竹宮ゆゆこ総合スレ SS補間庫
   

 

我等が同志(後編-3)

「容姿がいいに越したことはねぇ…。元モデルで女優の娘でもあるあいつの容姿は、まぁ、月並みな表現だが、まれに 見る美人と言っていいだろう。しかし、見た目は決定的な要素じゃねぇな。例えは悪いが、今ならばあいつがオカメや ヒョットコでも、俺はあいつを伴侶にするだろう」

「では、お前の言う決定的な要素とは何だ?」

竜児は、「う〜〜ん」と唸りながら眉をひそめた。正直なところ説明が難しい。要は、亜美が以前言ったように、 『気が合う』ということだろう。しかし、それでは客観性に欠け、説得力がない。
竜児は、しばし考え、言うべきことを吟味して、慎重に説明することを心がけた。


「うまく説明できねぇけどよ。あいつとは、ずっと同じ道を歩んで行けそうな気がするんだ。さっきも言ったように、俺たちは、 弁理士試験に挑戦しようとしている。本当に健気だよ、あいつは。弁理士試験は法律の資格試験だから、どうしたって 法学部の川嶋の方に分がある。でも、あいつは威張ったりせずに、ダメな俺をフォローしてくれている。
一方では、フランス語とか、あいつが苦戦している大学の科目もある。それは、俺との共同戦線でしのいでいるところだ。
俺と川嶋は、互いに支え合って、共鳴し、進歩し、成長していける。これが、決定的な要素だ」

北村は、腕を組んで、竜児の説明を聞いていたが、やがて「納得した」というつもりなのか、大きく首を縦に降って頷いた。


「今のお前の説明で、俺はお前の真意が理解できた。後は、その真意を、櫛枝にも明確に示してくれ」

「示すも何も、俺と川嶋が付き合っているのは、もう周知の事実だろ? いまさら、それを明確にしてどうするんだ」


北村は、ちょっと困ったような顔をして嘆息した。


「なあ、高須。現象面から他者が高須の立場や考えを判断するのと、高須自らがその立場と考えを明確にするのとで は、どちらの方に重みがあると思う?」

「そりゃ、後者の方だ」


何を当たり前のことを、と竜児は思った。

「だろ? であればだ、高須が亜美を愛しているということを、櫛枝に宣言してくれないか」

「宣言ってのは何だ? 大声で川嶋が好きだー、とでも叫ぶのか?」

「違う違う、宣言というのはだな、お前の立場や考えをはっきり示せ、ということだ。この後、櫛枝とお前が差しで話し合 う機会を設けるつもりだ。その場で、お前の揺るぎない立場と考えを櫛枝に示して欲しい」


それだけ言うと、北村は竜児に「そこで待っていてくれ」と言い残してて立ち去った。


「お、おい、いきなり俺と櫛枝の面談かよ!」


竜児の抗議にも似た問い掛けは北村に無視された。後に残された竜児は、仕方なく言われた通りに待つことにした。

月曜日に実乃梨を伴っていきなり現れた北村。そして今日という日に実乃梨の練習試合に竜児と亜美を半ば強引に 誘った北村。これまでのところ、その北村のせいで、ろくなことが起きていない。竜児と亜美との絆が以前よりも深まっ たとは言えるが、その過程に瀬川というとんでもない外的要因が絡んだこともあって、一歩間違えば破滅しかねない 危うさを孕んでいた。


「失恋大明神め、危なっかしい真似をしやがる…」


さらに北村は、竜児の立場や考えを、竜児自らが実乃梨に示すことにより、実乃梨の未練を断ち切り、 亜美と実乃梨の確執に終止符を打つつもりらしい。

竜児が実乃梨との差しでの話を終えたら、次には亜美と実乃梨を差しで話させるに違いない。そうであれば、実乃梨 に明確に自己の真意を伝えるとともに、次に予定されている亜美との面談が穏便に進むように配慮して実乃梨と向き 合わなければならない。

朴念仁の自分にそれが可能か? と竜児は不安になったが、最早土壇場、と腹をくくった。
それに、実乃梨と向き合うのに、小細工はいらない。誠心誠意をもって、対応するだけだ。

北村が中座してから十分ほど経過しただろうか、その北村が実乃梨を伴って戻ってきた。
その実乃梨と竜児は目が合い、思わず、他人行儀のように会釈をしてしまった。見れば、実乃梨も竜児に対して会釈し ている。実乃梨もそれなりに緊張しているらしい。


「じゃあ、高須に櫛枝、後は二人で思う存分に話し合ってくれ。もう、二人とも何を話すかを心得ているだろうし、それを 話す覚悟もできているはずだ。では、俺は、お邪魔だろうから、暫く退散するよ。ただし、話が一段落したら、高須はグラ ウンドの内野席に戻って来てくれ」

「お、おい、北村、ちょっと、待ってくれ!」


先ほどと同様に、竜児の呼び止めは一切耳に入っていないかの如く、北村は振り返らずに、レストハウスを出ていった。


「え〜〜と…」


目の前には暖色系のブラウスとスカート姿で、持ち前の明るさに可憐さが加味された実乃梨が座っている。 今までになくキュートな実乃梨を前にして、どうやって話を切り出そうかと、竜児は思いを巡らせた。


「こうして話すのは、本当に久しぶりだね…」

「お、おう…」


不意に実乃梨から話し掛けられ、竜児はちょっとばかりうろたえた。
高二の時に完全に袖にされてからというもの、こうした機会はついぞなかったように思う。


「試合は見てくれた?」

「ああ、川嶋や北村と一緒に、お終いまで見させて貰ったよ」


亜美の名を出したことで、実乃梨の表情が僅かにこわばったように見えた。しかし、それはほんの一瞬で、竜児がその 変化に気付いた時、実乃梨は元のにこやかな表情を取り戻していた。


