竹宮ゆゆこ総合スレ SS補間庫
   

 

我等が同志(後編-1)

「お、おい、待て、川嶋ぁ!」


恐慌を来し、逃げるように走り去った亜美へ向けた竜児の叫びは、虚しく闇へと吸い込まれていった。

時刻は午前1時近く。終電はとっくに終わり、駅のロータリーの照明も消され、人影もまばらだ。

その人影が、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、鼻血を吹き出しながら跪いている竜児を避けて足早に過ぎ去っていく。


「くそっ!」

竜児は立ち上がって亜美を追いかけようとした、しかし、鼻血はなおも止まらず、竜児の胸元と、直下の地面に滴り続 けている。
とてもじゃないが、全速力で逃げ去った亜美を追える状態じゃない。

血塗れの手を黒いデニムのポケットに突っ込み、長年使い込んだ青い携帯電話を取り出す。
フリップを開ける暇ももど かしく、リストから亜美の番号を選び、通話ボタンを押した。
プツプツという無味乾燥な呼び出し音が聞こえてくる。

竜児は、亜美が応答してくれることを願いつつ、その携帯電話を左耳に押し当てた。


−−川嶋、早く出てくれ。

鼻血が絶え間なく吹き出してくる。竜児はそれを右手の甲で拭ったが、何滴かが携帯電話の操作盤に滴り落ちた。

ジュッ! という音が微かに聞こえ、何かが焦げたような臭いがした。ボタン回りが何もシーリングされていない旧式の 携帯電話、そのボタンの隙間からしみ込んだ鼻血が、基盤をショートさせていた。


「ちくしょう! 何てこった」


携帯電話は、うんともすんとも言わない。何て迂闊な…、と竜児は自身を呪った。

平常心ならこんな失態はなかっただろう。
塩分を含み、ただの水よりも電気を通しやすい血液が電子機器にかかった らどうなるかぐらい分からないはずがない。
亜美のことで狼狽した竜児も又、持ち前の冷静さを欠いていた。


竜児は、役立たずになった携帯電話を左手で握りしめ、右手でなおも鼻血を吹き出し続ける鼻面を押さえながら、よろ よろとバスロータリーに設置されているベンチに向かった。

そのベンチへ大儀そうに腰を下ろすと、顔面を上に向ける。次いで、手探りでバッグのサイドポケットをまさぐってポケッ トティッシュを取り出すと、それを丸めて左右の鼻腔にねじ込んだ。

最早、亜美と連絡する手だても尽きた。亜美の携帯電話の番号は憶えてもいないし、メモに控えてもいない。
携帯電話 に記録されていれば十分だと思っていたのが裏目となった。公衆電話があったとしても、これではどうにもならない。
じれったいが、このまましばらく上を向いて、鼻血が治まるのを待つことにした。

竜児が見上げたその先には、街の明かりと梅雨時の湿気を帯びた大気のせいで、薄ぼんやりとした星空が広がって いた。その星の乏しい夜空を見ていると、亜美とのやり取りの数々が思い出され、ますます気分が滅入ってくる。

竜児は、それ以上星空を見ることにいたたまれなくなって瞑目した。だが、まぶたを閉じても亜美の姿が浮かんでくる。


『あんたって、本当に“気遣いの高須”なの? まぁ、既に看板倒れもいいところだけどさぁ』

と、怒りを通り越して呆れ果てている亜美の姿。

『据え膳を食べて貰えなかったっていうのは、女にとって屈辱なの。その点は分かってちょうだい』


努めて冷静さを装ってはいるものの、屈辱感から今にも頽れそうな亜美。


『もういい! 高須くんは、やっぱり亜美ちゃんのことなんか好きでも何でもないんでしょ! ラブホは不潔だ、別荘に行 くのは現実逃避だって、そんなことを口実に高須くんは、あたしから逃げて、逃げて、逃げてばっかりじゃないのぉ!!』


そして、竜児に拒まれたことで泣き叫んでいた先刻の亜美の姿が脳裏に浮かぶ。


「受け入れてやるべきだったのかな…」

鼻血のせいで鼻全体が腫れぼったい感じがする。それに呼応してか、頭の芯はぼやけていて、考えがまとまらない。

慢性的な睡眠不足に加えて、鼻血による出血のせいもあるのだろう。気を抜くと、視野が暗転し、意識を失いそうになる。


「しっかりしろ、俺!」

自ら喝を入れるつもりで、竜児は両頬を両手で挟むようにして強めに叩いた。

今、気遣うべきは亜美の安否だ。取り乱して発作的に自殺するような奴ではないと思いたいが、何せ今の亜美は尋常 な状態じゃない。それに、事故や何らかのトラブル、考えたくもないが、通り魔的に暴行を受ける危険だってある。そん なときに亜美を救ってやれるのは竜児しか居ないのだ。


竜児は、鼻腔に詰め込んでいたティッシュペーパーを引き抜いてみた。どろりと、ゲル状に半ば固まった鼻血が、こって りとしみ込んでいる。この様子なら鼻血は止まっている。何とか亜美の後を追って歩くことぐらいはできるだろう。


竜児は、バッグを持って立ち上がった。数学の専門書や条文集、さらには一キロ半を超える重さの青本が入ったそれ は、ずっしりと重い。
竜児の鼻先をかすめた亜美のショルダーバッグもこれと似たような重さだったに違いない。まともに喰らっていたら、 間違いなく鼻骨が折れていた。その点だけは僥倖だった。
そのバッグを肩に掛けて、竜児は歩き出した。


「待ってろ…、川嶋、今、助けてやる…」

当てなどはなかった。亜美が闇の中に消えていった。だから、その闇の中を探るまでだった。


闇雲に走り回った亜美は、息苦しさから立ち止まり、鉄のフェンスにつかまった。そのフェンスは、大橋の欄干だった。


「こんなところに来ていたなんて…」


駅からはだいぶ離れたところに来てしまっていた。時刻が時刻だけに、辺りには人影がない。ただ、ヘッドライトを輝か せた長距離便のトラックが通り過ぎていくだけだ。

亜美は、そうして行き交うトラックを物憂げに眺めながら、欄干にもたれて乱れた呼吸を整えようとした。

本当に無我夢中で走ったせいで、心臓が限界近くまで脈打ち、胸全体が重苦しい。


「うっ!」


不意に突き上げるような吐き気を覚え、亜美は口元を掌で押さえた。酔いが完全に覚めていない状態で走り回ったの だから無理もない。


「き、気持ちわ・る・い…」


亜美は、欄干から身を乗り出して、暗い川面に顔を向けた。墨を流したように真っ黒に見える水面が、橋に備え付けら れている街灯の青白い光を映し出している。

その淀んだ川面から水が匂う。

だが、それは、水質が良好ではないことを示す腐ったような臭気に、初夏になって繁茂した藻の青臭さが加わった、胸 がむかつく異臭であった。


「う、うううう、は、吐きそう…」


その汚臭がとどめとなって、亜美は、川面に向かって胃の内容物をぶちまけた。


「うえええええっ!」


胃酸を思わせる刺激臭を伴ったそれは、虚空を飛散し、ぴちゃん、という水音とともに水面の光を揺らめかせ、そして消 えた。

水面の揺らぎはほんの束の間で収まり、再び先刻と同じように街灯の光を映し出す。その様を、亜美は茫然として見送 るように眺めていた。

思い出すのは、顔面を血塗れにして、跪いている竜児の姿。その傷つき血を流している竜児を見捨てて、亜美は逃げた。


『高須くんは、あたしから逃げて、逃げて、逃げてばっかりじゃないのぉ!!』


そう竜児を詰った亜美だが、その亜美こそが、いざとなると竜児から逃げたのだ。
血塗れの鬼気迫るような竜児に恐れをなしたというのもあるが、何よりも竜児を傷付けた己の行為に戦慄し、その場 に居るのが耐え難かった。


「終わった…」


何もかもが破綻したような壊滅的な気分だった。泣きたくても涙すら出てこない。

何であのとき、竜児の傍に寄り添って手当をしてやらなかったのだろうという悔恨が、今となっては、切なく虚しい。


「う、うふ、うふふふ…」


亜美の顔が笑ったように引きつった。決して笑っているわけではない。精神的に追いつめられて、顔面だかの神経がお かしくなっている感じだった。

そういえば、恋ヶ窪ゆりも、勢い込んでデートに行った翌日、こんな状態だったことがあった。それを、麻耶や奈々子と一 緒に陰でくすくす笑ったものだ。それが、よもや、自分が同じような境遇に置かれるとは…。

こんなの、全然、笑えない!

