竹宮ゆゆこ総合スレ SS補間庫
   

 

 あみママ! 2


「アートポスターの方がよっぽどましね…。」

そう吐き出して、点けたばかりのタバコを微妙なグラデーションとスミレの柄が彩る小皿に押し付ける。
本来それは灰皿ではないが、大きさと縁の厚みがちょうどよくて、灰皿代わりにしていた。
私がタバコを吸うのはよっぽどイラついた時だ、というのは、どうやら聞いていたらしい。
小柄な男は、何度もハンカチで汗を拭う。
先日、先輩にあたる女優から、いい画商がいるといって紹介された。
それで早速呼び出してみたのだけれど。
さっきから、私に見せるのは下らない現代作家のシルクスクリーンばかり。
そもそも、この小男は美術の造詣が深いとはとても思えない。

この応接室は夫が欧州に行く度に、どこからか買い漁ってくるアンティークに満たされている。
アールヌーヴォーやら、チッペンデールが交じり合いつつも、妙にバランスがとれたカオスな空間。
繊細な彫刻が施されたロココ様式のサイドテーブルにさりげなく置いてあるガレの花瓶は夏色の青。 
季節とともに置き換えているが、いずれも風景文なのは私の趣味だ。
ガレ本人の手によるものではないが、すべてガレの工房で一つ一つ手作りされた逸品である。
だが、男はそれに気がついた様子も無い。
第一、今灰皿にしているコレも、ドームの工房の品なのに、見ようともしない。
さらに、私の背後にある暖炉の上には3枚の絵が飾ってある。
私を前にしている男からは当然、これ見よがしに見える位置だというのに…。
それぞれ、ヤン・ファン・ホイエン、エドモンド・ブレア・レイトン、ギュスターヴ・ロワゾーの真作。
あえて時代も作風もまちまちの3枚を飾っておいたが、これも反応なし。
夫の自慢のコレクションもこれでは虚しいばかりだ。

いらついて、男の持ってきたカタログをなかば奪い取るように引き寄せた。
紹介してくれた女優の顔を潰す訳にはいかない。 なにか一つは買ってあげないといけないだろう。
もう、この男の話なんか聞いていられない。
勝手にぱらぱらとカタログをめくる。 男はどぎまぎしながら口を挟むチャンスをうかがっているようだ。
それにしても、こうも下らない絵ばかり、よく集める。
どれもこれも原色ギラギラの派手なものばかり…ん?

……なーんだ。 あるじゃない。

見つけたのはブーグローの『プシュケの誘惑』のエッチング。 本人の監修サインつきだ。
この絵は本物を見たことがあるが、モノクロだと全然印象が違う。 …気に入った。

「これ、貰おうかしら。」

男は微妙な表情だ。 何故なら、かなり安いのだ。 100万円もしない。 この男、本物の俗物らしい。
だが、これは掘り出し物だ。 私にとって、絵画の価値は美しいかどうか、この一点のみ。
その意味で、この版画は十分な価値があった。

そうだ。
これは亜美の部屋に飾っておこう。 
ちょっとした悪戯気分。 果たして娘は、気に入ってくれるだろうか。


    あみママ!  -2-


夏というものは当然、暑い。
とりわけ、東京の暑さは人工的で、酷く不快で我慢ならない。
やはり、夏は避暑地でバカンスに限る。
暑苦しい東京では、きっと勉強にも身が入らないだろうと思って、亜美を誘ってみることにした。
学校ももう夏休みだし、私も珍しくまとまった休みが取れそうだった。
そして、何より、夫が高名な老舗競売所の競売を見物に、ハイゲイトに住んでいる友人の家を訪ねる
というのだから、付いて行かないのは損というものだ。


前に遊びに行ったのは亜美が中学校に入ったばかりのことだったから、5年以上前になる。
あの辺りの町の雰囲気は好きだったし、ハムステッド・ヒースでピクニックというのもいい。
避暑地ではないが、あの街は真夏でも25℃を超えることは少ない。
考え出したら止まらなくなって、うきうき気分で娘に電話したのだが。

