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ななこい3
- 朝の教室を見渡してみれば、ほんの数人しか登校してきていないようだった。
「早く来すぎたわね……」
机に肘をついて、奈々子はふぅと息を漏らした。
昨日の晴天とは違って、どんよりとした雲が、窓の外で分厚く滞留している。
このままだと雪が降るかもしれない。奈々子は寒さに身震いして、頬杖をついた。
足の痛みを押して登校したのはいいけれど、思ったよりも早く着いてしまった。
歩く速度が遅くなるだろうと予測して、早めに家を出たのが裏目に出た。
足元に目を落とす。
起きたら足の甲がわずかに腫れていた。昨日、お風呂に入ったのがまずかったのかもしれ
- ない。
湿布を貼った上に、8の字に包帯を巻いてある。その上から靴下を履いたものだから、少し
上履きが窮屈で、踵を踏み潰していた。
竜児が奈々子に巻いてくれた包帯は、膝に巻いてある。竜児が包帯を巻いてくれた時のこと
を思い出して、奈々子は目を細めた。
包帯を巻いてくれた後に、そっと頭を撫でてくれた。あの自然な行為に、奈々子はやられて
しまったのだ。
昨日、勢い余って竜児に告白してしまった。返事は貰っていない。今すぐに、と決断を迫った
ら断られるのがわかりきっていたからだ。
だから、これから仲を深めていくしかない。麻耶の話だと、竜児は少なくとも告白されたこと
に悪い印象を持っていないようだった。
それならまだチャンスはあるかもしれないと思っていた矢先に、麻耶は亜美に、奈々子の恋
心を伝えてしまった。
麻耶のいらぬおせっかいで、奈々子の恋には障害がひとつ立ちふさがってしまった。
「ふぅ、ほんと、おせっかいね……」
-
頬杖をついたまま、奈々子は緩く巻いた髪に触れる。
「お、おはよう奈々子」
声をかけられて、視線だけ向ける。コートを羽織ったままの亜美が、奈々子を見下ろしてい
た。
視線が合うと、亜美はふいと目を背ける。右手で左肘に触れながら、亜美はぎゅっと自分の
体を抱いた。
「亜美ちゃん、おはよう。早いわね」
-
「あ、うん……」
何かを言おうとしている亜美を上目に見て、奈々子は口元に笑みを浮かべた。
-
「どうしたの亜美ちゃん? 元気無いじゃない」
「別に、そういうわけじゃないんだけど……」
亜美が教室を見渡す。他の誰かに聞かれたくない話があるのかもしれない。
-
「奈々子、ちょっと、いい?」
自動販売機の前に来てから、奈々子は対面の手すりにもたれた。痛みは随分引いてきた
ものの、長く歩いたり立つのは辛い。
亜美は自動販売機にもたれながら、奈々子の足を見下ろした。少し距離を取って、向かい
合う。
「奈々子大丈夫なの? ごめんね、仕事でお見舞い行けなくて」
-
「ううん、平気。一応歩けるようにはなったし、無理に足首曲げなかったら大丈夫よ」
「そう……」
亜美は表情を曇らせて、視線を壁に向けた。こんなことを言うために連れてきたのではない
のだろう。
奈々子にはそれがわかっていた。竜児のことが好きだということが、亜美にも知られた。
それについて話があるのだろう。
大切な友達ではあるけれど、目下のところ恋のライバルであることには変わりない。
「あのね亜美ちゃん。ひとつ訊いていい?」
-
奈々子は先手を打つことにした。
-
「亜美ちゃんはさ、高須くんのこと好きなの?」
-
「だっ、誰があんな奴のことッ」
慌てて亜美が声を荒げる。すかさず奈々子は両手を叩いた。
-