亜美は、街灯の青白い光を映す水面に吸い寄せられるような気がした。このまま飛び込めば、全ての懊悩から解放さ れるに違いない。泳ぎの心得がある亜美だが、ショルダーバッグには青本をはじめとする分厚い専門書が詰まってい る。水がしみ込めば、格好の重石になってくれることだろう。

亜美は、欄干の上に突いた両手を支えに川面の上へと身を乗り出した。川面の光は妖しく揺らめき、亜美を誘う。取り 合えず吐くものは吐いてしまったせいなのか、青臭い汚臭も今は全く気にならなかった。

その光は、竜児の顔となり、母親である川嶋安奈の顔となり、麻耶や奈々子の顔となり、北村祐作の顔となったように 亜美には思えた。


「みんな、そこに居たの…」


このまま飛び込めば、竜児たちに会える。そんな思いで、亜美は、欄干から大きく身を乗り出した。

後は、この手を欄干から離せば、全てから解放されるのだ。


不意に一陣の川風が舞った。川面に生じたさざ波が、川面に揺らめく妖しい光を打ち消した。
亜美は、はっとした。

さざ波が収まり、元のような光が川面に戻ってきたとき、その光は、先刻、亜美を辱めた瀬川の意地悪い笑顔に見えた。


「あんちくしょう…」


亜美を利用して、サークルを分裂させた憎むべき女。ここでむざむざ死んだら、あの女のことだ、さぞや憎々しげに笑う ことだろう。

何よりも、死んでしまったら、あの女への報復ができない。

生きていてこそ、弁理士試験にも合格し、あの女の鼻を明かすことができるというものだ。

光は再び妖しく揺らめき、今度は櫛枝実乃梨の容貌を映し出した。

きらきらと太陽のように輝かしい笑顔は、天性のものなのだろう。どこかに翳りを秘めた亜美のそれとは全くの別物だ。

それも道理。亜美の天使のような笑顔は、女優の娘として、モデルとして、人工的に与えられたものなのだから。

本来の地味で陰気と言ってもよい性格では、女優川嶋安奈の娘にはふさわしくない。そのために、母を含めた周囲の 大人たちの要求に応えた演技に過ぎない。

実乃梨は太陽、亜美は月。与えられた明るさを反射するだけの月は、本来、太陽には敵わない。

しかし、太陽である実乃梨にだって、黒点のようにどす黒く醜い負の感情があることを亜美は知っている。


何より竜児を巡る諍いで負けるわけにはいかない。竜児も月なのだ。月と月こそが結ばれるべきではないか。

月が月を求めて何が悪い。


そのためにも生きるのだ!


「きゃっ!」


正気に戻った途端、欄干から今にも落ちそうなことに気付き、亜美は短い悲鳴を上げた。

乗り出していた上体を、そろそろと元に戻し、両足を橋の路面に着地させた。

束の間気にならなくなっていた青臭い汚臭が鼻を突く。


「本当に何やってんだか…」


危うく命を粗末にするところだった。おさまっていた動悸が、今度は恐怖から再び激しくなり、全身にアセトンのような 嫌な臭いのする汗が吹き出している。

自殺なんて、ほんの出来心というか、その場の状況や勢いで簡単にできてしまうことに思い至り、亜美は、両腕を抱え て、ぶるっ、と身震いした。正気に戻って眺めてみると、深夜の大橋は不気味だ。過去に飛び込み自殺があったという のも頷ける。
オカルトめいた迷信は信じない口だが、過去に自殺した者の霊が招くというのも、あながち出鱈目ではないのかも知 れない。

亜美は、バッグを肩に掛け直し、その場を足早に後にした。なさねばならないことがあった。たとえ、それが徒労である ことが明白であってもだ。

競歩のように早足で歩きながら、亜美は竜児の携帯に電話をする。だが、聞こえてくるのは、電波の届かないところに
居るか、電源が入っていない旨の愛想のないアナウンスだ。


「どういうことぉ?」

竜児が携帯電話の電源を切っていたことなど、少なくとも亜美の記憶にはない。
一瞬、亜美は竜児に拒絶されていると思い込みそうになったが、それなら着信後に誰であるかを確認した上で、電話 を切るなり、携帯電話の電源を切るはずだ、と考えた。
我田引水な解釈ではあったが、そう思わないと、気持ちが萎えてしまう。

それに、亜美を拒絶するために、竜児が携帯の電源を切りっぱなしにしている、という根拠もないのだ。


「高須くん…」


亜美は、駅へと急いだ。
竜児が負傷してから都合三十分が経過していたから、もはやその場には居ないと考えるべきではあったが、とにかく駅 に戻りたかった。駅の方に戻れば、竜児に会える、そんな気がした。

駅から大橋までの道順にそれほどのバリエーションはない。それに、竜児のことだ、鼻血が治まったら、亜美が走り去っ た方向へ向かうかも知れない。そうであれば、途中で遭遇する可能性はある。

駅へ向かうには、片側二車線の幹線道路の歩道を行く。その幹線道路は、昼間の渋滞を避けるためか長距離便の トラックがひっきりなしに通っていた。


「あっ!」


その亜美の居る反対側の歩道に、見慣れた長身の人影があった。


「高須くん!」


大型トラックが地響きを上げて通過した。その轟音で亜美の声が届かないのか、竜児は、反対側の歩道には目もくれ ない。


「高須くぅ〜ん!!」


声を限りに叫んだが、無情にも上下線に大型トラックが通り、亜美の願いはかき消された。

-渡ろう! 渡って、高須くんのところに行くんだ。

亜美は周囲を見渡した。信号も、横断歩道も、歩道橋もない幹線道路。しかも、ひっきりなしに大型トラックが通過する。

そのまま車道を突っ切るのは自殺行為と言ってよい。

そのもどかしさで焦燥しながらも、竜児の姿を認めたことで亜美は嬉しかった。

ひとまず竜児は無事だ。鼻血も本人が直後に言ったように大したことはなかったのかも知れない。

それに竜児の家はこっちの方角ではない。竜児も又、亜美のことが気がかりで、亜美を探しているのかも知れないの だ。


「たぁ・かぁ・すぅ・くぅーん!!」


亜美は再び叫び、飛び上がりながら両手を振った。お願い、あたしに気づいて、あたしはここよ、と念じながら…。


また一台、大型トラックが通り過ぎていった。テレビのCMでお馴染みの宅配業者の商標をでかでかとペイントしたそ のトラックは、何かの威嚇か、大型車特有の腹に響くようなクラクションを轟かせた。

その音に驚いたのか、竜児がその顔を車道の方に向けてきた、そして反対側の歩道で必死に手を振る亜美の姿を認 めた。
竜児の三白眼が驚きからか大きく見開かれ、その口唇が言葉を紡いだように見えた。行き交うトラックの騒音で、その 言葉は亜美の耳には届かなかったが、唇の動きというか全体の雰囲気で、亜美には分かった。


「か・わ・し・ま」

涙が溢れ、頬を伝って落ちた。今すぐ竜児の元へ行きたい。何なら、この大型トラックが頻繁に行き来する幹線道路を 走って強行突破したかった。


亜美のそうした衝動を知ってか、竜児は、両掌を前に突き出した。『早まるな、ここを渡るのは危険だ』というつもりなの だろう。

亜美が、そのゼスチャーの意味を理解したつもりで竜児に頷くと、竜児は、右手で大橋駅方面を指呼した。竜児が指し 示した二百メートル程先には、幹線道路の下をくぐる歩行者専用のトンネル状の通路がある。そこを渡って落ち合おう というのだろう。