「あーみんも来てくれたんだ。そっか、大学で待っていた時には、てっきり来ないものだとばっかり思ったけど、ちゃんと 来てくれたんだね」


「ああ、俺も川嶋も試合開始には間に合わなかったけど、櫛枝が一回の表で満塁ホームランを打ったのは見たよ」

「いやぁ、照れますな、あのホームランは…」


そう言って、本当に気恥ずかしそうに、人差し指で頬を軽く引っ掻いた。


「でも、すげぇ戦いっぷりだったな。もう、情け容赦なくこてんこてんつぅか、もう完膚無きまでに叩きのめしたっていうか…。 櫛枝のチームが強いからだが、俺たちの大学のチームが弱すぎたってのもあるな」

「それって、いっちゃあ悪いけど、弱い者いじめに見えた?」


実乃梨がドングリ眼をさらに真ん丸にして竜児を凝視している。一応は笑っているようではあるが、少々剣呑な感じは 否めない。
竜児は、思った通りのことを口にするか否か、少しばかり躊躇した。


「う〜ん、そうだなぁ、『いじめ』とまでは思わねぇけど、少々、やり過ぎっていうか、なんつぅか…。もう少し手加減してやっ てもよかったんじゃねぇか、という気はしないでもない…」


言い終えてから、まずったかな? と思いつつ、実乃梨の表情の変化を窺った。
しかし、実乃梨の笑顔はそのままだ。


「うん、うん、そだよね、それが常識的な感覚だと思うよ。だから、高須くんの言うことの方がもっともなんだよ。でも、私 は、スポーツっていうのは、相手が全力で戦う気力があるのなら、こっちも全力でそれに応えてあげるのが礼儀だって 思っているのさ。相手が弱いからって、手を抜いて戦ったら、それはその相手に対して、ものすごく失礼なことなんじゃ
ないかって思うんだよ」

「お、おう…」

「だから、この私と高須くんとの話し合いも、手加減なし、嘘偽りなしの真剣勝負でいくよ」

「そうだな…」


変化球ではなく、小細工のない剛速球での真っ向勝負。それでこそ櫛枝実乃梨だ、と竜児は思った。


「ちょっと、ちょっと、祐作ぅ、高須くんを拉致ったきりだと思ったら、今度はあたしまで、一体どういうつもりなの? 大体が、月曜日に実乃梨ちゃんを連れてきて、それが元であたしも高須くんも偉い目に遭ったんだからぁ!」


亜美は、自分の手を無理やりに引いて先導する北村祐作に抗議したが、当の北村はそれを完全に無視していた。

それに加えて、亜美をどこへ連れていくのか、なぜ連行するのかすらも説明してはくれない。


「さてと…」


二人は、レストハウスの裏口にたどり着いた。その裏口は、所々に錆が浮いている鉄製の扉で無愛想に閉ざされている。


「亜美、お前は、高須の真意を知りたかった、違うか?」


何を今さら当たり前のことを、亜美は半ば呆れて北村を見た。頭はいいが、どっかずれたアホなところがあるのが、 北村祐作である。それを幼なじみである亜美は、竜児と同様、よく知っていた。


「そ、そりゃ知りたいわよ。でも、この一週間で、あたしと高須くんとの間には色んなことが起こってね。それを通じて 互いの気持ちを確かめ合えた。だから、今となっては、以前ほど切実な問題ではないわ」

「まぁ、そう言うな。それにお前の言う、『気持ちを通じ合えた』というのは、高須との間だけの話だろ。違うか?」

「そりゃそうだけど…。それで何が不足なの?」

「お前が一番不審に思っているのは、高須と櫛枝の関係だろ? お前とは気持ちが通じ合えたかも知れないが、実は 櫛枝とも通じているんじゃないか、と疑っている。そうなんだろ?」


気になるところを突かれて、亜美は一瞬、「うっ!」と絶句した。


「そ、そりゃ…、そ、そうかも知れないわね。でも、いまさら高須くんと実乃梨ちゃんの関係をどうやって確認するの? 
二人をウソ発見器にでもかけるの?」

「そんな迂遠な手続きを踏まなくたって、もっと手っ取り早い方法があるだろうが…」


北村は、眼鏡の奥に光る瞳をキョトンとさせて、亜美を見ている。皮肉のつもりで言った『ウソ発見器』を真に受けているらしい。こうした常識離れした面はあるが、時折、恐ろしく即物的で現実的なことを言い出したり、しでかしたりする。
そうしたところは、油断がならない。


「祐作、あんたまさか…」

「まさか、というほどまずい方法ではないと思うがな。とにかく、この裏口から中に入る。入ったら、物音を立てずに高須 と櫛枝が居るテーブルのすぐ近くにあるコンクリートの太い柱に身を隠すんだ。そこまでは、余計なおしゃべりさえしな ければ、二人には気取られずに接近できる」


北村は、左手で亜美の手を引き、右手を裏口のドアノブにかけた。


「ちょっとぉ、祐作ぅ〜、これって覗きに、盗み聞きじゃない。誉められた行為じゃないわよ。第一、高須くんや実乃梨
ちゃんたちは、あたしたちが立ち聞きしていることを承知するわけがないじゃない。こんなの明かにアンフェアよ!」

「だが、こうでもしないと高須と櫛枝の関係がどうなのかは確認できないし、今後、こうした機会は最早ないだろう。
どうする? どうしても気が進まないというならやめておくが、それだとお前は、心のどこかに納得できないもやもや
したものを抱えながら生きていくことになる。それでもいいんだな?」

「う、うう…」


北村の脅しとも、すかしとも受け取れそうな言葉に、亜美はたじろぎ、言葉を失った。


「お前が気が進まないというのであれば、それでいいだろう。ただし、それなら、今後、高須が櫛枝と未だに何かあるん じゃないかっていう勘ぐりは一切なしだ。約束できるか?」