「なに考えてるのよ、ママ! あたしは受験生なの! 一週間も遊んでる暇あるわけないじゃん!」

ものすごい勢いで怒られた。
私は大学受験なんてしたこと無い。 ソレは一週間程度の夏休みも取れないものなのか?
そう思って、説得しようとしたら…

「一番大事な時期なの! 8月に入ったら第一志望の大学をターゲットにした模試もあるし、今遊んでたら… そうか、ママは私に大学受かって欲しくないんでしょ! だからっ……」

流石にここまで言われるとへこんだ。 そんな事考えてない。 私は受験勉強なんていわれてもピンと来ないだけなのに。
しかし、電話でも空気は伝わるらしい。
さんざん私を罵った後、急に黙り込んだ娘がもう一度話し出した時は、蚊の鳴くような声だった。

「…ごめんなさい、ママ。 …言い過ぎた。 ちょっと行き詰ってる教科があって… 本当にごめんなさい。」

「いいのよ、私こそ、勝手に盛り上がっちゃったみたい。 ごめんね、亜美。 それじゃ、勉強頑張ってね。 
あんまり無理して体こわさないのよ?」

がっかりしたせいか、普段めったに無いくらい落ち込んだ口調になってしまった。

「あっ、ママ待って。 えっと、あの、…3日くらいなら、家に帰っても、いいかなって…。 ほ、ほら、
伯父さん達も、夏休み温泉に行きたいって言ってたし、そしたらあたしあの家で一人になっちゃうし。」

…ほんとに、もう。 優しい子。 
きっとさっきの罵った言葉こそが本心。 受験の事で火の付くような思いなんだろう。 それなのに…。
でも、ここはお言葉に甘えさせてもらおう。
上手く演技が出来ない時、あんまり焦ってもいい芝居にはならない。 そんな時私は、少し芝居の事を
忘れる事にしている。 良くわからないが、勉強だって似たようなもんだろう。
荒野を進むためには、時に立ち止まって先を眺めるのも大切だ。

「それじゃ、伊豆の別荘に行かない? あそこなら近いから、移動の時間も少なくて済むし。 去年、 あなたが使って以来だから、たまには使わないと荒れてしまうわ。 もちろん、勉強道具も持ってね。」

「う、うん。 わかった。 火曜日からなら、あたし、都合つくから。」

「火曜日ね。 迎えに行くわ。 えーと…朝の5時頃でいいかしら?」

「うん。 大丈夫。」

「亜美」 「なに? ママ。」 「…ありがと。」 

照れくさくて、言い終わったらすぐに電話を切った。

「あなた。 御免なさい、ロンドン行けなくなったわ。」

「ん? どうしたんだい?」

「亜美を誘ったら断られたの。 でも、3日くらいなら勉強休んでもいいって言うから、伊豆の別荘に行く 事にしたわ。」

「ふむ。 そうか。 …そういえば、今回出品される例の風景画、君も気に入ったやつだが…。」

「ええ、あの絵、どうかしたの?」

「鑑定結果が出てね。 やっぱりパティニールの筆が入っていたよ。」

「あら。 残念ね… どのあたり?」

「驚いたことに、君が言っていた通り、遠景がそっくり全部そうだったようだ。」

「あら、まぁ。 じゃ200万じゃ…」

「ああ。 もう、どう考えても落ちないだろうねぇ。 僕としてはパティニールの筆が入ってなかった方が良かったよ。 がっかりだ。 はははははは。」

それは、緑に霞んだ遠景が、空気の湿度さえも感じさせるような綺麗な絵だった。
夫が複数の画家による合作らしいと言ったので、きっと遠景を描いた人と、それ以外を描いた人に分かれているんだろうと思った。 どうやらそれは正鵠を得ており、夫がもしかしたらパティニールかも知れないと言ったのもまた正解だったらしい。

だが、そのせいで、この絵は夫の軍資金では手が届かなくなってしまったという訳だ。
同じ絵なのに、誰が描いたかで極端に値が変わるのは、理不尽極まりないと思う。

「そういう訳で、僕も一番のお目当てが崩れてしまったことだし、是非とも仲間に入れてくれないかね?」

「あなた…」

「なに、オークションならインターネットでも、電話でも参加できるさ。 せっかく200万ポンド用意したんだ。 亜美が気に入ったのを落とすのもいいかもしれない。」

「もう、あなたは甘やかしすぎよ。」

「君は厳しすぎさ。」

膨れっ面を作りつつも、夫の優しさは素直に嬉しかった。
もちろん、夫も今回の競売は楽しみにしていた筈なのだ。 けれど少しも未練を感じさせず、本当に羨ましげに『仲間にいれてくれ』という、そんな鷹揚さが、私のようなあばずれを救ってくれている。