亜美は、了解したという意思表示の印しに、右手を大きく振った。竜児もそれに応えるように右手を振ってきた。

竜児が歩き出した。亜美も歩き出す。車道で隔てられた二人は、反対側の歩道に居る相手の存在を確かめるように、 時折、視線をそちらの方に移しながら、競歩のように早足で歩いて行った。

本当は駆け出したかった。しかし、焦ることはない。もうじきだ。通路に行き着けば竜児にめぐり会える。会って、先刻の ことを謝罪し、実乃梨とも決着をつけるつもりで、実乃梨の練習試合に赴くことも告げねばならない。


歩行者専用のトンネル状の通路が、その部分だけ歩道よりも一段高くなっている幹線道路の下を貫通していた。その反対側の入り口に長身のシルエットが浮かび上がった。


「高須くーん!!」


そのシルエットに亜美は駆け寄った。


「川嶋!!」


シルエットの主も亜美に向かって駆け出し、通路のほぼ中間地点、仄暗い蛍光灯の光の中で二人は抱き合った。


「心配かけやがって…。どこも何ともないか?」


『それは、あたしの台詞よ』と亜美は言いかけたが、やめにした。竜児はどこまでも『気遣いの高須』であるつもりなの

だ。その気遣いのベクトルが多少ずれてはいても、亜美のことを思ってくれていることに違いはない。


「う、うん、大丈夫…、どこも何ともないわ…」

「そうか、よかった…」

「あ、あの、高須くん…」


亜美が、おずおずと謝罪の言葉を口にしようとした。しかし、竜児は、淡い笑みを浮かべて首を左右に振り、亜美の口唇 に人差し指をあてがって、その言葉を封じた。


「何も言うな、川嶋。この通り、俺は何ともねぇ。鼻血はすぐに止まったよ。俺も無事だし、お前も無事だ。それだけで十 分じゃねぇか…」


「あたしを叱らないの?! 高須くんに散々わがままを言った挙句に、高須くんを傷付けたんだよ、それでも平気なの?! 
鼻の周りには血がこびりついているし、そのシャツだって、血の痕がはっきりしてるじゃない!」


竜児は、瞑目し、スレンダーな亜美の身体を、ぎゅっと抱きしめた。


「強いて、お前を非難するとしたら、パニックになって飛び出したことだ。まるで飛び込み自殺でもしかねない勢いだっ たから、心配したんだぞ。でも、何ともなくて本当によかった…」


まるで、先刻の大橋での振る舞いを想定していたような竜児の言葉に亜美は、ぎくりと驚悸し、頑是無い子供のように
竜児の身体にしがみついて哭泣した。


「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「お、おい、川嶋…」


亜美の激しいリアクションに竜児は一瞬たじろいだが、すぐにその意味するところを悟ったのか、無言で、長い指を亜 美の長い髪に絡め、その髪を梳くように二回、三回と撫で下ろした。

通路上の幹線道路を、かなり大きなトレーラーでも通ったのか、通路全体が軋むように揺らぎ、コンクリートの天井か らは、細かい破片のようなものがパラパラと落ちてきた。

唯一の照明である蛍光灯は、寿命が近いのか、チカチカと不安定に明滅している。時刻は昔で言う丑三つ時が近い。

そんな中で、竜児と亜美は互いにしっかりと抱き合っていた。

通路内での抱擁は、時間にすれば、ほんの二、三分であったかも知れない。
亜美の様子もだいぶ落ち着いてきたと判断したのか、竜児が亜美に問い掛けた。


「川嶋、歩けるか?」

「う、うん…。大丈夫…」


本当は、ちょっと足元がおぼつかない。でも、これ以上、竜児に甘えるのは、さすがに心苦しかった。
そんな折にも、上の幹線道路を再び大型トレーラーが通過したのか、竜児たちが佇む通路全体が揺れる。


「であれば、長居は無用だな…」


竜児は、亜美を促して、亜美が入ってきた側の出口を目指した。その出口の方が、駅に行くにも亜美の家に行くにも、 方角としては都合がよい。

オレンジ色のナトリウムランプが眩い幹線道路沿いを、竜児と亜美は並んで歩く。車道はトラックの往来が激しいものの、歩道を往く者は竜児と亜美以外には居ない。辺りはコントラストが強いオレンジ一色に染められ、存在するもの全 てが無機的に見えてくる。


「ねぇ…」

「ん?」

「やっぱり、あたしって間違っていたみたい…」

「間違っていたって、何が?」


亜美の唐突な問い掛けが意味不明だ、と言わんばかりに、竜児が怪訝な顔をしている。

その竜児を亜美は上目遣いで見上げ、瞑目して、口元に淡い笑みを浮かべた。


「色々とね…、特に問題なのは、高須くんの気持ちを理解していなかったこと…。その次に、まずかったのは、高須くん の真意を知らずに、あたしが焦って空回りしていたこと…」

「なんだい、思わせ振りな物言いだな」


亜美は、竜児の横顔を見た。その顔は、目を細めて苦笑しているように見えた。


「本当は、分かってるんでしょ? あたしの言いたいこと…。まぁ、いいわ。はっきり言うと、高須くんが本当はあたしのこ とを好きじゃないんじゃないか、ってあたしは思い込んでいた。これが第一の過ちね…」

「もう、その話はいいよ…。今日は色んなことがありすぎて、川嶋は疲れている。これ以上、あんまり自嘲的なことは言わ
ない方がいい」


だが、亜美は首を左右に振った。


「ううん、この場ではっきり言わせて。でないと、多分、同じ過ちを繰り返すんじゃないかって思うの」

「過ち? 大げさだな」

「過ちどころか、罪だと言ってもいいくらい。だから、懺悔のつもりで言わなきゃいけない…」

「そうか…、それなら川嶋の気の済むまで話せばいいさ…。俺も、ちゃんと聞いているよ」


亜美は、「うん…」と、頷いた。許可は得た。後は努めて冷静に思ったことを述べるまでだ。

「実乃梨ちゃんが現れたことで、あたしは動揺した。そして、高須くんの真意を疑い、焦った。ものすごく簡単に言えば、 こうなるかしら…」

「なんだい、えらく簡単な説明だな」

「いきなり微に入り細に入りな説明じゃ、分かりにくいと思って要約したのぉ!」


のっけからの竜児の素っ気ない返事に亜美はむくれたが、気を取り直した。ここで臍を曲げては懺悔も何もあったもの ではない。


「まぁ、いいわ…。とにかく、あたしは実乃梨ちゃんと高須くんとの関係を疑った、そういうことなのよ」

「櫛枝のことなら、俺の方では、もう決着はついている。川嶋が怪しむようなことは何もないよ」

竜児は伏し目がちだが、その態度は落ち着いている。

亜美は、そんな竜児を涼やかな瞳で見ながら、その言葉に嘘はなさそうだと思った。


「でも、あたしの主観では納得できていなくて、もやもやしていたのね。そのもやもやな部分が、月曜日に現れた実乃梨 ちゃんのあんたに対する馴れ馴れしい態度で噴出した。後は、もう本当に悪魔の仕業じゃないか、っていうくらいトラブ ルが重なって、今日みたいなことになっちゃった…」

「いろいろあったよな、今週は。それについては、鈍感な俺に非があるし…。それに、今日のコンパで、よもやあんな上級 生が出現するとはな…」

竜児の『鈍感』の文言に、亜美は突っ込みを入れようかと思ったが、ひとまずは自粛した。重要な論点ではあるが、取 り上げるのはもうちょっと後にしたかったからだ。


「あの瀬川って上級生には、ほんとにびっくり…。あそこまでの徹底的なワルは、あたしにとっても、高須くんにとっても、 前代未聞だったわよね。あんなのが、法律職に就くかも知れないなんて、ちょっと空恐ろしいかも…」