「よかった、実はあたし高須くんのこと、好きになっちゃって、それで亜美ちゃんも高須くんのこと好きだったらどうしようって思ってたの」
笑みを浮かべながら、奈々子は早口にそう言い切った。
話している途中で割り込まれた格好の亜美は、目を丸くして奈々子を見ていた。
「うふふ、よかったぁ、亜美ちゃんがライバルじゃなくって」
-
「奈々子……あんた」
-
亜美は目を細めて、微笑む奈々子をわずかに見下ろした。コートの肘のあたりを掴みながら、亜美は唇を開く。
「あのさ奈々子……、高須くんのこと、好きになんかならないほうがいいよ。あんなの好きになっても、傷つくだけだから」
-
「それは亜美ちゃんの実体験?」
-
奈々子の切り返しに、亜美は言葉を失った。
-
「あたしが高須くんを好きになったら、亜美ちゃんは困るの?」
「それは……、だって友達に傷ついてほしくないから」
-
笑顔を浮かべたままの奈々子と違い、亜美は表情を曇らせて床に視線を落とした。
「傷つく? あたし、高須くんのこと好きになって本当によかったと思ってるわよ。でも、全然相手にされてないけどね」
-
竜児に告白はしたものの、返事は聞いていない。
自動販売機にもたれかかって、亜美が俯く。
-
「……ねぇ奈々子、本当に、やめときなよ。あんなの好きになっても、しょうがないって」
「そう、亜美ちゃんはそう思ってるんだ。それってさ、亜美ちゃんが高須くんのことが好きで、あたしがライバルになったら嫌だから?」
「違うっ、そんなんじゃないって。全然違う」
-
亜美が床に向かって言葉を吐き出した。
「じゃあ、亜美ちゃんもあたしの恋路に協力してよ。ねぇ?」
奈々子は首を小さく傾げて、亜美の顔を覗き込んだ。亜美は唇を噛んだまま、俯いて黙って
いる。
自分の体を抱くように、亜美は腕を組んだ。それから、前髪の間から、奈々子の顔を伺う。
「……なんで、高須くんのこと、好きになったの?」
「自転車で転んで怪我した時に助けてくれたの。治療してくれて、とても優しかったわ」
-
「そう……、そんなことで」
「あたしにとってはそんなことじゃなかったの」
-
奈々子は頬に手を添えて熱い息を吐いた。
そんな奈々子を見て、亜美は腕に爪を立てる。
-
「高須くんに、告白したの。でも、返事はまだ。っていうか、結構望み薄なのよ」
-
「告白……」
亜美が呟いて、自販機に後頭部を当てた。
-
「うん。なんとか、高須くんのこと、振り向かせたいと思ってるの。亜美ちゃんがライバルじゃなくてよかったわ。亜美ちゃんみたいに可愛い子相手じゃ勝てないもの」
「……奈々子、だから、あたしは高須くんのことなんかどうでもいいの。そんなことよりも、奈々子のことが心配で」
-
「だったら、上手く行くように協力してほしいんだけど。高須くんって、何が好きなのかとか、よくわからないから」
もう始業が近くなり、登校してくる生徒も多くなったようだった。
廊下から、生徒たちの賑々しい談笑が聞こえてきた。
奈々子が、亜美に向かって微笑みかける。
-
「ねぇ亜美ちゃん、そろそろ教室戻ろっか」
その言葉に、亜美は天井を仰ぎながら黙り込む。
-
「先行ってて」
-
「そう、じゃあ行くね」
-
右足に体重を乗せて、奈々子は教室に向かって歩き出す。
始業前の教室に戻ると、竜児が席について鞄の中身を机に移しているところだった。
教室の奥まで行くのは少し億劫だったが、一応会話くらいはしておきたい。
近くまで歩いていくと、顔をあげた竜児と視線が合う。
「お、おう香椎、大丈夫か?」
あからさまに慌てた様子で、竜児が手を挙げる。その慌てぶりに、つい苦笑してしまった。