「それに…」

左の唇だけが笑う。 夫の得意な表情だ。

「亜美の水着姿は、あの絵よりも綺麗だろうからね。」

「……馬鹿。」



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夏の伊豆に車で来るものではない。
ターンパイクで大観山に抜けて海岸線を避けたが、それでもかなり時間がかかった。
とはいえ、わが家の家族はぶっちゃけ超目立つ。
私と娘が連れ立って電車に乗るのはあまりにも無謀である。 サングラス程度では誤魔化し切れない。
そういうわけで、夫の運転するレンジローバーヴォーグでのろのろとドライブする羽目になった訳だ。
この車はあんまり好きじゃない。 私だったらカイエンを買っていた。
日本じゃこの車が活躍するような悪路なんて無いんだから。
亜美はもちろん、車になんか興味が無く、退屈そうに窓の外を眺めていて、少しばかり可哀想に思える。
しかし、天気は最高だった。 明日も、明後日も良いらしい。
夏の入道雲がもこもこと紺碧の空に生えている。
特に、ビューラウンジから見た芦ノ湖と富士山は見事で、このときばかりは亜美も歓声を上げたのだが。
しかし、それでも長時間のドライブは退屈になりがちだ。
そして、こんな時に一番頼りになるのは、やはり夫だった。

「亜美、勉強ははかどってるかい?」

「う…ん。 まぁまぁかな。」

「歯切れが悪いな。 どれ、一つパパが手伝ってやろうか。」

「え、…でも。 化学とか、物理とかだよ?」

「はっはっはっは。 パパを侮るなよ、亜美。 大方、高分子化学とか、不完全弾性衝突あたりで躓いてるんじゃないか?」

「えっ。 な、なんで分かっちゃうの?」

「いや、女の子はその辺りで躓くことが多いからね。」

「…そうなんだ。 実は、幾何異性体の構造式を書かせるやつとか、ちょっと行き詰ってて…。」

……何を言ってるのか、私にはちんぷんかんぷんだ。 
本当に私の娘なんだろうか? 頭よすぎね?
夫のお陰で亜美の退屈は晴らされたが、私はなんだか仲間はずれにされた気がして、ちょっと寂しい。

結局その後、別荘に着いても二人で勉強をやっていた。 いったい何しに別荘に来たんだか…。
しかし、亜美はいくつかの壁を越えることが出来たみたいで、凄く輝いた笑顔を見せてくれた。
お陰で、夕食までには亜美の機嫌も上々になり、久しぶりの家族そろっての晩餐は楽しいものだった。
私も、数少ないレパートリーから、久々の手料理を披露したのだが、意外な好評に胸を撫で下ろす。
食事が終わると、夫は亜美に明日のオークションのカタログを見せ始めた。
これなら、私も混ざれる。

「どうだい、亜美。 気に入った絵があったら教えてくれ。」

亜美はそれが何なのか、あまり深く考えずに見入っているようだ。
私も額をつきあわせる。

「パパはこれがお気に入りなんだが…。」「あら、私はこっちのほうが好きね。」

亜美の意見を引き出すために、私達がまず主張する。

「あたし、これがいいな…。」

しばらくして娘が選んだ絵は、真っ白な雪景色を描いた絵。
作者はあまり有名ではないが、いい風景画を多く遺しているノルウェーの画家だった。
寒々しい曇天の下の雪景色。 黒いシミのように見える凍った川に、僅かに光が差し込む様は物悲しい。
画面の多くは青みがかった雪と灰色の雲に閉ざされ、遠くに見える家の赤いレンガだけが色彩の全てで あるかのような、そんな絵。
しかし、私も夫も、思わず口元が緩んでしまう。
黒いシミは氷の下から覗いた水面。 そして川沿いには骸骨の様な一本の木が芽を膨らませている。
一見北極圏の厳しい冬を描いたかのように見えるが、実は違う。
そう。 この絵は春の絵なのだ。
絵というものは、目で見るのではない。 心で見るものだ。
だから、安心した。
絶妙に計算された光が、川沿いの木の新芽を照らすように。
娘もまた、長い冬を抜け出そうとしているのかもしれない。