「ああ、卑劣な手段も辞さないところが嫌らしいな」

「でも、あの上級生は外的な要因…。あたしたちが弁理士試験に合格すれば、あいつの鼻を明かしてやるぐらいにはな るだろうけど、それ以外では、どうにもできないわね」


亜美は、何気なく言ったつもりだった。しかし、竜児はただでさえ精悍な表情を、さらに引き締めていた。


「いや、そうでもないんじゃないか? 仮に俺たちが弁理士になれたとすれば、ありがたくはないが、関わってくる可能 性はありそうだ。何せ、弁理士は全国に八千人程度しか居ないんだよな? であれば、瀬川が審判や訴訟で敵方とし て現れることだってあり得る」


亜美は、はっとした。


「そっか! そうだよね。もし、無効審判とかで瀬川が相手方の代理人だったら…」

「おぅ、俺たちのタッグで、ぐうの音もでない程、懲らしめてやることだって夢じゃない」


そう、弁理士の業界は狭いのだ。であれば、仕事の上でぎゃふんと言わせる機会はあるのかも知れない。

そのためにも、弁理士試験には合格しなければならない。


「あたし、やる気出てきた!」

「俺もだ。遠い遠い未来の話だろうが、今日の屈辱は何倍にもして返してやろうじゃねぇか」

「うん!」


問題は、学内のサークルが、当の瀬川たちによって潰されてしまったことだが、何も弁理士試験はサークルや予備校に 通わないと絶対に合格できない、というものでもない。
弁理士が個人的に主宰する受講料が低廉な私塾の類はいくつかあるので、これを利用する手もある。あるいは、青本 をはじめとする法学の専門書で普段は自学自習していて、予備校等が行っている答練と呼ばれる模擬試験で、定期 的に実力をチェックするという学習方法だって考えられるのだ。


「学習方法については、一から考え直さないとダメだろうが、当面は川嶋と俺とで一緒に青本と条文を読んでいくって ことでどうだろう?」

「それでいいよ。決定的な学習方法とかは、青本を読みながら、じっくり考えていこうよ」

「そうだな…」


道は幹線道路と大橋駅へ向かう通りとの交差点に差し掛かった。竜児と亜美はその交差点を左に曲がり、大橋駅へ と向かう。通りは閑散としていて人影はない。


「ねぇ…、話を蒸し返すようだけど、さっきの続きを話してもいいかしら?」


通りに入ってすぐ、亜美がまた問い掛けてきた。


「うん?」


もう、亜美の懴悔話は終わったと思い込んでいたのか、竜児は無防備な生返事をよこしてくる。
亜美は、その曖昧な返事を、竜児の肯定と受け取ることにした。


「さっきだけど、あんたは自分のことを『鈍感』って言ってたよね?」

「ああ、川嶋には『女心の機微が分かってない』って、散々に怒られたからなぁ。それについては、否定できないし、弁解 のしようもねぇだろ?」


亜美は、「そうね…」と言い、一瞬瞑目して微笑した。竜児にも一応の自覚はあるらしい。


「でもね、あたしも高須くんの気持ちには鈍感だった…。それが、あたしの過ちね。あたしは、高須くんを万事に鈍い機
転の利かない朴念仁だって決めつけていたんだわ」

「手厳しいな…」

「でも、高須くんが色恋沙汰に疎いっていうのは確かじゃない? だからあたしは焦った。鈍い高須くんは、あたしの気 持ちを理解できずに、また、実乃梨ちゃんの方へなびいちゃうんじゃないかって、ものすごく不安になった。それで…」


亜美は、羞恥からか、言葉を詰まらせた。竜児との絆が不安だったから、肉体的に竜児と結ばれたかったのだ。それを 明言することに亜美は一瞬、躊躇した。


「それ以上はさすがの俺にだって分かるよ…。だから、無理に言わなくたっていい」


竜児の気遣いが亜美には嬉しかった。だが、言わねばなるまい。重要な論点は、むしろここからなのだ。


「うん、でも言わせて。あたしがバカなのは、エッチしないと高須くんとは結ばれないって思い込んでいたこと。もちろん、


あたしはそうした焦り抜きで、高須くんとはいつだってエッチしたい。本当は、今、この場でだって高須くんが望むなら、 やってもいいくらい…」

「お、おい、おい…」


竜児が困惑した表情で亜美を見ている。先刻、駅前で『ラブホに行こう』と竜児に迫った時と同じだと思っているのだ ろう。


「でも、違うの。肉体の結び付きは確かに大切だけど、それは心の絆とはイコールではないということ…。心の絆を軽視
して肉体で結び付いても、それは、所詮、刹那的なものなんだわ。そんな簡単なことも、あたしは理解できていなかった のね…」

「そうか…」

竜児が、少しほっとして呟くように言った。

「実乃梨ちゃんが現れたことで、あたしは高須くんの愛を疑った。その焦りと不安から高須くんの肉体を求めた。それは、 あたしの方が高須くんとの心の絆を軽視していたからなんだわ。でも、高須くんは、あたしのせいで怪我をしているの に、自分よりもあたしの安否を気遣ってくれていた…。高須くんとの間には心の絆があったのに、それに気づかず、
むしろそれを否定すらしたあたしは、本当にバカで鈍感だわ…」

「よせやい、川嶋が俺を疑ったのは、俺の方が態度をはっきりさせなかったからだ。川嶋でなくても、誰だって、俺みた いな態度があやふやな奴には怒って当然だよ」

「高須くん…」

「それに、この前のデートで『永遠の愛』を誓ったのはマジなんだろ? その誓いを俺の方から勝手に破るわけにはい かねぇ」

「どうしてぇ? あたしは高須くんに怪我をさせたんだよ、もう、あの誓いなんて無効だとは思わなかったの?」


竜児は瞑目して、ふっ、と苦笑した。


「永遠は少々のトラブル程度で滅しないからこそ永遠なんじゃねぇのか? だから俺は、鼻血が出ても川嶋を放っておけなかった。自分の怪我が大したことなければ、真っ先に川嶋を救いに行かなきゃいけねぇ。そんなのは当然だよ…」


愛すべき愚か者とは、竜児のような人間を言うのだろう。愚直なまでに相手を信じ、そのためには自己犠牲も厭わない。 何があっても、この人にはついて行こう、あたしもこの人とは『永遠の愛』を誓ったのだから、と亜美は思った。


「な、泣くなよ…」


予期せぬ亜美の涙に狼狽して、竜児はハンカチを取り出した。だが、それが自分の鼻血まみれなのに気付き、嘆息し て、握り締めた。


「ハンカチだったら、いいよ…」


亜美は、手の甲で目頭を拭い、「はい、これでオッケイ!」と強引に微笑んだ。

二人は、大橋駅のロータリーにたどり着いた。客待ちのタクシーが二、三台止まっているのを除けば、人っ子一人居ない。


「川嶋の家は、駅の向こう側だったよな。タクシーでそこまで送るよ」


「タクシー代がもったいないからいいよ。それより、高須くんさえよかったら、歩いて帰ろうよ。その方がエクササイズにな るし、何よりも、もうちょっと高須くんとお話ししたいし…」

「そっか、じゃあ、歩こうか…」


ゴーストタウンのように無人の駅前商店街を通り、亜美の家を目指す。


「ねぇ、明日っていうか、もう今日なんだけど、実乃梨ちゃんの練習試合、あたしも高須くんと一緒に行くよ」

竜児は、ちょっと驚いたような顔をして、亜美の顔を覗き込んだ。


「いや、お前、木曜日には行かないって…」

亜美は、覚悟の程を示すかのように、まなじりを決して竜児の視線に応えた。


「実乃梨ちゃんの試合を見に行かないっていうのは、あたしが実乃梨ちゃんから逃げているってことなんだわ。それじゃ、 何にもならない…。だから、あたし行くの。行って、状況によっては、高須くんの伴侶である覚悟を示してくる。そのつもり なの…」