「そ、それは…」

「どうなんだ?」


畳み掛けるような北村の言葉と視線から逃れるように、亜美は無言でうつむいたが、やがて決意の程を示すかのよう に、瞳を大きく見開いて、北村に向き合った。


「いいわ…、あたし、二人の会話を聞く! どこか納得できないもやもやを払拭するためにも、高須くんと実乃梨ちゃん の会話をしっかりと聞き届けておきたい」

「よし、決まりだな」


北村は裏口のドアノブを回し、鉄の扉を慎重に開け、亜美を伴って内部に侵入した。安っぽいリノリウムの床は足音が 立ちやすい。亜美と北村は、泥棒のように息を殺して抜き足差し足で、竜児と実乃梨が向き合っている席の間近に立 つコンクリートの太い柱にたどり着いた。

北村が、口元に人差し指をあてがって、微かに「しっ…」と囁いた。亜美は無言で頷いて、耳を澄ませる。

その柱から五メートルほど離れた場所に座っている二人の会話が聞こえてきた。


「ねぇ、高校時代の私って、変な子だったでしょ? しょっちゅう意味不明なことばっか言ってたし、体育会系丸出しの がらっぱちでさ、まぁ、それは今でも同じなんだけど、もうちょっと高須くんの前では、女の子っぽい感じでいるべきだっ たかなぁ、なんて、ちょびっと後悔してるんだよ、これでも」

実乃梨が、「えへへへ」と、照れ笑いなのか、苦笑なのか判じがたい笑みを浮かべている。


「そうでもねぇよ。櫛枝が個性的だったのは確かだけど、それが櫛枝の魅力でもあると俺は思っている。それに、櫛枝のその屈託のない明るさが、俺には今でも眩しいんだ」

「眩しい…、そんな感じで高須くんは私を見ていてくれてたんだね。そっかぁ、眩しいんだぁ」


実乃梨は、目を細め、目尻を下げて、うふふ…、と笑った。その笑顔は、高校時代と何ら変わらない。竜児があこがれ、 胸をときめかせていたあの時と寸分違わぬものだった。


「俺だけじゃねぇ、川嶋も、櫛枝のことを『太陽』だって言っていた。あいつにとっても、櫛枝は眩しかったんだ」


昔の話や四方山話は十分だ、そろそろ本題に入らせて貰う、というつもりで、竜児は亜美の名を挙げ、実乃梨の反応を 窺ってみた。
実乃梨も、そろそろ核心に迫る頃合いと思っていたのだろう、笑顔をちょっと苦しげに引きつらせたような感じがする。

輝く太陽に薄雲が覆い被さったような趣だ。
その実乃梨が呟くように言った。


「あーみんかぁ…、月曜日は、あーみんにも高須くんにも本当に申し訳なかったよね。あんな風に喧嘩するつもりじゃ なかったんだ。本当に、あの件は、メンゴ!」


実乃梨は米搗きバッタのようにぴょこんと頭を下げた。そのコミカルでキレのいい動作も高校時代を彷彿とさせる。


「いや、月曜のことなら、あれは川嶋にも非があるからいいよ。それに川嶋も、もうそのことは気にしてねぇと思う」

「そっか、それならいいんだけど…。でもね、本音をいうと、月曜日に高須くんの大学の学食で、高須くんと仲良くお弁当 を食べているあーみんを見たら、何か複雑な心境になって…。で、つい、あーみんといざこざを起こしちまった、っていう 感じなんだ」


−−複雑な心境ときたか…。

亜美の言うように、実乃梨には未だに未練があるのかもしれない。その実乃梨に亜美と結ばれることを宣言するのは、 非道とも思えた。しかし、北村と約束した以上、避けては通れない。


「な、なぁ、櫛枝からは、弁当を食べている俺と川嶋はどんな風に見えたんだ?」

「ものすごく仲がよさそうに見えた…、っていうのは月並みだけど、あーみんが高須くんのことを大切に思っているこ とが伝わってきたし、高須くんもあーみんのことを大事に思っていることが何となくわかるんだ。それで、ちょっと、ね…」


実乃梨の表情がさらに苦しげになった。彼女にとって、この話題の核心に触れることは、やはり辛いのだ。


「櫛枝…」

だが、実乃梨は気丈にも笑顔を竜児に向けてきた。


「あ〜っ、やだなぁ! こんな風にウジウジ言うなんて、全然櫛枝実乃梨っぽくない。そうだよ、言いにくいことはずばっと 言う!!」


まるで自分を叱咤するかのように叫ぶと、実乃梨はドングリ眼をぱっちりと開いて竜児を凝視した。


「お、おい、櫛枝…」


戸惑う竜児にはお構いなしに、立ち上がって声を張り上げた。


「えーい、畜生! もう、やけのやんぱち、破れかぶれ、恋に破れた哀れな乙女、諸般の事情で別れてみたが、未練たら たら、た〜ら、たら。忘れてみようと努力はすれど、切ない思いは消えやせぬ。月日が流れ、相まみえれば、振ったつもりが振られてた! 恋に破れた哀れな乙女、救いを求めてソフト三昧。白球追いかけ猛練習。されど心は満たされず、 女一匹どこへ行く! あ〜こりゃ、こりゃ」


声を限りに叫んだのだろう、実乃梨は膝に手をやって、うつむき、息を整えている。打ちっ放しのコンクリートが殺風景 なレストハウス内に、「はーっ! はっー! はーっ!」という実乃梨の荒々しい呼吸音が残響する。


「櫛枝…、お前…」


実乃梨は竜児の問い掛けにも応えず、うつむいたまま、ひたすら荒々しい息遣いを続けている。


「ご、ご免、ちょ、ちょっと息が続かなくなっちゃって…」


そう言って、実乃梨が顔を上げた時、その林檎のように艶やかな頬が濡れていた。


「お前、涙が…」


その涙で濡れた頬をほころばせて、実乃梨は竜児に微笑んだ。


「いやぁ、人間、年をとると、涙もろくなっていけねぇや。まぁ、白状しちまえばぁ、ざっとこんな具合。私は高須くんとは ジャイアントさらばしたはずなのに、やっぱ未練があるんだよ。で、月曜日に、あーみんと仲睦まじい高須くんを見て、 なんかむかっ! というか、むらっ! というか、そんな気持ちになっちゃったんだね。で、あーみんと大喧嘩、 笑っちまうぜ」