「いい絵ね…。」「…ああ。 素晴らしい。」
だから、私達夫婦は、心の底からこんな言葉を呟いていた。


翌日は、午前中は娘の勉強、午後は水浴びだった。
もちろん、私もスタイルには自信がある。
同じ年代の女優仲間では並ぶものは殆ど居ない。 大抵は圧勝だ。
だが、流石に十代の娘には逆立ちしたって勝てっこない。
ましてや、自分の娘はその中でも頂点のグループに属するのだから、恥ずかしくて水着を着る勇気はなかった。
亜美は亜美で、親に色気を振りまくつもりは毛頭なく、地味なワンピース姿で、夫と水泳対決している。
もっとも、もともと亜美は地味な服装を好む。
普段のあの子は実は『見られる為』の姿だ。 だからこそ、こういう気兼ねない時間は大切にしたい。
飾らない姿の亜美には、輝くような美しさはない。
静かで、柔らかい、しっとりと染み込むような美しさ。 
いつかそういった魅力で、人々を虜にする時が来ると思っていたのだけれど…。
ああ、止めよう。 未練がましいぞ、私。
きっと、この新進気鋭の脚本家とやらの台本なんか読んでいたからだ。
岩場に囲まれた小さなプライベートビーチは爽やかな海風に晒されて、なかなかに心地よい。
これでも一応、バカンスなんだから、仕事のことは忘れよう。
そこで私は、アドリブの構想にしか使えない台本を顔に被せて、昼寝を決め込むことにした。

「セッション1はこちらの時間で19:30からだ。 それまでには夕食を済ませよう。」

「セッション1? なに、それ。」

海岸から戻って、リビングでくつろいでいた私の元に、夫と娘の会話が届いてくる。
昼寝中に亜美に蟹をけしかけられて、追いかけっこを演じた私はすっかり疲れ果て、先に別荘に撤収していた。
昨日、亜美が選んだ絵を落とそうとしていることは、まだ言っていない。
時間を確認し、おもむろに夕食の支度を始めると、夫がオークションの説明をしているのが聞こえてきた。
あのドキドキ感は口で説明できるものじゃないのに。

「あなた、それはいいから、先にお風呂の用意をして。」「ん、ああ。 相変わらず君は人使いが荒いなぁ」

わざとらしくぼやきながらも、よく手伝ってくれる夫に、私は助けられっぱなしだ。
それから、亜美には初めて披露する、最近俳優仲間に教えてもらった新メニューでの晩餐を楽しむと、いよいよ オークションの時間だ。

とはいえ、初めての亜美にはインターネットオークションくらいしかイメージが湧かないらしい。
だが、夫がカタログを手に、電話で参加するのは最古の歴史を持つ老舗競売所のオークション。
一声で日本円にしたら150万単位で金額が上がっていく。 そしてその速度も速い。
一つの作品に数分かかることは稀なのだ。
そして、前日、亜美が選んだ絵のロット番号が告げられたのだろう。 夫の口が開いた。
しかし、それはたったの2度。『買う』という意思表示と『手を下ろさない』という意思表示だけ。
にやりと、左の唇を釣り上げる。

「…53万だ。」 「あら、案外安いのね。 それなりの画家なのに。」

「え?」

亜美はきょとんとしてる。

「この絵を落とした。 買ったんだよ、亜美。」

「53万ポンドって… 8000万円!? マジなの、パパ?」

「コミッションや保険料もあるからね、支払額は1億弱かな。 だから、今回はこれでお仕舞いにしよう。」

「最近、こういう古典的な風景画は安いのねぇ…。 なんだか、ちょっと寂しいわ。」

「抽象画は20億超えるのもザラだからね。 値段なんて有って無い様なものだよ。」
 
亜美はポカンとしている。 それも道理。 我が家は確かに裕福だが、億に達する買い物をポンと済ませた現場は、おそらく初めて見たはずだ。
しかも、それは自分が気に入った品物なのだ。 夫が数ある作品からそれを選んだ理由がわからない娘ではない。