「ちょっとテンション高すぎじゃねぇのか? 俺は、もう櫛枝とは吹っ切れたし、櫛枝だって、俺のことは何とも思っちゃい ねぇさ」

竜児がなだめるような口調で亜美を諭した。だが、亜美は引き締めた表情そのままに、竜児の顔を見つめている。

「彼女は、あんたに未練がある。それは、高須くんが気付かないだけ、ひょっとしたら、気付いていても、それを認めるこ とを恐れているだけ…」

「お、おい、川嶋、考え過ぎだって…」

亜美は首を左右に、ゆっくりと、しかし大きく、二度、三度と振りながら、きっぱりと宣言するように言った。


「だから、あたしの考え過ぎなのかどうかを確かめるためにも行くの。そして、場合によっては、実乃梨ちゃんと差しで話 し合ってくる…。そのためにも、あたしが行かなければ何も始まらないわ」

「でもなぁ…、月曜日の昼みたいなことにならねぇとも限らねぇし…」


竜児が、珍しく眉をひそめて不安気な表情を示している。


「大丈夫だって! 月曜日は覚悟がないまま実乃梨ちゃんの急襲を受けたから迎撃に失敗したの。こちらの方に覚悟 があれば、あんな失態はしないわよ。だから、あたしを信じて、あたしも練習試合の観戦に連れて行ってよ」

「急襲とか、迎撃とか、櫛枝をもろに敵扱いなんだな。本当に大丈夫なのか?」

なおも、不安気な竜児を少しでも安心させようと、亜美はできるだけ明るい笑顔を心がけ、朗らかな声で竜児に言った。


「そう、彼女は敵だわ。それも敵ながら天晴れな。ソフトボールの選手として精進している姿勢は、弁理士を志すあたし たちが手本にしたいくらいじゃなぁい? だから、これを機会に、彼女と向き合ってみたいのよ」


竜児は、亜美の言葉に納得したのか、「そうか…」とだけ呟いた。

「それと、気になることが未だあったわ…」


「何だ?」

「ねぇ、高須くんの携帯、電話しても『電源が入っていない』って、アナウンスされたんだけど、どうかしたの?」


竜児は、ちょっと困惑したように、眉をひそめ、一瞬の間を置いてから話し始めた。


「ああ、実はな、壊れちまった…」

「え、えっ! 火曜日に見せてくれた青い携帯電話でしょ。別に問題なく使えてたみたいだったけど、一体どうしたの? 
もしかしたら、あたしが壊しちゃった?」

「い、いや、もうとっくの昔に機種を変えてなきゃいけないような旧式だから、とうとう寿命が来たってことなんだろうな」

「ふーん…」


竜児が下手な嘘をつくときに特有の、冷や汗が額に浮き出ていることを亜美は認めた。竜児の携帯電話が壊れたの は、間違いなく顔面に亜美のバッグを受けたことと何らかの関係がある。それを、亜美に隠しているのだ。竜児なりの 気遣いのつもりなのだろう。


「じゃぁ、午前中は講義があるし、午後は実乃梨ちゃんの練習試合の観戦があるから、それが終わったら大橋駅前の 携帯電話ショップへ一緒に行って、代わりの携帯電話を買いましょうよ」

「お、おう…」


亜美は、ちょっと意地悪そうに、にやりとしていたに違いない。

「で、その壊れちゃった携帯電話には、いろいろ大切なデータが残っているんでしょぉ? 例えば、この前に撮った亜美
ちゃんの写真とか…。そのデータをサルベージしなくちゃいけないから、どっちみち何が故障の原因かは突き止めなく ちゃ。ねぇ、高須く〜ん」

「……」


嘘がバレているらしいことに気付き、表情をこわばらせている竜児をよそに、亜美は、うふふ、と笑った。


『あたしを謀るなんて十年早い。でも、故障の責任はあたしにありそうだから、機種を変更するのに必要な料金は代わ りに負担してあげよう』、と亜美は思った。竜児が素直に了承するとは思えないが、それでこそ竜児だと思う。ほいほい と亜美から金を貰うような軽薄な男ではないからだ。

二人は亜美の家の前に辿り着いた。


「高須くん、今日は本当に色々とごめんなさい、そして本当にありがとう…。あたし、高須くんのことをもっとちゃんと信じ てあげてれば、こんなことにはならなかったような気がする。でも、その過ちが高須くんのおかげで漸く分かった…。
だから、明日は大丈夫。いつものように、あたしが理学部旧館へ高須くんを迎えに行くから、そうしたら一緒に実乃梨ちゃ んの練習試合を見に行きましょ」

「ああ、今日は、俺も色々と済まなかった。でも、川嶋に信じてもらえるのは嬉しい。明日は櫛枝の試合でよろしく頼むよ」

「ええ…」


竜児は、それだけ言うと、亜美に背を向け、自宅へ向かって大股で歩み去った。その姿が闇に溶け込んで見えなくなる まで、亜美は玄関に佇んでいた。
竜児の姿が闇に完全にかき消えた時、ふと夜空を見上げた。先ほどまで、薄い雲のようなベールに覆われていた夜空には、街明かりにもめげずに瞬く星々があった。

明日は、うまくいけば絶好の観戦日和になるかも知れない。そう思いながら、亜美は玄関の鍵を開けた。


翌朝、連続する電子音で亜美は目を覚まされた。寝ぼけ眼で目覚まし時計を手に取って鳴っていないことに気づき、 おっかしいなぁ、と思いながら重いまぶたを無理矢理に開いて見渡すと、時計ではなく机の上の携帯電話が鳴って いた。あわてて取り上げ、若干の期待感を込めてフリップを開く。しかし、液晶画面を見た亜美は、腫れぼったいまぶた を物憂げに半開きにして、嘆息した。


「何だ、麻耶か…」


考えてみれば、竜児の携帯は壊れているのだ。であれば、彼からの電話かも知れないと期待する方が間違っている。

それに、麻耶からの電話だって悪くはない。何と言っても、彼女は気を許せる大切な友人の一人なのだから。


「もしもしぃ〜? 麻耶ぁ〜? おひさぁ〜〜、元気してたぁ〜〜?」


寝起きであることがバレてしまいそうな、語尾を不自然に伸ばした話し方で、亜美は電話に出る。案の定、亜美の本性 というか習性を既に看破しているに違いない麻耶に、その話し方を突っ込まれた。


「おんやぁ〜? もう八時過ぎだってぇのに、何か眠そうじゃん。さては、寝起きだなぁ〜」

「う〜ん、そだよ、だから、すっげ〜眠いの…」


バレちゃしょうがない。
それに、寝起きで血の巡りが悪い脳みそで嘘や屁理屈をこねくり回しても、ろくなことはないからだ。

昨夜は、竜児にエスコートされて帰宅したのが午前二時半、就寝は三時過ぎだった。その上、八時半までは寝ている
つもりだったのを麻耶からの電話で予定より三十分ほど早く起こされてしまった。少々睡眠不足なのは否めない。
面倒臭いから麻耶には説明しないけど…。


「あはは、正直でいいねぇ。でさぁ、突然なんだけどぉ、よかったら、今日の午後、駅前のホテルのケーキバイキングに行 かない? なんかさぁ、日頃ダイエット意識していると、無性に甘いものが欲しくなるんだよね」


亜美も思い出した。大手の名の通った系列のホテルでやっている奴だ。バイキングに出てくるケーキだから質より量か も知れないが、それでも一応は有名ホテルである。それなりのものを出してくることだろう。以前から気になっていたが、 行ったら最後、際限なく食べまくって、その後、しばらくは自己嫌悪に陥ることは必至と思えたので、敢えて無視してき た。しかし、気心の知れた友人からの誘いとなると別である。

それに、夕べはコンパだったが、ビールは飲んだものの、ダイエットを気にして、枝豆や豆腐等の高蛋白で低カロリーな ものしか口にしていない。それも、尾籠な話だが、大橋の上から吐いてしまった。従って、夕べからの摂取カロリーは、 胃壁からすぐに吸収されたであろうアルコールを除けば、限りなくゼロに近い。だから、多少、ケーキを食べ過ぎても、 今日に限っては大丈夫だろう。しかし…。


