連中に対して妥協は禁物 なんだろうな。妥協すればするほど、要求が苛烈になってくる。だから、川嶋は悪くねぇよ」

「でも、これからどうしよっか…」

「そういうことなら、なりふり構わず俺たちを潰しにくるかも知れない。頼りになりそうもねぇけど、今日実際にあったこと を学生課に相談するぐらいはしておこう。後は、自衛だな、できるだけ単独行動は避ける、俺や北村と一緒に行動した 方がいいだろう」


亜美は時計を見た、時刻は一時を過ぎていた。


「土曜日のこの時間では、学生課は閉まっちゃったばっかりね。月曜日に出直すしかないわ」

「ああ、その時は、二人で一緒に行こう。複数人が同じようなことを訴えれば、話に信憑性が出てくるし、さっきも言った ように単独行動は危険だ」

「そうね…。それと、合法スレスレだけど、あたし防犯スプレーを用心のために持ち歩くことにする…」

「えっ! 犯罪なんかで悪用されているあれか?! 入手できるのか?」

「ママに相談する。さすがに肉奴隷とか言ったら、ママはこの大学を辞めさせるだろうから、ストーカーがキモいぐらい の理由にしておくつもり。ママだったら、いろんな分野に顔が利くから、多分大丈夫。高須くんと祐作の分も『お友達も ストーカーに狙われているから』って言って手配してもらうよ」


唐辛子の成分で相手の目を眩ます防犯スプレーは、一種の武器でもある。それを使用すれば、正当防衛に当たるか 否かは判断が難しい。相手が素手の状態で使用すれば、武器対等の原則に違反して、相当防衛にはならない。だが、 まともな奴が相手ではないのだ。戦うためには、武器も必要となる。


「そのスプレーを使うのは、よっぽどの時なんだろうけど、あった方がよさそうだな…」


竜児の問い掛けに亜美は「うん…」と小声で言って、頷いた。
竜児は、亜美と並び、駅を目指してキャンパスをゆっくり歩く。土曜の午後ということもあって、人影はまばらだ。


「なぁ、川嶋…」

「なぁに?」


竜児の唐突な問い掛けを、亜美は反射的に訊き直した。


「北村から聞いたんだが、お前、土曜日には講義なんてないそうじゃねぇか…。それなのに、毎週律儀に出てきやがって、 それも、法学部の教室から理学部の旧館まで歩く時間まで考えて、わざとちょっと遅れて俺の居る教室に現れていた んだな」

亜美は、ふっと嘆息すると、瞑目した。


「ついにバレちゃったか…。そう、そうでもしないと、土曜日の午後は高須くんとデートなんてできないからね。高須くん には悪いけど、ちょっと嘘をついてたの。ごめんなさい…」


そうして、薄目を開けて、隣を歩いている竜児を観察した。竜児のことだから怒りはしないだろうが、不快に思っている かも知れない。


「いや、川嶋の気持ちに鈍感だった俺の方に問題があったんだ。何よりも、土曜の午後の散策を、俺は単なる買い物 程度にしか思っていなかった。出かけるところは下町の老舗とかの地味なとこばっかりだったし…。それで、川嶋は、 義理で俺に付き合ってくれていると思い込んでいた…」

「高須くんには、土曜日の午後、あたしが楽しそうには見えなかったんだ…」

「楽しそうには見えていた、でも本当に楽しいのか確信できなかったんだ。だから、無理に付き合ってくれているとかっ て思っていたんだな…」

「でも、それは間違い。それに気付いてくれた?」

「ああ、俺は川嶋亜美という女のことを少々誤解していたらしい。川嶋は、人目を引く外見とは裏腹に、思慮深くて堅実 だったんだな。それを示すサインは、一緒に行動していて、いくらでも目についたのに、文化祭のステージとかの派手な 印象が強すぎて、感覚的には納得できなかったんだ…」


竜児は、眉を苦しげにひそめている。亜美に対して懺悔するようなつもりなのだろう。
亜美は、淡い笑みをそんな竜児に向け、首を左右に振った。


「感覚的に納得できていなかったのは、あたしも同じ。高須くんは、本当はあたしじゃなくて実乃梨ちゃんのことを好き かも知れないって、感情が拭いきれていなかったのね。理屈の上では納得できても、感情ではそうじゃなかった…。 愚かなのは、あたしの方だわ」