実乃梨は、右手の甲で涙を無造作に拭った。


「櫛枝…」

「でもさぁ、高須くんとあーみんを見て思ったのは、悔しいけど、私じゃ今のあーみんには敵わないってこと。月曜日に あーみんと高須くんを見たのと、今日、あーみんを信じて待つ、って言ってた高須くんを見て、もう、私の出る幕じゃないっ ていうのを思い知らされたんだよ。恥ずかしい話だよね。さっきの即興の台詞そのまんま。私が高須くんを振ったつもり が、結果的には振られていたんだよ…」

「もしかして、お前…」


その先は、『スカートとかで女らしくしてきたのは、俺への未練故だったのか』と、続けるつもりだった。だが、涙を拭い ながら、無理矢理に笑顔を作り上げている実乃梨を慮って、竜児は口を噤んだ。
実乃梨は、そんな竜児の思いを察したのだろう。


「そう、今日、私がこんな格好で来たのは、高須くんの気を引くためなんだ。もう一度高須くんと仲良くなれたらっていう、 下心があったから。勝手にジャイアントさらばしておきながら虫のいい話だけど、それでも高須くんともう一度やり直し たい、今度は親しい友人で終わらずに、今のあーみんみたいな立場になりたいって思っているんだ」


実乃梨は、鼻をすすった。涙は止むことなく実乃梨の頬を濡らし続ける。


「でも、ダメ、今のあーみんには全然敵わない。あーみんは変わったよ、高校の時とは…。美貌を鼻に掛けるような 雰囲気は全然ないし、上辺だけの派手さがなくなって、落ち着いた感じがする。そして、何よりも高須くんのことをもの すごく大切にしていることが、嫌でも分かっちゃうんだ。それに高須くんも、もう私のことなんかどうでもよくて、あーみん を一番大事にしている。もう、私には全く勝ち目がないのにね、それでも高須くんへの未練は消えないんだ」

「どうでもいい、なんて俺は思っちゃいない。俺だって、今でも櫛枝のことは…」


竜児は慰めのつもりで実乃梨に語り掛けた。しかし、実乃梨は竜児の眼前に掌を突き出して、それを制止した。


「ダメだよ、そっから先は言っちゃいけない。あーみんのためにも言っちゃあいけないんだ。高須くんにはあーみんが 要る、あーみんには高須くんが必要なんだよ。だから、私がこんな未練なんか捨てっちまえばいいのさ」


実乃梨の言動があまりに痛々しく、竜児は耳を塞ぎたくなった。だが、彼女の言葉を聞き届けることが、彼女の願いで あると思い、一言一句聞き漏らすまいと、神経を集中させた。

「ただ、人の心は、スイッチを切り替えるように簡単に割り切れるものではないし、そこにある未練を消すこともできない。
でも、押さえ込むことはできるかもしれない。そのためには、現実を思い知る必要があるんだよ。だから、私は高須くん の口から現実を知らなきゃいけない。お願いだよ、高須くん、今、ここで高須くんの真意を高須くん自身の口から聞きた いんだ」


そうやって長広舌をふるった実乃梨は、「はい、高須くんのターン」と呟いて、涙を手の甲で拭った。


「お、おう…」


いかし、如何に切り出すべきか、竜児は未だに迷っていた。いくら何でも、『いや、実は、川嶋と結婚することになった』
では、実乃梨に対して済まないし、あまりに芸がなさ過ぎる。

「何でもいいよ、あーみんとののろけ話でも何でも…。そうだ、高須くんはあーみんのどこが気に入ったの? やっぱ、
あの美貌? あーみんは可愛いからねぇ…」

話し始めない竜児に業を煮やしたのか、実乃梨が呼び水よろしく話題を振ってきた。竜児にとっては渡りに船である。

「美貌っていうか、見た目は、俺にとってはそれほど重要じゃねぇ。問題なのは中身なんだ。でも、最初、あいつを見た時
は、正直、なんて嫌な女なんだろうって思った…」

「どうして、あーみんが嫌な女だって思ったんだい?」

「実は、櫛枝がバイトしてたあのファミレスで、あいつと初めて会った時、北村と一緒に物陰に隠れて、あいつが本性を
出すのを見たからなんだ。そのときの印象が後々まで尾を引いて、なかなかあいつの良さが分からなかった…。その点
はあいつに、川嶋に済まないと思う」


柱の陰では、亜美が柳眉を逆立てて憤慨していた。

「ちょ、ちょっと、祐作ぅ、今の高須くんの話はどういうこと? あたしがタイガーにビンタを喰らった時のことでしょ? 
それを高須くんと一緒に隠れて見てたのぉ?!」

「ああ、そんなこともあったかな?」

素なのか、とぼけているのか、北村は、上目遣いで「う〜ん」と唸った。

「なんで、そんなことをしたのよぉ、そのおかげで最初、高須くんに嫌われていたんじゃないのぉ。道理で高須くんが
亜美ちゃんの誘いに乗って来なかったわけだわ。とにかく、祐作ぅ、あんた、これが終わったらリンチにしてやるからね」