まだ痛む足を引き摺って、竜児の席の前まで来て、机に手をつく。
-
「おはよう高須くん。足はまぁ、無理しなきゃ大丈夫じゃないかしら」
-
「そんな他人事みたいに……。っていうか、膝のそれ、どうしたんだ?」
-
竜児は体を傾けて、奈々子の膝に巻かれた包帯を見た。
-
「ああこれ? ほら、足痛いから歩き方変じゃない。でも、足首だから外から見えないし、見えるところに包帯巻いといたらそこが悪いのかな、って周りが思うかと思って」
「なんか、面倒なことするんだな……」
-
痛みは引いてきたとはいえ、まだ健常に歩くことは出来なかった。足首の怪我では、外から
怪我をしているのかどうかが伺えない。
だから擦り剥いて怪我をした膝に包帯を巻いて、そこが悪いように見せかけていた。
「それよりも高須くん」
-
奈々子は竜児の顔を覗き込んで、そして唇を舌で湿らせる。昨日のうちから、話しておくこと
はある程度決めていたのに、竜児を目の前にすると緊張してしまう。
-
「あたし、本気だから……」
「えっ?! お、おう、ああ、あれな」
-
頬を赤くした竜児が、前髪に手をやって俯く。これが竜児の恥ずかしがる仕草だということは、奈々子にも判っていた。
「でもね、お互いにあんまり知らないわけだし、急にあんなこと言われても困るわよね」
「い、いや別に俺は……」
-
「あのね、もし脈が無いんだったらもうすっぱり断ってくれていいの。でもね、もし迷ってるんだったら、望みが少しでもあるんだったら……」
奈々子はそこまで一気に言ってから、一度唾を飲みこんだ。一気に言わなければと思ってい
たのだが、上手くいかない。
少しずつ教室に人が増えてきた。奈々子は竜児に顔を近づけて、小さな声で言った。
-
「もし望みが少しでもあるんだったらね、あたし、高須くんに好かれるための努力、していい?」
「えぇっ?! ええと、それは……」
竜児はあからさまにうろたえて、持ち前の強烈な目をギラギラと輝かせている。
-
「お願い、高須くん……。あたしはね、高須くんに好きになってもらいたいの。そのための努力くらい、させて?」
「お、おう……」
「本当? よかった」
-
ほっと息を吐いて、奈々子は胸を撫で下ろした。
-
「高須くんのこと、好きだから。がんばるわ」
-
そう言ったところで、予鈴が鳴った。意味もなく、奈々子は振り向いて黒板の上にあるスピー
カーを見上げた。
-
「それじゃ」
「え、あ、ああ……」
竜児の曖昧な返事を背に、奈々子は自分の席に戻った。竜児は顔を赤く染めたまま、頬を
ぽりぽりと掻いている。
自分の席に座り込むと、どっと疲れが出てきた。大きく息を吐いて、椅子にもたれる。
本鈴からしばらくしてやってきた担任が、HRを開始する。ゆりの話をぼんやりと聞き流しな
がら、奈々子は肩に乗った髪に指を通した。
竜児のことを好きになってからというものの、自分の体のどこかに触れることが多くなったよ
うな気がする。
髪を撫でるのもそうだったし、自慰に耽るのもそのひとつだった。全部、竜児にしてほしいこ
とだと気づいて、奈々子は唇を噛んだ。
昨日の夜、自分が竜児に対して持つ好意を亜美に知られてしまった。麻耶が勝手に教えて
しまったのだ。
もし、亜美が竜児に好意を持っているのなら、亜美は何よりも恐ろしい恋敵だと言わざるを
得ない。
そこで、亜美の本心を訊いてみることにした。
「……ほんと、酷いことをしたわね」
亜美が竜児に好意を持っているのではないかということは、薄々考えてはいた。