「う〜ん、あたしも、すっげ〜行きたいんだけど…、今日の午後は先約があるんだわ…。だから、奈々子とでも二人で行っ
てきなよぉ」

「え〜っ、先約ぅ? あんた、未だ土曜日の午後は高須くんとのプチデートやってんの? いい加減、飽きないのぉ?  もう、ほぼ毎週でしょ?」


呼吸音にも似た不自然なノイズが混じっている。麻耶があきれてため息を吐いているのだ。
ちなみに麻耶が言う『プチデート』とは、土曜日の午後、講義が終わった竜児と一緒に大学から徒歩で出かけられる 範囲を散策することである。エクササイズも兼ねて、可能な限りバスや地下鉄には乗らず、フリーマーケットを冷やかし、 根津等の下町で買い物をしたり、果ては神田、日本橋を経て銀座まで足を伸ばすこともある。かなりの運動になるので、
おかげで亜美もジムに行かなくても、以前のスレンダーな体形を維持できているというわけだ。

なお、『プチ』ながら『デート』であることを意識しているのは専ら亜美であり、竜児の方は単なる買い物か町中の探検 程度の認識でしかない。


「う〜ん、ほぼじゃなくて完全に毎週なんだけどぉ、今日だけは違うんだ。今日はさぁ、あたしらの大学と実乃梨ちゃん とこの大学とのソフトボールの試合を見に行くことになってるぅ…」

「えっ〜、あんたと櫛枝って、結局、高校のときに高須くんを巡って決裂したじゃん。大丈夫なの? 真っ赤な雨が降っ たりしないよね? あんたが櫛枝の頭をバットでボコって、警察のご厄介になるような真似はしないでよ、頼むから」


半ば冗談混じりながら、電話口での麻耶の声には、亜美を咎めるような雰囲気があった。何せ、酔って竜児宅で一升 瓶を振り回したり、ストーカーを追撃して撃退したり、何よりも並の男よりも腕力がある実乃梨と本気の取っ組み合い をしたりと、それなりの武勇伝がある亜美だけに、麻耶が危惧するのも無理はない。


「大丈夫だって、そんなことしないってぇ」

「それなら、いいけどさぁ…」


電話口の麻耶は半信半疑のようだ。
しかし、今日ならば大丈夫だ。実乃梨と差しで穏便に話し合うことを竜児にも宣言したのだ。何があっても諍いなしに 済ませる。それが絶対条件でもある。


「まぁ、あたしも、最初、あんまし気が進まなかったんだけどね、祐作が是非って言うもんだから、高須くんと行くことになっ ちゃった。てへ…」

「何よ、結局はプチデートじゃん。それに、まるおも居るの? それに櫛枝か…。何だか、大橋高校の面々が揃うのねぇ」

まるおこと北村祐作が居ると聞いて、麻耶はちょっとだけ心がときめいたのか、電話の声が急に明るくなったように 亜美は感じた。


「そだよ、麻耶も来るぅ? 来れば祐作とプチデートになっからさぁ」


と言って、麻耶をからかうつもりなのか、亜美は、あひゃひゃひゃ…と笑った。


「い、いや、遠慮しとく…。この前のピクニックで、ちょっとアレだったから…。やっぱ、まるおは…」

「え〜と、あれか? 『まるおが、丸出しぃ〜』って奴がトラウマになっているのかなぁ〜?」

「う、うわぁ〜っ! 勘弁してよぉ! もろに見ちゃたんだからぁ」

「おんや、ギャル系を標榜するあんたらしくもない。あんなもん、いずれ誰だって、入れポン、出しポン、片手でポンじゃな い、どうってことないわよ」

「うううう…。あんた、高須くんとそこまで行ってるんだ…」


実は、竜児とはB止まりなのだが、取り敢えず見えを張った。本当は亜美だって、あんなグロいもんを突っ込まれるのは 怖い。初めて自分の指を入れた時だって、こわごわと挿入したほどだ。でも、竜児のだけは別だ。昨日のこともあるが、 やっぱり竜児との初エッチは、できるだけ早いうちに済ませたいと思う。それも中出しで…。


「ま、それはさておき…、せっかくのお誘い、あんがとなんだけど、ちょっと義理で試合を見に行くことになってんのよ。で、
さぁ、悪いけど、奈々子様とお二人で楽しんできてよ。あたしも今日は思いっきりケーキ食いたいけど、世間のしがらみ
でそうはいかねーんだわ…」

「奈々子かぁ…」


何だか麻耶の電話の声がすぐれない。


「奈々子がどうかしたのぉ?」

「いや、あの子なんだけどさ、最近、すっごく付き合いが悪いんだ。強いて言えば、あんたくらい…」

「どういう意味よぉ〜」

「もう、そのまんまだけどぉ? 毎週土曜日、高須くんとのプチデートに夢中な、色ボケ亜美ちゃんと同じくらい付き合い が悪いんだ。奈々子は…」

「色ボケって、あんた…」


傍からは、そう見えるのだろう。ちょっと恥ずかしいが、それはそれで悪い気はしない。周囲からも亜美が竜児を好きな ことがはっきり分かるのは、嬉しくもあるし、ストーカー紛いのキモオタ除けにもなる。
問題は奈々子だ。亜美にも奈々子の急変ぶりが気になってきた。


「奈々子の付き合いが悪くなったのはいつからなの?」

「う〜んとね、例の祐作とのピクニックの翌週、つまりこないだの土曜日から急変した。いつもは土曜日なんて暇してた はずなんだけどぉ〜、先週に加えて今日もダメなんだよね…」

亜美は、「ふ〜ん、たかが二週連続なだけじゃん」と間延びした合いの手で、表向きは興味がなさそうに聞いていたが、
急にあることを確信した。


「あ〜っ、そりゃ、男だね。奈々子の奴、毎週土曜日、男と遊んでんだよ」

「え〜っ! やっぱりそうなのかな…。誰なんだろう」


亜美には竜児が居るし、奈々子にも男が居るとなると、大橋高校の美女トリオで、麻耶だけが売れ残りということにな る。そんな焦りが、電話口の声にはにじみ出ているのだ。
一丁、からかってやっか、と亜美は思った。


「誰なんだろうねぇ〜、案外、祐作とかだったりして〜」


亜美は、「うひひ…」と、『人の不幸は蜜の味』を地でいくような笑い声を添えて言ってみた。


「うわぁ〜ん、勘弁してよぉ〜。まるおが奈々子と? そ、それは、ちょっと悲しいかも…」


電話口の麻耶は、何だか泣き出しそうなほどに意気消沈している。亜美は、やりすぎたか、と少々ばつが悪くなった。


「まぁ、祐作が奈々子の相手だってのは冗談だって。だってさぁ、落ち着いて考えてみなよ。奈々子は今日も付き合いが
悪いんでしょ? で、祐作は、あたしや高須くんと一緒に、実乃梨ちゃんの試合を見る。祐作にはアリバイがあるってこと になりそうだから、あいつじゃないわよ」

「う、そっか、そうだよね。うう、よかったぁ〜」


電話口の麻耶は、心底安堵したのだろう、亜美の携帯にもはっきり聞こえるほどの大きなため息を吐いている。

それにしても、麻耶は北村の変態性を嫌悪しながらも、諦めきれていないらしい。あんな変態、やめときゃいいのに…と、

亜美は内心思うが、『蓼食う虫も好き好き』なのだろう。それは、三白眼の竜児とつき合っている亜美にも当てはまる。


−−それにしても、奈々子の相手は誰だろう、もしかして能登? まさかね…。


そんなことを考えながら、亜美は時計を確認した。もう、何だかんだで三十分も話していたことになる。そろそろ、シャワー を浴びて、遅蒔きながら朝食をとり、大学に向かう準備をしなければならない。