言うが早いか、北村のつま先を靴の踵でグリグリと踏みにじった。

「痛い、痛いじゃないか。お前の怒りはもっともかもしれんが、今は頼むから静かにしてくれ。あんまり騒ぐと、高須と 櫛枝に俺たちが隠れていることがバレてしまう」

「分かったわよ…」


業腹ではあったが、北村の言うように二人にバレては一大事だ。亜美は、不満げに頬を膨らませたまま、竜児と実乃梨 の話を大人しく聞くことにした。


「だから、最初、川嶋から『あたしたち気が合うじゃない』って言われたときは、何かの冗談だと思ったくらいだ。でも、 それから、あいつの本当の良さがだんだんと分かってきた…。川嶋とは一緒に受験勉強してきたんだが、その過程で、 あいつの健気さや、俺への思いが伝わってきたんだ。川嶋はモデルの仕事が忙しくて自主的な勉強はできなかった から成績はあまり良くなかったし、俺も高二の時はいろいろあって、学力が一時停滞していた。そんな俺と川嶋は、 二人で励まし合いながら、二人三脚のようにして何とか合格までこぎ着けたんだよ」

「あーみんは健気だからね、その点でも私はあーみんに敵わないや。私は協調性がないから、あーみんみたいに高須 くんと二人三脚はできないよ。きっと、鉄砲玉みたいにあさっての方向にすっ飛んでって、高須くんに迷惑をかけるのが オチだから…」


それはそうかも知れない、と竜児は思った。同時に、亜美が言った、『月である竜児は、太陽である実乃梨に焼き尽く されるだけ』の意味が漸く分かったような気がした。


「そして、俺と川嶋は、今また、新たな共通の目標に向かってスタートしたところだ…。櫛枝は弁理士って知ってるか?」


実乃梨は、怪訝な顔をして竜児を見た。


「弁護士じゃないよね? 弁理士? 聞いたことないなぁ」


実乃梨の反応は、竜児も想定済みだ。知的所有権が重要視されるようになった昨今であっても、弁理士は一般には 理解されていないと言ってよい。

「英語では『patent attorney』、直訳すれば『特許弁護士』ということになる。実際には、弁理士になってから、さらに 特定侵害訴訟代理業務試験という試験に合格しないと弁護士のように訴訟の代理人にはなれねぇが、 まぁ、知的所有権に関する代理人ということで、『特許弁護士』と言ってもいいかも知れねぇ」

「弁理士になるには、試験とかに合格しないとダメなんだよね?」

竜児は顎を引くようにして軽く頷いた。

「ああ、弁護士になるには司法試験に合格しなければならねぇが、弁理士も弁理士試験に合格しないとダメだ。しかも この弁理士試験は司法試験に準ずる難易度だとされている。とにかく大変な試験であることは間違いねぇ。
その弁理士試験に、俺は川嶋と一緒に挑戦するつもりだ」

「そうして、大学の受験勉強の時と同じように、あーみんと励まし合いながら頑張っていくんだね…」

実乃梨が憂いを帯びた淡い笑みを浮かべている。

「ああ、そうだ。俺と川嶋は、互いに同じ道を、同じ志を持って歩んでいく。二人とも弁理士になれたら、事務所を共同で 経営するのが夢なんだ。俺と川嶋は私生活だけじゃなくて、仕事の面でもずっと、ずっと、一緒なのさ。
単に惚れた腫れたにとどまらない、俺と川嶋は同盟者であり、同志なんだ」


言うべきことを全て言ったと思い、竜児は改めて実乃梨を注視した。実乃梨は、竜児の視線に応えるかのように、 微笑みながら微かに頷いた。


「ありがとう、高須くんとあーみんが、もう互いに離れられない存在だってのが嫌っていうほど分かったよ。でも…」

「でも?」

「高須くんは、『単に惚れた腫れたにとどまらない』って言ってたけど、あーみんのことを愛しているって、言ってない」


そう言えばそうだった。『単に惚れた腫れたにとどまらない』だけでも十分意味は通じるということと、無意識な照れが あって、言えなかったのかも知れない。


「高須くんが、あーみんを愛していることを私にきっちり伝えてくれないと、私は未練を制御できない。頼むよ、高須くん。
あーみんを愛しているんなら、それをこの場ではっきり言っておくれよ」

それは、『とどめを刺してくれ』と言わんばかりの要求だった。だが、それで実乃梨のためになるのであれば、 告げるしかない。


「そうだな、言葉が足りなかったようだ。俺は川嶋を誰よりも愛している。川嶋も俺のことを誰よりも愛してくれている。
そして、二人とも弁理士になれたら、結婚する。以上だ…」


その瞬間、一時は枯れていた実乃梨の涙腺が再び溢れ、大粒の涙が滴った。実乃梨は、しばらく無言のまま茫然とし て、涙が流れるままにしていたが、やおらポシェットから取り出したハンカチで、顔面をごしごしと、ちょっと乱暴に拭った。


「へ、ちょ、ちょっと、このレストハウスは暑いから、目から汗が出ちまったぜぃ! まぁ、とにかく、高須くんにはおめでとう と言わせて貰うよ。高二の夏休みに高須くんは幽霊を見たって言っていたけど、その高須くんにとっての幽霊が誰で あるかがはっきりしたわけだ…」

「お、おう」

「そして…」


実乃梨は、間近にあるコンクリートの柱を指さした。


「高須くんの幽霊は、そこに居る!」


その宣告を受けて、柱の陰からは、「祐作のバカ! あんたがへまするから実乃梨ちゃんにバレちゃったじゃないのぉ」、
「いいや、お前がくだらん過去のことで俺を詰るから櫛枝に気取られたんだ!」という言い争いが聞こえてくる。


「川嶋に北村か? お前ら、いつの間に…」


その柱の陰からは、亜美と北村が、きまり悪そうに這い出てきた。


「や、やぁ、高須に櫛枝、ちょ、ちょっとお前たちの話の展開が気になったもんでな。そ、それで、悪いが、ちょっと立ち聞き をさせてもらった」


図々しいところがある北村も、さずがに動揺しているのか、どもりがちだ。

北村ほどの図々しさを持ち合わせていない亜美は、青菜に塩といった塩梅でうなだれている。


「あははは、北村くんらしいや。北村くんは、私と高須くんの会話を、あーみんに聞かせるために、こんなことをしたんだ。 でも、策士策に溺れるだね、まさに」

「ま、まぁ、そういうことなんだ…。正直な話、亜美が高須の本当の気持ちを知りたがっていた。それでちょっと問題の あるやり方だったが、二人の会話を聞かせて貰ったというわけだ。済まなかったな、高須に櫛枝」