「パパ、それって…」

「ああ、今回はね、亜美が気に入った絵を買うことに決めていたんだ。 いい絵を選んでくれて良かったよ。」

上手に茶化す。

「この絵が届いたら、また帰ってらっしゃい。 あなたが選んだのですもの、実物、見たいでしょう?」

亜美は、己の生まれの幸運を再認識したのだろう。
そして、それは今の亜美にとって決して気持ちのいいものでは無かったようだった。

「難しい年頃ね。」

「ああ。 やはり、今回のオークションの落札代金の殆どがチャリティーに回るというのは教えておくべきだったかな。 
あの子はすぐに自分を悪者にしたがる。 自分が幸運なのを罪だと思ってしまうんだろうね。 既に定まった事をどう こうするなんて出来ない、大切なのはこれからどう行動するか、なんだがね。」
「でも、まだあの子は子供なのよ。 辛くなれば捨て去ってしまいたくもなるだろうし、逆に押しつぶされてしまうかも しれないし…。 なんだか心配で。」

「捨ててしまうのは『有り』だと思うけどね。 まぁ、それを選ばれたら、僕たちにはとても辛いんだが。」

まもなく日付がかわろうかという時間、亜美が海岸に下りていく姿をみつけた。
デッキに下りた私の傍に、いつの間にか夫が現れ、最初から其処にいるのが当たり前であるかのように会話が 始まった。

「やっぱり、私がいけなかったのかしらね…。 …あなたには何度も叱られたわ。」

「今更、仕方ないさ。 君も大変だったんだ。」

私のせいじゃない、とは言わないあたりが夫らしい。
亜美のことは、ほったらかしにしすぎたと思っている。 夫とした喧嘩の殆どが亜美の事だ。
夫が居るから大丈夫と思って、幼い頃の亜美の相手は殆どしなかった。
出産と育児で2年近く休業して、焦っていた。 仕事に精一杯だった、というのは言い訳なんだろう。
夫は何度も、母親の愛情は別物なんだと言って、私を叱ったものだ。
きっとそのせいで、亜美の心には『孤独』という怪物が住み込んでしまっている。

「優しい子に育ってくれたじゃないか。 それによく人を見抜く。 怪我の功名だが、役にも立つさ。」
保身の為、人の心の動きを捉えるのに卓越した。 それは、悲しい能力だ。

「あの子には色々無理強いしてしまったのかもしれないわ。 いつも素直に従ってくれるから、それで良いと思っていたけど、やっぱり嫌だったのかしらね…。」

「どうだろうね。 やはり、年頃なんだろう。 色々自分で考えたくなるし、それに君なら僕よりわかるだろう? 最近、急に艶っぽくなった。 好きな男ができれば、女は変わるものなんじゃないかね?」

「そうなの、かしらね……。」

一人海を見つめる亜美の後姿を遠目に見る。
確かに、恋をしている。 そして、それは相当に辛い恋らしい。

「片思い、という感じだなぁ…。 あれは。」

「あなたが見てもそう見えるの?」

「なんていうのかね、すっかり尻尾が丸まってる感じだ。 恋敵が、あの亜美を完封するような女の子なら、僕も男として興味が有るねぇ。」

「もう… あなたったら…。」

「それに、君のこんなに弱々しい姿も、男として放っては置けない。」

急に静かに囁く様な口調で話しかけられ、心臓がトクリと鳴った。
ゆっくりと向かい合う。
優しい瞳は、初めて会った時と変わらない。
背中に夫の手が添えられ、私は静かに目を閉じる。

―――突然、閉じた瞼に接吻された。
驚いて、顔を離した私に、悪戯っぽい声が届く。

「勇気が出るおまじないだ。」

そして、夫は道をあけ、私の背中に添えた手に微かに力を込めた。


「惚れた男は振り向いてくれた?」

足音で気付いていたのだろう。 海岸に下りてきた私に、亜美は驚かない。
娘は月明かりに白い肌をよりいっそう際立たせ、苦笑いを浮かべつつ星空を見上げる。

「…どうして、……わかっちゃうかな。」

「そりゃ、あなたの倍以上女やってるんですもの。  …ま、半分はハッタリだけど。」

「あはっ」

短く笑って、月明かりで微かに輝く水平線に視線を戻す。
その彼方に、娘が何を見ているのか、推し量ることは出来ないが。

「多分、ダメ、かな。 …でも、いいの。 どっちにしても、今のあたしが彼にしてやれる事って、変わらないと思うから。」

たった一年、離れて暮らしただけで、私の娘はこんなにも大人になっていた。
人を愛することを覚えた。
けれど、まだまだだ。 
人の面倒は見れても、自分の面倒が見れないんじゃ、笑い話にもならない。