その一言で、眉を苦しそうにひそめていた竜児の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「川嶋には詰られるとばっかり思って、内心はビビっていたんだ。でも、川嶋に逆に慰められちまった感じだな」


「慰めるだなんて、本当のことを正直に言ったまでだよ…。でも、そうした感情も今日限り。高須くんは、あたしが土曜日 の散策をデートのつもりで楽しんでいることを理解してくれた。あたしも、これから実乃梨ちゃんと向き合って、自分の 気持ちに決着をつけてくる。これでいいじゃない」

「ああ、そうだな…。だがよ、これだけは言わせてくれ」

「なぁに?」


竜児が言わんとすることは、亜美にも何となく察しがついた。


「今回、瀬川たちが待ち伏せしていたってことからも、毎週土曜日に大学で落ち合って出かけるってのは、止めた方が いいだろう」

「そ、そうね…」


残念ではあるが、竜児の言うことはもっともなのだ。今日と同じような行動パターンでは、瀬川一派に狙ってくださいと 自ら訴えているのと大差ない。


「だから、こうしよう。毎週待ち合わせ場所を変更して落ち合うんだ。その場所も、何か不具合があったら、携帯で連絡 を取り合って、安全な場所に変更する。これなら、どうだ?」

「う、うん…」


亜美は目を丸くして驚いた。


「おい、おい、意外そうな顔をするなよ。この俺だって、川嶋とのデートは楽しい。こんな楽しいことを簡単には中断でき ねぇだろ?」

「う、うん、ありがと…」


心が、何とも言えない暖かなもので満たされていくような感じがした。無理に理由を付けるとすれば、互いが同じ気持 ちだったから、とでもなるのだろう。だが、陳腐な理由付けなんて意味はない。幸せだ、この一語に尽きる。
これなら、太陽である実乃梨にも対峙できる。


電車に乗って、郊外のグラウンドを目指す。
竜児と亜美の大学のグラウンドは、大橋へ向かう私鉄沿線にあり、それも大橋駅から三駅ほど東京寄りの駅が最寄り 駅だった。
その駅を降りて、徒歩でグラウンドへ向かう。十分ほどでグラウンドには到着した。


「おぉ、高須に、亜美ようやく来たか」


竜児たちの大学側の内野席には北村祐作が待っていた


「ちょっと、川嶋がトラブルに巻き込まれていてな、それで遅くなっちまった」

「トラブル?」


北村が怪訝そうな顔をした。

その北村の顔を伺ってから、竜児と亜美は互いに目配せした。あまりにも異常な出来事なので、正直に打ち明けるべ きか迷ったのだ。

北村の存在は、瀬川たちも知っている。連中であれば、いつ何時、北村を当事者として事件に巻き込んでくるかも知れ ない。
そのためには正直に打ち明けるべきだろう。だが、今は竜児と実乃梨、亜美と実乃梨、のそれぞれについて決着 をつけるのが先決だ。


「ああ、詳しくは追って話す。それよりも、櫛枝はどうしている?」

「もう試合が始まっているよ」


見れば分かるのだが、北村はグラウンドを指差した。

「ピッチャーびびってる、ヘイ! ヘイ! ヘイ!」


よく言えば、明るく元気。悪く言えば、無遠慮に大きく、いくぶんは音痴かと訝るような歌声が、湿っぽい空気を震わせ、 グラウンドに響いていた。

竜児と亜美は、北村祐作と一緒になって、内野席からその声の主を注視した。

オレンジを基調にした派手なユニフォームを身にまとい、黒いバットを構える櫛枝実乃梨の姿が打席にあった


「構えは一段とよくなった感じだな…」


北村は、雲間から気まぐれに射し込んできた薄日で眼鏡のレンズをテカらせ、解説者口調で呟いた。


「そうなのか? 俺にはその辺はさっぱり分からねぇ…」


竜児も亜美も、ソフトボールの技術的なことが分からない、ということもあるし、竜児にとっても過去の彼女がどういっ たフォームであったのかが記憶にない、と言うべきなのだろうか。