「ちょ、ちょっと、祐作ぅ! その言い方じゃ、まるで亜美ちゃんの方からあんたにお願いしたみたいじゃないのぉ。
あんたが説明もなく強引にあたしをここへ連れてきたんでしょ!」


亜美は北村に詰め寄ったが、北村は上を向き、亜美とも、竜児とも、実乃梨とも、目線を合わせずに、素知らぬ顔を 決め込んでいる。


「いいってことよ! 今回は、あーみんが高須くんのほんとの気持ちを確かめるってのもあるけど、私の未練をどうにか するっていうことも大事だったからねぇ。内緒のつもりで話した本音を、あーみんや北村くんに聞いてもらった方が、 結果としてよかったんだよ。だって、あーみんや北村くんに聞かれたら、もう、未練を押さえるって言ったことに引っ込み がつかなくなるからねぇ」

そうして実乃梨は、また屈託なく笑うのだった。竜児は何か声を掛けるべきかと思ったが、その実乃梨の目にうっすらと 涙が光っているのを認め、言おうとした言葉を慌てて飲み込んだ。 その代わり、竜児は亜美に向き直った。


「川嶋、まぁ、聞いての通りだ。俺はお前のことを誰よりも愛している。嘘も偽りもなく、だ。これだけは信じてくれ。それと、 櫛枝とも和解してくれ。たしかに、お前が危惧したように櫛枝には俺への未練があった。だが、櫛枝は、それを制御する つもりでいる。その点は櫛枝を信じてやってはくれねぇか」


亜美は、涼やかな瞳を竜児に向け、その言葉に聞き入っていたが、やがて納得したつもりなのか瞑目して頷いた。


「そうね、祐作が余計なことをしたけれど、あんたや実乃梨ちゃんの真意を知ることができたのはたしかなんだわ。高須 くんがあたしを愛してくれているように、あたしも高須くんのことを愛し、高須くんの愛に報いなくちゃいけないわね…」


そして、亜美は、いくぶん遠慮がちに、実乃梨と向き合った。


「実乃梨ちゃん、月曜日は喧嘩ふっかけるようなことをして、ごめんなさい。それと、祐作と一緒に盗み聞きしていたのも ごめんなさい…。でも、そのおかげで、あたしも実乃梨ちゃんの気持ちが理解できた。月曜日は、実乃梨ちゃんが言って いたように、あたしも突然現れた実乃梨ちゃんを見て、複雑な心境になったんだよ。で、大喧嘩なんだから、あたしって
どんだけバカなんだか…」

実乃梨は、「いや、いや…」と呟きながら首を左右に振った。

「月曜日の一件は、そもそも私が北村くんに無理言って、あーみんと高須くんに引き合わせてくれって、お願いしたのが いけなかったんだよ。だから、責任の一端は私にあるし、さっきも言ったように、高須くんと仲睦まじくしているあーみん を見てむかついたのも事実なんだ。それに笑っちゃうよね。高須くんへの未練を断ち切ることができないのまでバレ
ちゃったし、ほんと格好悪いや」

「でも、それは、あたしも同じ…。人は機械じゃないから、嫌なことや苦しいことを簡単に忘れたりなんかできないんだわ。 だから、あたしは実乃梨ちゃんの言葉を信じる。未練は断ち切れないけど、現実と向き合って、それを克服するっていう のはすごく重みのある言葉だった。そして…」


亜美は、おずおずと右手を差し出した。その手が微かに震えている。


「み、実乃梨ちゃんとは、い、色々あったけど、で、できれば、昔のようにまた友達でいたい…」

差し出された右手が、実乃梨の両掌に包まれた。


「私も、昔みたいに、あーみんと友達になりたいよ。正直言うとね、今は、未だ辛いんだ。高須くんと一緒のあーみんが やっぱり羨ましくてしょうがないんだよ。でも、それは現実を理解した上で克服しなくちゃいけない。だから、勝手だけど、 私の気持ちの整理がついたら、昔のように、あーみんや、高須くんや、北村くんたちと一緒に遊ぼうよ」


「う、うん…」


亜美が左手を口元に当てて、声を詰まらせている。泣きたいのを懸命に堪えているのだ。


「よし、予定では、この後は亜美と櫛枝の面談だったが、この様子だとそれは蛇足だな。どうする? 亜美と櫛枝に異存 がなければ、これで手打ちということにしたいのだが…」


失恋大明神こと北村祐作が、場を取り仕切ろうとした。意味もなく裸でうろついたり、人の話を盗み聞きするような、 公序良俗に少々難ありな人物だが、たしかにある種の統率力めいたものは備わっているらしい。

亜美も実乃梨も、その北村に無言で頷いて賛意を示した。


「じゃあ、きょうはこれでお開きということにしよう」

「俺と川嶋は、このまま電車に乗って大橋に帰るけど、北村と櫛枝はどうするんだ? 特に櫛枝は、他県にある大学の 寮に戻らないとダメなんじゃないか? 荷物とかもあるし…」

竜児の問いに実乃梨は微笑した。


「いやぁ、またキャプテンとしての特権を行使させてもらってね。私の荷物はチームのメンバーが寮に運んで行ってくれ たのさ。もう、みんなバスで私の荷物と一緒に出発しちゃったよ。何せ、実家近くまで来たんだから、今日は実家に泊ま るつもりだよ。すでに寮には外泊許可もらってるし」