直接、亜美に竜児のことが好きなのかを訊いて、違うと言った瞬間に自分の話を被せる。
自分が竜児のことが好きだということを、亜美に告げた。
竜児のことを好きにならないでと言う亜美の話し振りから考えて、亜美が竜児に対して好意
を持っているのはほぼ間違いないと思えた。
それでも、亜美は奈々子に竜児のことを好きではないと言ったも同然で、それを無視して亜
美が竜児にアプローチをかけることは無いと思った。
友達に対して、酷いことをした。亜美の良心が、亜美自身が口にした言葉を反故にすること
はないだろう。
けれど、亜美がもし竜児のことを好きだと言い切ったなら、それはそれで構わないと思って
いた。
亜美が相手では、どうしたって勝ち目は薄いが、好きだというのなら仕方が無い。
竜児に対しても、誘導するようにして、欲しい言葉を引き出すことに成功していた。
竜児の気持ちはまだ自分に傾いてはいない。すぐに断られるようなことだけは避けたかった 。
だから、もっと時間が欲しかった。告白してしまったことは、今更取り消せない。
これから好きになってもらうしかない。そのために、様々な策を講じないといけなかった。
委員長北村の号令で、奈々子は考え事の世界からぼんやりと現実に引き戻された。
曇りの日だからか、教室の中は薄暗くて、蛍光灯の明かりが頼りなく思えた。
「やらなくちゃ……」
4時間目の終わりを告げる鐘が鳴ると、教室の中がわっと騒がしくなる。昼休みに入ると同
時に、購買組は教室を出て行かないといけないからだ。
奈々子は鞄の底から、お弁当を取り出した。そこに、麻耶が話しかけてくる。
「ねー奈々子、お弁当食べよう」
手に提げたお弁当の包みを掲げて、麻耶は奈々子の席に寄ってくる。麻耶の明るい声に、
奈々子は曖昧に微笑んだ。
-
「今日は、まるおくんと、高須くんと一緒に食べない?」
「マジでっ?! そんなこと考えてたの奈々子。つーか、めっちゃ積極的じゃん」
「まぁ、そうね」
奈々子はお弁当の包みを持ち上げながら、竜児の席に視線を移した。どうやら、北村祐作と
一緒に食べるらしい。
机をガタガタと移動させて、向かい合わせている。
立ち上がった奈々子が、ゆっくりと竜児の席の傍まで歩いていった。
「ねぇ、一緒にお昼食べない?」
-
「うおわっ?!」
「なによその驚き方、失礼ね」
-
声をかけられた竜児は、肩をびくっと震わせて奈々子のむくれ顔を見上げた。
北村が首を傾げて、奈々子の顔を伺う。
「おや、なんだ香椎。一緒に食うのか? 木原も一緒か」
-
「うん、まるお、一緒に食べようよ。ね、いいっしょ」
「ああ、構わないぞ。はっはっは、こういうのもたまにはいいな、どれ」
-
立ち上がった北村が、近くの席から椅子をごそごそと持ってきて、麻耶と奈々子に勧める。
-
「ほら、座ったらどうだ」
「おい北村、お前そんな簡単に」
-
「ん? どうした高須」
-
北村は弁当の蓋を上げながら、竜児の言葉に首を傾げた。奈々子は椅子を移動させて、竜
児の隣に持ってくると、そこへ座った。
「それじゃ、食べましょ。うふふ、こういうのもたまにはいいじゃない、ね?」
至近距離で顔を覗き込まれて、竜児の体が奈々子から離れるように傾く。
「お、おう……。ぜんぜん構わねぇけど」
-
「そうだよ高須くん、いいじゃんたまにはさー」
麻耶もちゃっかりと北村の隣に座っていた。
北村はうんうん、と頷いてから立ち上がると、教室中に響き渡るような声を上げた。
「おーい、逢坂、櫛枝、お前らも一緒に昼飯食わないか? っていうか亜美、お前もだ、どこ行くんだ。お前も弁当だろ」
は?