「そう。 まぁ、あなたがしたいようにすればいいんじゃない? でもね、ちゃんと相手に伝える努力もしないとダメよ。」

「べつに、いいよ。 本当はあたし、彼の傍に居れなかった筈なんだ。 だから、あたしがやってる事って、たぶん、只のおせっかいなんだよ。」

「本当はって、ねぇ。 実際、そうはなってないんだもの、傍に居れないってのが嘘だったって事よ。」

「え?」

「当たり前でしょう? これからの事は解らないけど、過去の事は変えようがない。 たった一つの真実よ。だから、 あなたがその人の傍にいるのは、偶然じゃない。 必ず、なにか意味がある。」

「意味って… あたしが、彼の傍にいるって事に? そんな、そんな筈ないよ… だって、だってあたしは卑怯で、臆病で… なにも出来なかっただけなんだ…。」

まったく、遺伝子ってのは厄介だこと。 こんな所まで似なくていいのに。
若い頃の私はちょうどこんな感じだった。 自分のことが嫌いで、誰かに甘えたがって拗ねていた。
「それでも、よ。 人と人って不思議なものなの。 きっとあなたにしか出来ないこと、伝えるべき事がある。 だから あなたは、その人の傍にいれるのよ。」

「そんなこと言われたって… わかんないよ。 だったら、あたし、…どうすればいいの? どうしたら、伝わるのさ…。」

まったく困った甘えん坊だ。
がっしりと肩を組むように頭を抱き寄せて、こつんと小突く。

「いたっ」

「ばーーーか。 それくらいの事、自分で考えな。」 

娘はたちまち膨れて小さな声で呟いた。

「……ママはいっつもそればっかり…ずるいよ。」

しばらく抱き寄せていた娘を解放して、私は背を向ける。

「さーて、馬鹿娘の相手もしてあげたし、ママは寝ようっかな。」

「ふーーん、『寝る』の。」 

なかなか言うようになった。 少しは元気が出たらしい。
「そうよ〜。 『寝る』の。 だからぁ〜。 じゃましないでね。」

波の音と共に、娘の呆れた気配がただよってくる。
こんなふうに娘と、女として話せる日が来るのを、私は望んでいたのか、いなかったのか。
足元の砂の音が、波の音より耳障りになる頃、私は一度だけ振り向いた。
娘はずっと私の背中を見ていたのだろうか。
その表情は月の蒼い光でははっきりとは見えない。
けれど、確かに目が逢って、娘が笑った…気がした。


2泊3日の短いバカンスはこうして終わりを告げた。
家に着いたのは夕刻で、今晩は亜美も泊まっていく事になった。
けれど、明日からはまた娘の顔は見れなくなる。

一年ぶりで、我が家の玄関をくぐった亜美の表情は悪くない。
行き詰っていた課題も夫のお陰で解消できたようだ。
結局私は、恋の悩みを聞いてやるくらいしか出来なかったが、それでも、少しは役に立てたのだと、信じたい。
少しばかり穏やかな表情になった娘を見て、言いたい事は沢山あったはずなのに、その悉くが、どうでも良くなった。
娘が私をどう思っているのかは、解らなくなってしまった。
けれど、それが私の想いに関わることなんてない。 
そんな当たり前のことを、私は忘れそうになっていたのかもしれなかった。

しばらくリビングで過ごした後、娘は自分の部屋を久しぶりで訪れる。
一年以上使っていなかった娘の部屋。
一つだけ変わっていることがある。
それは、別荘に出掛けるちょうど前日に届いた『プシュケの誘惑』。

願わくば、プシュケーよ。
神話のように、亜美に囁いてやってほしい。

愛とは、見ることでも、確かめる事でも無い。 愛とは、信じる事だ―――と。