「じゃ、じゃあ、高須くんや祐作ともども、みんなで帰りましょうよ」

「いやぁ〜、あーみん、メンゴ。失恋しちまったおいらは、ちょっくら失恋大明神様を拝みたいんだ。第一、おいらは お二人さんにとって、お邪魔虫だから、別行動とさせてもらうよ」

「そ、そう…」


北村が無言で頷いている。こうなることを予想して、実乃梨と北村の話し合いは最初から予定されていたのだろう。


「そういうことなら、悪いけど、櫛枝に北村、俺と川嶋は、お先に失礼するよ」


竜児と亜美は、荷物を持ち、居残りの二人に軽く会釈をしてレストハウスを後にした。
レストハウスの窓から、歩み去っていく竜児と亜美の後ろ姿が見える。それを茫然と見送りながら、実乃梨がぽつりと呟いた。


「やっぱり高須くんって、いい奴だったよ…」

「そりゃ、そうさ。俺の親友だし、かつてはお前とも恋仲だった。そんな奴が悪いわけがないじゃないか」

「あーみんも、いい奴なのかも知れない…」

「そうだな…」

「畜生! あーみんは果報者だぜ。あんな優良物件を旦那にできるんだから。やっぱり羨ましくってしょうがねぇや」


実乃梨は、北村に背を向けたまま、鼻をすすり上げた。もう、未練は押さえ込むという約束だが、人の心は機械仕掛け じゃない、そんなに器用に制御なんてできないことを今さらながら思い知らされる。


「櫛枝、今は未だ気持ちの整理がつかないかもしれないが、高須と亜美の行く末を良かれと思ってくれ」


「う、うん、未練はあるけど、あーみんのことを恨んだりしないよ、それは約束する…」

「亜美は母親に反発して女優にならずに高須と同じ大学に行き、高須と同じように弁理士を志している。それは、母親 である川嶋安奈にも認めてもらえるだけのステータスを二人揃って手に入れるためなんだ。二人が行く道は想像を絶 する困難の連続だろうし、高須ともども弁理士になっても、亜美の母親は二人の仲を認めないかも知れない。しかし、 それでもあの二人は頑張るつもりなんだ。」

「そうなんだ…」


北村には、実乃梨の後ろ姿が一瞬、萎んだように感じられた。

「どうした、櫛枝?」

「やっぱり、あーみんには敵わないや。私だったら、親に反発してまで好きな人と一緒になれない…。あーみんと私とじゃ 覚悟が全然違うんだ…」

「櫛枝、そんな弱気はお前らしくない。今は気持ちが萎えているからマイナス思考に陥っているが、ゆっくりでいいから 気持ちを切り替えて、元の明るさを取り戻してくれ」

「う、うん…」

「それに、櫛枝。失恋の特効薬は、新たな恋だ。明るくて屈託のないお前なら、ふさわしい相手が必ず現れるさ。その時 には、きっと辛い思い出も癒される」

「私みたいな子に、ふさわしい相手って、見つかるの?」


そう、力なく問いながら、実乃梨は溢れてきた涙をハンカチで拭った。一日でこんなに何度も何度も泣いたのは、一生のうちで初めてかもしれない。
その実乃梨の後ろ姿を労るように、北村は穏やかな口調で語り掛けた。


「大丈夫だ、この俺が保証する。何せ、俺は失恋大明神なんだからな」





「ねぇ、明日は何をやるのか、覚えている?」

駅へ行く道すがら、亜美が出し抜けに訊いてきた。もちろん、何をすべきか竜児も分かっている。


「おう、川嶋さえよければ、予定通りデートだな」


亜美が、それまでのこわばった表情を、安堵したかのようにほころばせた。


「そっか、覚えていてくれたんだね。そう、月曜日に約束したように、明日はデート。で、どこに出掛けるか決めてくれた?」

「はっきりとは決めてねぇけど、映画を見てランチしたり、テーマパークで遊ぶってのを考えてるよ」


竜児が、ちょっと照れたような表情をしている。その表情には、『どうだ、これならいかにもデートっぽいだろ?』という つもりもあるようだ。
しかし、亜美は、わざと眉をひそめて、竜児の提案を一蹴した。


「え〜?! そんなの月並みじゃん。つまんないってぇ」

「え、そ、そうなのか?」

亜美の反応は、竜児にとって予想外だったのだろう。三白眼をきょときょとさせているのが、亜美はおかしかった。


「もう、高須くんはセンスないんだからぁ〜。しょうがないから、明日は亜美ちゃんが考えている通りにいこうよ」

「お、おう。で、明日はどうするんだ?」


亜美は、目を細めたお馴染みの性悪笑顔で竜児の顔を覗き込んだ。


「そうねぇ…。まずは神田神保町の古本屋、そこでデートしましょ」

「ふ、古本屋?!」


竜児が理解不能といった面持ちで目を白黒させている。


「そしてぇ〜、次は浅草を散策」

「あ、浅草ぁ?! ちょ、ちょっと待て、お前、以前は浅草なんかババ臭いとかって毛嫌いしてたんじゃねぇのか?」


亜美は困惑した竜児の反応を楽しむように、意地悪くとぼけてみせた。


「え〜っ? 亜美ちゃん、そんなこと言ってねぇんですけどぉ〜。高須くん大丈夫? 亜美ちゃんと一緒に居られる幸せ で、興奮して脳みそが茹だっちゃったんじゃないの?」

「バ、バカ言え!」

「ふぅ〜ん、まぁ、異常な人ほど自分は正常だと思い込むらしいから、しょうがないわね。で、浅草の後は、合羽橋で高須 くんは中華鍋、あたしは包丁を買う、ってのを考えてるので、よろしく」

「合羽橋ぃ?! しかも包丁だとぉ?! なんか危ないな…」

「うん、高須くんも、異存はないよね? ほら、先週の中華街での買い物が、ものの見事に不発だったからさぁ。だから、
もっといい品が揃っていそうな合羽橋に行くわけ…」

「そ、それは、いいけどよ…」


竜児が妙に落ち着きをなくして、キョドっている。亜美はおかしくなった。一度は亜美が拒絶した合羽橋行きを亜美の 方から提案してきたことが不可解であることに加え、亜美が『包丁』と言ったことを剣呑に思っているらしい。