奈々子と麻耶が同時に動きを止めて、お互いの顔を見つめあう。
-
「なんだよ北村くん、私は大河と、らぶらぶいちゃいちゃタイム中なんだからさー、邪魔しないでよ」
「そうだよ、今はみのりんとイチャイチャしてるとこ」
-
遭難という大変な目に遭った後なのに、大河は額の傷くらいしか目立った外傷もなく、いたっ
て元気だった。
実乃梨の背中におぶさって、肩にぐりぐりと顎を擦り付けている。
-
「ハハハ、気にするな。まぁみんなで食べたほうが美味しいじゃないか。今日は香椎と木原もいるしな。って亜美、おい待てって」
北村は弁当の包みを持って教室を出ようとしていた亜美のところまで駆け寄って、その腕を
掴んだ。
-
「あーもう、何? 触んないでよ」
-
「お前も一緒に来い。ほら、香椎も木原もいるだろ」
-
鬱陶しそうに表情を歪める亜美に、北村は爽やかな笑顔で話しかける。
-
「うっさいなぁ、亜美ちゃん一人で食べるから」
-
「せっかく人がいるんだから、お前も来いって。みんなで食べたほうが美味いだろ」
-
押し問答をしているところに、実乃梨がやってきて亜美に微笑みかける。
-
「そうだよあーみん、一緒に食べようよ」
実乃梨が亜美の服の袖を掴み、くいくいと引っ張った。
-
「チッ、話しかけんなよ。今機嫌悪いからパス」
-
亜美は目を細めて、教室から出ようと歩き出すが、体育会系の二人に引き摺られてはかな
わない。
「わかったから離せっつの」
-
掴まれた袖を思い切り振り切って、亜美はつかつかと歩き、麻耶の隣に座った。
北村と自分との間に入られて、麻耶が何か言いたそうに口を開くが、機嫌の悪そうな亜美に
話しかけることはできなかった。
奈々子も、まさか大河と実乃梨、そして亜美が同席するとは予想もしていなかった。
そこに、購買から戻ってきた春田が、机をひっつけて座っている面々を見て声をあげた。
-
「うおっ、っていうかなにこれ、なんか盛り上がってるねー」
能登もこのメンバーを見て、目を瞬かせている。
「なんでまたこんなに大勢。何があったんだ高須?」
-
「……いや、俺に訊かれても」
竜児にも何故こんなことになっているのかはわからなかった。
右隣に奈々子、左隣に大河が座っている。大河はコンビに弁当をふたつ広げて、早くも昼食
を食べ始めていた。
実乃梨も自作の低カロリー、高タンパク弁当を広げながら、大河の弁当を覗き込む。
「って大河なんだよこのチョイスは、たらこパスタとご飯一緒に食べるつもり?」
-
「いーの、たらこスパがマイブームなんだから。たらこたらこ。へっへっへ」
大河と実乃梨は暢気にお弁当を突付いている。亜美は早く食べてしまおうというのか、いつ
もよりも早いペースで次々とお弁当をかきこんでいた。
奈々子が、こんなはずではなかったのにと、渇いた笑い声を漏らす。
机を引っ張ってきた能登と春田が、机の上に腰掛けた。
購買で買ってきたばかりのパンを食べ始める。
ここに集まったメンバーを見て、それぞれ頭の中に忘れがたい日のことが思い出されていた。
「っていうかさー」
-
春田がヤキソバパンを放り込みながら、朗らかに言った。
「このメンバーってさ、あれだよな、修学旅行の班だよなー。懐かしいなー修学旅行。ってこないだだっけ」
春田の言葉に、全員の箸がぴたりと止まる。
集まったメンバーが、修学旅行の班だということには誰もが気づいていた。
しかし、その話題を出したいとは思わなかった。
修学旅行では、何かと色々あった。口にしたくないことがあった。
だから、気づいていながらも黙っていたのに、春田は何も考えずに話してしまう。
「あれ? どったのみんな?」
怪訝そうに体を乗り出して、箸を止めたみんなを順番に見渡していく。
「ねぇねぇ、どったの?」
ちょっとお前黙れ、と誰もが頭の中で思っていた。