「ごっめ〜ん、そろそろ大学に行く準備しないと。せっかくのお誘いなのに、ほ〜んと残念。また、今度よろしくねぇ〜」

「う、うん。じゃあ、まるおと高須くんによろしくね。それと…」

「それと?」

麻耶の付け足しめいた問い掛けが気になって、亜美は思わず聞き返してしまった。

「亜美は、土曜日は講義がないのにもかかわらず毎週大学に行くんだね。高須くんとのプチデートのためだけに…。 それを高須くんは知ってるの? 私の知ってる高須くんなら、亜美にそこまでの負担はかけさせまいとするだろうから、 高須くんは、土曜日は亜美も講義があるものと思い込んでいるんだろうね」

「そ、そんなことはないわよ…」


図星だった。


「そう? ならそれでもいいけどぉ〜。なんかさぁ、亜美って健気だよね。悪く言えば、頑固か…。何だか高須くんみたい だね、似た者同士ってことなんだろうけど、お互いに気ぃ遣いすぎないようにしたほうがいいかも…。あ、ごめん、こんな こと言うつもりじゃなかった。勘弁してぇ〜」

「ううん、気にしてないから。それとせっかくのお誘いを無下にしたしたから、この埋め合わせに、今度は、高須くんや 祐作、それに奈々子と、可能であれば奈々子の謎のお相手を交えて、どっかでホームパーティーでもしない?」

「あっ! それそれ、それいいねぇ!! じゃ、長電話になっちゃって、ごめんねぇ。またぁ〜」


北村を交えてのホームパーティーで機嫌が直ったのか、朗らかな声で、麻耶は通話を締めくくった。それを合図に、男 が聞いたら女性観が覆るほどの下品な、いや違った、忌憚なきギャルトークは終了した。


「頑固者、似た者同士か…」


ちょっと嬉しそうに呟いて、亜美は携帯電話をショルダーバッグに仕舞った。

その言葉をリフレインのように何度も呟きながら、亜美は手早くシャワーを浴びて朝食を取ることにした。

家の中は閑散としていた。伯父も伯母も仕事に行っているらしい。シャワーを終えた亜美は、髪の水分を吸水性のよい タオルでできるだけ拭い取り、形を整えた。ブローは髪が痛むのでできるだけ使用しないのがポリシーだ。

そして、いったん部屋着にしているTシャツとジャージ姿になると、台所に立って、朝食の準備をする。と言っても、簡素 なものだ。竜児から伝授された、大根、人参、牛蒡、筍、椎茸、それに鶏肉を昆布と鰹の出し汁で、ごく薄味に仕上げた 煮物と、焼いた甘塩鮭、それに炒り卵だ。ご飯は煎り大豆と、小豆と、麦とを混ぜて炊いたもの。ただの白米よりもミネ ラルや繊維素が多く取れる。これも竜児からの受け売りだ。

今では伯父も伯母も、亜美が作り置きしている煮物を喜んで食べてくれている。

何でも、竜児直伝の煮物は、出汁のうま味を極力引き出すことで、低塩分でも十分に美味しい点がいいらしい。

さすがに、二人とも医療関係の従事者というだけのことはある。

亜美は伯父と伯母には『この煮物は、お友達から教わったの』とだけ言っている。その友達が男だとは、夢にも思うまい。

朝食を終え、手早く食器を片づければ、後は着替えてメイクを整え、大学へと出かけるだけだ。

今日は、日差しが強そうなので、コットンの長袖ブラウスに、下もスリムなコットンパンツにする。
ちょっと暑いかも知れないが、半袖の形がくっきり残るような日焼けをするよりはマシである。
メイクも紫外線対策がメインだ。ついでに日傘も持った。

午前九時半。戸締まりをして大橋駅に向かう。あの蒸し暑い理学部旧館では竜児が一時限目の線形代数学の演習を 受けている頃だろう。

大橋駅から私鉄電車に乗り、その私鉄とJR山手線と地下鉄が接続する駅で地下鉄に乗り換える。大学最寄りの駅で 下車すれば、キャンパスの門は、もう目と鼻の先だ。

キャンパスには十一時前に到着した。午前の講義が終了するまで、しばらく時間がある。

亜美は、門をくぐると図書館に向かった。時間が少しでもあるのなら、細切れでもいいから弁理士試験に関わることを 調べておきたかった。本当なら、青本を使った勉強が一番なのだが、青本は初学者には難解ということもあって、一時 間程度拾い読みしただけでは大した学習効果は期待できない。青本に限らず専門書は腰を据えて読まないとダメな のだ。

だが、一時間程度しか時間がなくとも、できることはある。それは、名著と呼ばれる専門書に触れてみることだ。亜美は、 『特許・実用新案法』というプレートの掛かった書架から『特許法概説』を取り出した。合格者の多くが『歴史的名著』 と絶賛する書籍である。しかし、著者は既に他界し、その後は法改正に対応できていないままの古い版で発行されてい

たが、数年前に絶版となって、今では古書の入手も困難となっている。亜美も、インターネットのオークションでこの『特 許法概説』が出品されているのを見たことがあったが、新刊時に七千円程度だったものが、三万円ほどで取引されて いることに驚かされたものだ。


「これがそうなんだぁ…」


古い時代の専門書に特有の黒い表紙が格調高い。背には金文字で『特許法概説 吉藤幸朔著』と記してあった。

ずっしりと重いその本を手に取って、おもむろにページを繰る。特許法第四十一条の『国内優先権制度』のページが目 についた。細かなフォントでびっしりと情報が詰め込まれたそのページを、ちょっとだけ読んでみる。


『…技術開発の成果を包括的に漏れのない形で特許権として保護することを可能ならしめるものである…』


的確な表現と格調高い言い回しが心地よい。


「何だか、青本よりも文章が上手でわかりやすい…」


同じような記述は青本にもあるのだが、どうもあちらは官僚の作文臭くて、いまいち頭に入りにくい。しかし、この『特許 法概説』はさすがに名著と言われるだけあって、青本よりも読み手に配慮した書き方がなされているような気がする。

これはいい本だ、と亜美は直感した。難解な事例や、抽象的な概念も比喩を交えて分かりやすく説明しているのがい い。たしかに法改正には対応していないが、そうした些末とも言える部分よりも、もっと法に関する根源的なことを論じ ているという印象だ。できることなら、手に入れたいものだとも思った。


「おお、川嶋さんじゃないか」


なおも『特許法概説』を立ったまま読みふけっている亜美の背後から聞き覚えのある豪快な声がした。その声だけで 当人の目星はついたが、亜美は振り返って、その人物を確認した。
弁理士試験対策のサークルのリーダーだった榊が笑顔で立っていた。


「あ、リーダー、おはようございます」


亜美の『リーダー』という台詞を否定するつもりで、榊は右掌を亜美に向けて左右に振った。


「ああ、その『リーダー』ってのは、もうなし! 君も知っての通り、昨日のクーデターで政権の座を追われたからさぁ。
何よりも、君がいじめに遭ったりで、本当に申し訳なかった。俺が至らなかったばっかりに…」

「あ、リーダー、待って下さい! そんな、頭を下げられても、あたし困ります」


榊がお辞儀をするように頭を垂れたので、亜美は慌て、その榊の目線に合わせるように、自らも中腰になった。

「ほらほら、言ってるそばからリーダーなんて…。こそばゆいよ。単に榊でいいよ」


榊はお辞儀をしたままそう言って、悪戯っぽくにやりとすると、姿勢を戻した。亜美も、榊に従うように元通りに姿勢を正す。


「それじゃ、榊さん、で、いいんですよね?」


榊は、笑顔で頷いた。


「うん、それでいいよ。というか、今やそれ以外に呼びようがないだろ?」

「はい、すいません。以後、そうします」


榊は、笑いながら「うんうん」と頷いていたが、亜美が手にしている本を見て、「おっ!」という感嘆詞を漏らした。


「川嶋さん、その本読むの?」


質すような榊の口調に、亜美はちょっと狼狽した。


「は、はい、じゃなかった、すいません。ちょっと手に取ってみただけです。初学者のあたしに読めるかどうか興味があっ たものですから…」


初学者ふぜいが読むとはけしからん、と榊が思っているのではないか、と亜美はびくついた。


「いや、いい本だよそれは。青本よりも読みやすいし、青本よりも説明が詳しいからね。俺も持っている。ただ、法改正に 対応していないから、たしかに初学者がその本だけを読むってのは宜しくないな…」