竜児にとっては、はっきりと実乃梨に『ジャイアントさらば』されてからというものの、努めて彼女の姿は目で追わない ようにしていたから、もはや彼女のフォームは記憶の中にないということなのだろう。

スパーン!! 黒いバットが相手方の第一球を芯で捉えた。白い打球が、明らかにホームランと分かる勢いで飛び去っ て行く。守備側の選手たちがなす術もなく、その打球の行方を見守るように目で追う中、打球は外野のフェンスを軽々 と越え、ほぼ無人の芝生席に突き刺さるように飛び込んでバウンドした。


「一発かましたれ、ヘイ! ヘイ! ヘイ!」

打者一巡の満塁ホームランだった。

当のバッターは、してやったりの笑顔を浮かべ、ヘルメットも脱がずに、ジョギングするような風情でダイヤモンドを楽し そうに回っている。

守備側の内野手は、何の屈託もなさそうに、ちょっと調子が外れた歌声とともに喜色満面で往く彼女に気圧されたの か、遠巻きにするかのように道を譲った。

竜児や亜美、北村たちとは別の国立大学に体育専攻で進学し、今もなお、ソフトボールの選手である櫛枝実乃梨は、
グラウンド上で、きらきらとした太陽のような存在感を放っていた。


「やるな…」

「そうね…」

「ああ、櫛枝は男顔負けのパワーヒッターだからな。当たれば間違いなくホームランだ。それにスキルも高い。さっきの 構えから、そのスキルも相当に向上していると予想できたが、まさかこれほどとはな…」


一時はソフトボール部の部長でもあった北村が、自らの予測の正しさが立証されたことに満足したかのように、口元を ほころばせて呟いた。


「…早くも勝負あった、てぇ感じだな」


竜児はスコアボードを見た。一回表、打者四人目にして既に実乃梨のチームは四点を獲得していた。

この先も、竜児たちの大学のチームは容赦なく滅多打ちにされることだろう。ピッチャーズサークル上の選手の顔が、 もう泣きそうな様に見えるのは気のせいではないのかも知れない。

「まぁ、うちの大学のホームゲームだが、こっちは関東五部リーグ。櫛枝の大学は一部リーグ。実力差は当然だな」


北村が言うには、竜児や亜美、北村が通う大学の女子ソフト部は、一部リーグのチームとの練習試合によってレベルアッ プを目指すとのことらしい。しかし、いきなり一軍との対戦は無理なので、実乃梨をキャプテンとする一年生のみのチー ムとで試合をすることになったようだ。迎え撃つこちら側は、二年生、三年生を中心とした主力部隊である、のだが…。


「にしても、実力差がありすぎだろ? 一回の表でこのざまじゃ、先が思いやられるな…」


亜美も、『そもそも五部リーグって何?』と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。体育がらみの推薦入学制度とは無縁 の竜児や亜美たちの大学の運動部は、概ねこの程度のレベルでしかない。

例えば陸上部。その新入生勧誘のポスターには、『来たれ新入部員! 目指せ箱根駅伝!』などと勇ましいことが書い てあったが、箱根駅伝への参戦が叶うことは未来永劫ないだろう。

「まぁ、しょうがないさ。うちの大学は、文系でも必須科目を落とすと留年しかねないから、みんな結構真面目に勉強し ているからな。体育会系のクラブに所属していても、単位取得について何もインセンティブはないから仕方がない」


それでは、実乃梨のような体育専攻の推薦入学者、亜美が言うところでは『脳みそ筋肉』な連中に敵うわけがなかった。

亜美は、自分の大学のチームの選手と、実乃梨が率いるチームの選手とを見比べた。明らかに体のつくりが違う。

例えば、実乃梨たちは、二の腕等が筋肉ではちきれんばかりに充実しているのに対し、亜美たちの大学の選手は、 ほっそりとして見た目からして非力だった。
これは、ソフトボールの技術云々以前に、基礎的な体力からして次元が違っている。


「祐作ぅ〜、何なの、この違いは。実乃梨ちゃんたちは筋肉のかたまりみたいな感じだけど、あたしたちの大学の選手 は、みんなガリガリ、下手すればメタボなのが混じっているよ」