たしかに、その包丁を、昨日のショルダーバッグのように振り回されたら、物騒でかなわない。

「特にぃ、包丁の購入は外せないわねぇ。うちの包丁は、ステンレスの奴だから、高須くんが使っているのとじゃ切れ味 に雲泥の差があって、使いにくいのぉ。で、亜美ちゃんも本格的に家で調理するために、マイ包丁を買っておくってわけ」

「お、おう、そ、そうなのか?」


竜児が、心なしかほっとしたような表情を浮かべている。本当に分かりやすい人だと、亜美は思う。だから、もうちょっと、 からかってあげたくなる。


「そう、包丁って、色々と使い道があるじゃない? 切れ味が良ければ良いほどぉ…」

「い、色々って何だよ?!」


竜児が、今度は、訝るような眼差しで亜美を見ている。それが亜美にはおかしくてたまらない。


「う〜ん、そうねぇ。例えばぁ、高須くんが、亜美ちゃんへの永遠の愛を違えたときは…」


そう言って、竜児の脇腹へ、指をまっすぐに揃えて包丁に見立てた右手を、「えいっ!」とばかりに突き立てた。


「うわぁ! 冗談じゃねぇよ。勘弁してくれぇ!!」


左脇腹を押さえて、亜美の傍から逃げるように飛びすさった竜児を見て、亜美は腹を抱えて笑い転げた。


「あはは! 冗談よ、そんなこと絶対にしないわよ。本当に臆病者なんだからぁ!」

「お、おう…」

「まぁ、今日の調子だと、当面、高須くんは、あたしを裏切ることはなさそうだし、あたしも高須くんを裏切ったりしない から、そんな刃傷沙汰には、なりっこないわよぉ」

「そ、そうか。でも、今のは洒落にならないほど、びっくりしたぜ…」


未だ動悸が治まらないのか、竜児はちょっと呼吸を乱している。普段は沈着冷静なくせに、妙に小心なところがあって、 そんなところが、かわいらしいと亜美は思うのだ。


「まぁ、ちょっと悪ふざけが過ぎたけど、真面目な話、神保町の古本屋には行かなきゃいけないの…」

そう言って、榊がプリントアウトしてくれた書面を手渡した。

「『特許法概説』、たしか、多くの合格者が絶賛していた本だよな。二冊あるようだが、これを買いに行くのか?」

「そう、今日の午前中、サークルのリーダーだった榊さんに会って、この情報を教えて貰ったんだけど、榊さんが言うに は、青本や条文中心の勉強をしているあたしたちには必要な本なんだって」


竜児は、その書面を見て、ちょっと難色を示している。


「『第九版、1991年発行』って、何か古いな。役に立つのか?」


同じような質問は亜美も榊にした。従って、榊が亜美に言ったことを、今度は亜美が竜児に告げることになった。


「何でも、その第九版あたりまでは著者が存命してたから、その後の版よりも出来がいいんですって。それに、本は 買わずに後悔するよりも買って後悔しろ、って、榊さんに言われたわ。それに、もう、あたしと高須くんの分は 予約しちゃったから、買わなきゃいけないの」

『予約』と聞いて、竜児は「しょうがねぇなぁ…」と、苦笑した。

「でも、『買わずに後悔するより買って後悔しろ』か、たしかにそうかもな。よっしゃ、お前と榊さんを信じて、明日は 古本屋でデートだ」

「そうね、その後は浅草散策と合羽橋での買い物ってことにしようよ」

「おう、そうしよう!」


駅に辿り着いた時には、日は西に傾き、辺りを赤く染め始めていた。ホームに上がると、ほどなく電車がやって来た。


大橋駅までは三駅、時間にして十分ほどで到着するだろう。

「大橋駅に着いたら、携帯電話のお店で高須くんの携帯電話を何とかしないとね。携帯がないとお互いに連絡も取れ ないし」

「そうだな」


竜児は否定したが、竜児の携帯が壊れたのは、亜美がバッグを振り回して、竜児に鼻血を出させたことに因果関係が ありそうだ。だから、竜児が何と言おうとも、買い替えに必要な料金は亜美が払うつもりでいる。


「それと、今夜は、家には誰も居ないから、高須くんの家で晩ご飯を食べたい。台所仕事は、あたしも手伝うから」

「おう、いいとも。だったら、何を作ろうか…。どっかのスーパーで食材を吟味しながら、考えることにするか」


三白眼を輝かせて、料理のことに思い巡らしている竜児を、亜美は頼もしげに見上げた。


「ねぇ、スーパーに行く前に、稲毛のおじさんのお店、『稲毛酒店』に行かない? 今夜はちょっと、ワインでも飲みたい 気分なんだ」


竜児が、「えっ?」と言って、三白眼を丸くした。


「いや、未成年で飲酒はまずいって。それに、稲毛のおじさんは俺たちが未成年だって知っている。売ってくれねぇよ」


亜美はそんな竜児の肩に縋った。


「固いことは言わない! 今日ぐらい乾杯したっていいじゃない。それに行ってみれば分かるけど、稲毛のおじさんは、 多分オッケー、亜美ちゃんにはお酒を売ってくれるはず」


以前、稲毛のおじさんに般若顔で迫って酒を売って貰ったというのは、ひとまずは内緒だ。


「そうなのか?」


半信半疑な竜児の肩を抱き寄せ、亜美は艶麗な笑みを向ける。


「うん、多分大丈夫、任せておいて…」

「そうか…」

「そう、我らが同志に乾杯よ」


そう言って、竜児の瞳をじっと見た。それに促されるように竜児も唱和した。


「そうだな、我らが同志に乾杯だ」

(終わり)