「やっぱり、あたしなんかには過ぎた本ですよね?」


見えを張って背伸びをしすぎたのかも知れなかった。


「う〜ん、そうでもないよ。青本を軽視してきた俺が言うと説得力があんまりないけど、青本を読んでみて、よく分からな いところを調べるには今でも適しているよ。というか、未だにこの本を完全にしのぐ特許法の名著は現れていないと言 うべきかな」

「そ、そうなんですか? 辞書みたいな使い方ならいいってわけなんですね? で、あたしみたいな初学者がそういった使い方をしてもいいんでしょうか?」

「ぜ〜ん、ぜん、オッケイだよ。特に、川嶋さんは、レジュメには頼らない青本中心の骨太な勉強を指向しているみたいだ から、そういう人には勧められるね」


レジュメとは、青本等から重要な部分を抜粋した受験勉強専用のツールで、資格試験対策の予備校等が発行している。


「そ、そうなんですか…」


榊の意外な言葉に、亜美はちょっと嬉しくなった。


「で、川嶋さん、その本をちょっとだけ読んでみた感想は? 未だ感想を述べられるほど読んでないなら、これには応え なくていいけど、どう?」


突然の榊の問い掛けに、亜美は「えっ?」と絶句した。変なことを言ったら、昨日、瀬川に突っ込まれたように、榊にもい じめられるのではないか、と不安になった。しかし、目の前に居る榊の柔和な表情から、そのようなことは決してないと 思うことにした。


「は、はい、青本よりも文章が上手で読みやすいです。それに、抽象的な概念も比喩を交えて分かりやすく説明して
あると思います」


榊は、腕を組んで、満足そうに頷いている。


「うん、川嶋さん、君はなかなか大したもんだ。一読しただけで、その本の長所を見抜いている。正直、俺なんかよりも 素質がありそうだ。君なら、弁理士試験にも短期間で最終合格できそうな感じだな」

「ええ? でも、昨日は、瀬川さんに、こてんこてんにやられて…、あたしなんか弁理士試験を受験する資格がないよう な言い方をされて…、そんなあたしですけど、合格できますか?」


榊は、首を縦に振った。そして、亜美に囁いた。


「瀬川の言うことは気にしちゃダメだよ。あいつは君を凹ますために、根拠のないことを言ってるに過ぎないのさ。それ どころか、昨日の君は大したもんさ。だって、瀬川が出した特許法の問題は、三次試験の過去問だからね。普通なら勉 強を始めたばかりの君が分かるはずがないんだ。実際、瀬川たちも君が正解した直後、血の気が失せていたからね」

「でも、民事訴訟法の問題でやられました」

「あの問題だって、完全に説明しようと思うとかなり大変な代物だよ。今年も前期試験には出題されるだろうけど、それ までに完全に説明できるようにしておけば十分だ。気にすることはない」

「そうなんですか…」


榊は、自己の発言に嘘がないことを強調するつもりなのか、大げさなポーズではなく、「ああ…」とだけ、軽く頷いた。


「それどころか、昨日の君の奮闘ぶりに、俺やサブリーダーの小林くんは、むしろ感動してね。来月の二次試験は、本当 に背水の陣で臨むつもりなんだ」

「いえ、そんな…、大げさすぎます。あの特許法の問題だって、たまたま青本で最近読んだ部分だったんです。その意味 するところも完全には分かっていないんですよぉ。だから、そんな、感動だなんて…」


当惑してうつむいた亜美に榊は優しげな笑顔を向けている。


「たまたまであっても、青本の内容を諳んじることができたのは、やっぱりすごいことだよ。並の受験生にはできない 芸当さ。それに、やっぱり基本は青本だな、っていうのを俺たちも痛感したんだよ。だから、今回の二次試験は、俺も 小林くんもレジュメばかりに頼らずに、青本と、その『特許法概説』を含めた専門書で、『包括的に漏れのない形で 二次試験対策を可能ならしめる』つもりだよ」

と言って、にやりとした。

亜美は、榊の最後の『包括的に漏れのない形で二次試験対策を可能ならしめる』が、『特許法概説』の国内優先権 制度の説明をもじったものであることに気付いて、思わず「ぷっ」と吹き出した。


「お、最後の台詞の元ネタが、その本の記載だってのが分かったんだ。ますますもって頼もしいや」


亜美は、笑いをこらえながら、「は、はい…」とだけ応えた。静粛な図書館で、大口開けて笑ったら、司書につまみ出され てしまうだろう。


「まぁ、そんなこなんで、今度の二次試験は造反した瀬川たちに負けないためにも、俺たちは必死なんだ。それに、 コンパでひどい目に遭わされた君らの仇を討つという意味合いもあるし」

『仇討ち』とは少々物騒な物言いではあるが、榊なりに亜美と竜児を気遣ってくれていることの顕れなのだと理解した。
豪放で、少々大雑把な感じはするが、本当に思いやりがあって、優しい人のようだ。それだけにサークルが分裂してしまっ たのが惜しまれる。

「あのぉ、サークルは、完全に分裂したままなんですか?」


その質問にだけは、榊にとって手痛いものだったのか、ちょっとばかり顔をしかめた。


「うん…、残念だけれど、このままだな。瀬川とは君らも反りが合わないだろ? それは俺たちも同様だ。あの本性は、 俺たち院生も知らなかった。あそこまでのワルだとは夢にも思わなかったよ。だから、彼らをもはや同志として認めるこ とはできない」

「そうなんですか…」


質問の仕方がまずかったのかも知れない。亜美も瀬川と一緒の勉強なんぞ御免蒙りたいが、榊や小林たちと今後も
一緒に勉強できないかというつもりで訊いたのだ。だが、それを察したのか、榊は、再び笑顔を亜美に向けた。


「サークル活動は、共通の目的を持つ同志がいる、ってのが心強い反面、それで安心し切ってしまい、真摯な学習が疎 かになるという欠点もある。加えて、俺なんかは、メンバーの自主性を尊重するという名目で放任状態だったからなぁ…。
今さらだけど、サークルに対する君らの第一印象は、『手ぬるい』とか『半分お遊び』とか、そんなもんだったんじゃないかな?」

「そ、そんなこと、あ、ありません!」


図星を指されて、亜美は迂闊にもどぎまぎしてしまった。
さすがに榊は元リーダー、洞察力もまんざらではないようだ。


「まぁ、瀬川たちが造反したのも、俺のこういったいい加減さが原因みたいなものだからね。君がそう思わなくても、俺 自身は自分のいい加減さを反省しているんだ。それに君や高須くんは、既に青本や条文集を使った、ごまかしのない 勉強を始めているようだ。であれば、レジュメに完全に頼っている者が中心の我々と一緒に勉強することにあまりメリッ トはないだろう。これまで通りに、青本や、条文をしっかり読む勉強を続けていけば、自然と実力は身に付くよ」

「はい…」


突き放されたような気分もしたが、ポテンシャルを認めてもらえたような気もする。それに、亜美には竜児が居る。榊の 言うように、竜児と二人で頑張っていくべきなのかも知れない。


「なあに、これは昨日、高須くんにも言ったんだけど、俺たちは未だ学内に居るから、何か勉強で困ったことがあれば、 いつでも相談に来てくれ。答えられる範囲で対応するつもりだ」

「はい! ありがとうございます」


手近なところに指導してくれる者がいるのは心強い。それも人格が円満そうな榊であれば申し分ないだろう。


「それと、話はその本に戻るけど、買う?」

榊は亜美が手にしている『特許法概説』を指さした。


「あ、これですかぁ? 購入できるのなら何とかしたいです。でも、インターネットのオークションを見たら法外な値段が
付いていて、ちょっと悩みますね…」


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