亜美のもっともな指摘に、北村はちょっと困ったような顔をしている。


「向うはフルタイムで練習できるエリート選手、こっちは、片手間の趣味の領域の運動部員、その違いだろうな。
言うなれば二軍とはいえプロに、草野球のチームが挑むようなものさ」


例えとしては、的を射ているが、それほどまでに差があるのでは、双方ともにメリットはないだろう。実乃梨のチームは 手応えがなさ過ぎて、ウォーミングアップにもならないだろうし、竜児や亜美たちの大学のチームには、一年坊主が 主体の二軍にも負けたという屈辱感しか残らないだろうからだ。

案の定、その後の展開も、『なぶり殺し』という表現がしっくりくるようなもので、竜児、亜美それに北村たちの大学の チームは、実乃梨の好投の前に一本もクリーンヒットを許されず、毎回毎回、三振の山を築き、守れば乱打され、 その焦りから凡ミスを連発し、それによっても失点を重ねた。

終わってみれば、二十一対ゼロ。試合前には竜児や亜美たちの大学のチームから、点差が開いてもコールドゲームに しない、という申し出があったそうだが、皮肉なことに、そのために屈辱的なトラウマを自ら背負い込むことになったに 違いない。

そんな中で、実乃梨たちは、投げて、打って、走って、グラウンドを縦横無尽に暴れ回り、敵チームを文字通り粉砕した。

特に、一年生チームのキャプテンを努める実乃梨の暴れようは、鬼神の如く、と言うべきものであり、鬼の形相での 全力投球、全力疾走、フルスイングは、観戦している竜児や亜美をして、「やりすぎなんじゃないか」と思わせるのに 十分過ぎる迫力があった。


ともあれ、竜児や亜美たちの大学の選手にとっては、想像を絶する惨敗ではあったが、延々と打たれ続けるという地獄 の責め苦は終わった。


「なぁ、高須、ちょっといいか?」


試合終了後、北村が、竜児を呼び止めた。


「どうした北村?」

「話があるんだ。よかったら、ちょっと一緒に来てくれ」


竜児は、北村の真意を計りかねたが、いつになく真面目な表情の北村を見て、「あ、ああ…」とだけ、頷いた。


「よし、じゃあ、決まりだな」

北村は竜児の腕を掴んで、ベンチから立たせた。

「祐作ぅ〜、高須くんをどうするつもりなの?!」


竜児を連れていこうとする北村に、亜美が不安気に訴えている。

だが、北村は、例の人畜無害そうな笑顔を亜美に向け、言い放った。


「いや何、櫛枝たちがミーティングを終え、シャワーを浴びて着替え終わるまでには時間がある。だからってわけじゃな いが、ちょっと高須と男同士で話し合いをしたくてな」

「ちょっと、ちょっと…」


亜美の抗議の声も虚しく、竜児はグラウンドに併設されているレストハウスに連行された。レストハウスといっても 殺風景なもので、昔の学食を彷彿とさせるような貧相なスチール製のテーブルにパイプ椅子が並んでいるという ような場所だ。壁はコンクリートが打ちっ放しで、フロアの隅には、清涼飲料水の自動販売機が二台置いてあった。

その一角に二人は差し向かいで腰を下ろした。フロアに居るのは、竜児と北村だけだ。


「どうしたんだよ、いきなりこんなところに引っ張り込んで」

「実はな、高須。今さらで悪いんだが、お前は亜美のことをどう思っているんだ?」


単刀直入な問い掛けで、出鼻をくじかれた。おかげで、月曜日に実乃梨を亜美に予告なしで会わせたことを抗議する タイミングを逸してしまった。
それどころか、竜児にとって言いにくいことを、いきなり訊いてくる。


「どうって言われてもなぁ…。まぁ、見ての通りだ」


北村の質問をはぐらかせないことは承知の上で、竜児は適当に言い繕った。


「それじゃ答えになっていない。お前は亜美のことをどう思っているか、と訊いているんだ」


案の定、突っ込まれた。

北村は、もったいを付けるつもりなのか、おもむろに眼鏡のレンズを拭き始めた。必要があればこういう所作によっても、相手に威圧感を与えることができる。キャリア官僚か政治家に向いているな、と竜児は思った。


「まぁ、憎からず思っているよ。そうでなけりゃ、毎朝、同じ電車で通学し、文理共通の科目を一緒になって予習して、 昼飯は俺が作った弁当を一緒になって食べ、講義が終われば、待ち合わせて一緒に帰るってことにはならんだろ」

「そうだったな、お前と亜美は、少なくとも付かず離れずの関係にあることは明らかだ。だが、それだけの関係か?」

「い、いや、違うと思う。もうちょっと深い関係だろう…」

「どんな風に深いんだ?」

「単なる友人としての関係を、ちょっとばかり超えているかもしれねぇ…」

言うべきことは明らかなのだが、それを口にするのは、シャイな竜児には少々厳しい。

「歯切れが悪いな、もっと明確に言えないのか?」


柔和な表情ながら、北村の追及は厳しかった。そもそも親友と言うこともあって、ごまかしが効くような相手ではない。 竜児は、観念した。


「か、川嶋は、俺を愛している…」


北村が、眼鏡の奥に光る目をしばたたかせた。


「それは、俺も亜美の幼なじみだ。それくらいは、あいつの雰囲気で分かる。で、肝心のお前はどうなんだ?」


そら来た、言うべきことは一つしかないのに、しかも相手は親友の北村だというのに、それを口にすることがものすごく 気恥ずかしい。だが、竜児に逃げ場はないのだ。


「お、俺も、川嶋が好きだ…」


言い終えて、額が汗でびっしょりなことに気が付いた。そう言えば、亜美との恋愛関係を男の友人に漏らすのは、 これが最初ではないか。


「ということは、お前は亜美を愛している、ということだな?」

「何だか、娘を嫁に出す父親みてぇなことを言ってるな」

「おい、おい、混ぜっ返すな。質問には、ちゃんと答えてくれ」


眼鏡越しに見える北村の目つきが心なしか険しくなった。こういうことは、長い付き合いの竜児にもあまり経験がない。 下手に逆らわない方が無難だろう。


「ああ、愛している。こないだの日曜日には二人で横浜に行ったんだが、川嶋への永遠の愛を、港の見える丘公園で 誓わされた」

「誓わされた? 消極的だな…」

「い、いや、川嶋に言え、と強要されたのは確かだが、誓いの内容自体は俺の真意だ。これに嘘はねぇ」

「そうか、永遠の愛を誓ったということは、お前たちは結婚するということだな?」

北村の追及は実にしつこい。法曹、それも検事あたりにも向いていそうだ。

「ああ、お、俺たちは、べ、弁理士になったら、け、結婚する」


亜美との結婚は、泰子も知らない。だが、勘の鋭い者であれば、察しが付くようだ。現に、横浜では、初対面の女子高生 たちに竜児と亜美が結婚することを見破られている。北村だって、分かっていながら、念のために訊いているのだ。

それでも、さすがに正直に言うのは気恥ずかしい。竜児の額には再び汗が吹き出てくる。
北村は、竜児の狼狽ぶりと、そのしどろもどろのコメントに一瞬相好を崩したが、すぐに表情を引き締めた。


「なぜ弁理士になってから結婚するんだ? 別に学生結婚でもかまわんじゃないか」


竜児は、瞑目して頭を大きく振った。


「いや、学生結婚なんてのは論外だ。恥ずかしながら、俺の家と、川嶋の家とじゃステータスが違いすぎる。しかし、家が ダメでも、当人が社会的に評価される資格を取得すれば多少はマシになるかもしれねぇ。それに川嶋も、このままだと  母親の思惑で局アナにされちまうらしい。それで、川嶋も弁理士になって、母親の企みを粉砕するつもりなんだ」

「お前は、亜美との結婚のために、弁理士になろうとしているのか?」

「概ね、その通りだ。もっとも、俺のような外観で先入観を持たれやすい人間は、何らかの資格でその能力を客観的に 示した方がいい、という判断もある」

「なるほど…、お前が真剣に亜美との結婚を考えていることが分かった。であれば、お前は、亜美のどこに惚れたんだ、 容姿か?」


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