押し黙った中で、大きな声をあげたのは北村だった。
「おおっ! そういえば、もうすぐ期末試験だな。どうだ高須、自信は?」
-
「えっ? 俺、俺か、俺はまぁ、なんとかなるんじゃないかと。大河はどうだ?」
-
「はぁ? 私は全然大丈夫だし。ねー、みのりん」
「おう、私もまぁ適当にやるつもりだし。あーみんはどう?」
「……」
会話のバトンを向けられた亜美は、無視して食事を続けていた。
不意に訪れた沈黙に、場の空気が固まる。亜美が拒否したバトンを拾ったのは麻耶だった。
「あっ、あたしも結構がんばんないとなーって思っててさ。ほら、兄貴ノート、また見たいかなって。ねぇ奈々子も一緒にどう?」
奈々子は話を振られて、慌てて返事をする。
「そうね、なんか凄いらしいし、あたしもあのノートの恩恵にあずかりたいなーって。それより、春田くんは大丈夫なの試験」
北村が放った話が自分のところに来て、春田が苦いものでも食べたように顔を歪ませる。
-
「えー、なんだよ。なんでいきなりテストの話なのさ。つーか来月じゃね? なんで大先生も昼時にこんな話するのさ」
「ん、いやまぁ、生徒会長としては、みんなの学業の調子が気になるものだからな。いやいや、がんばらないと」
-
あさっての方向を向いたまま、北村が言葉を濁す。
春田がうげーっと天井を仰ぎ、大袈裟に体をくねらせた。そのアホな仕草に、場の空気も和
む。
ただ、能登だけは首を捻っていた。
-
「……なんで誰も俺には話振らないの? ねぇ、なんで?」
放課後のHRの最中に、奈々子は眉間に指を当てながら目を閉じていた。
昼食を一緒に食べて、距離を縮めようという案は上手くいかなかった。
まさか北村があんなに人を呼ぶとは、想像もしていなかったのだ。
お互いにお弁当は自作だったし、料理のことだったら何かしら話が弾むだろうと思ったのに、
それどころではなかった。
「はぁ……」
家事に関しての話題なら、お互い盛り上がれるのではないかと奈々子は考えていた。
竜児の家事テクは相当高いレベルにあるようだし、話しているだけで参考になることはある
はずだ。
それにしても……。
奈々子は後ろのほうへ視線を向けた。実乃梨が目を閉じたまま、ゆらゆらと眠そうに揺れて
いる。
竜児が実乃梨に告白をして、振られたというが、二人の間にはあまりわだかまりのようなも
のが見えない。
実乃梨は、竜児のことを意識してないのだろうか。修学旅行でも、亜美が言わなければずっ
と気づかなかったかもしれない。
大河のこともよくわからなかった。
あれだけ竜児の傍にいたのなら、竜児のことを好きになっていてもおかしくない気がする。
大河は実乃梨とも仲がいい。だから、竜児と実乃梨の関係についてもよく知っていておかしくない。
なのに、健全な友達のように付き合っていて、それが奈々子には余計不自然に感じられた。
「香椎さーん、起きてる?」
「えっ?」
-
ぼんやりとしていて気づかなかったが、目の前にゆり先生がどっしりと立っていた。
手に持っているのはプリントの束。奈々子はそれを受け取って、一番上だけを取り後ろへ回
す。
-
「香椎さんは、時々ぼんやりさんね。ふふ」
-
そんなことを言われて、奈々子は机に視線を落とした。
「怪我は大丈夫なの?」
「ええ、まぁ」
曖昧に言葉を濁す。無理さえしなければ大丈夫だった。
-
「そう、お大事に」
-
担任の微笑みに、奈々子も微笑み返す。
「ねぇ高須くん、一緒に帰らない?」
-
「うおぅっ?!」
「だから、なんでそんなにびっくりするの?」
-
さっさと鞄に教科書やノートをしまいこんだ奈々子は、席を立とうとしていた竜児に声をかけ
た。
竜児は話しかけられたのが意外だったのか、大袈裟に驚いて手を胸に当てている。
-
「そんなにあたしに話しかけられるのが嫌?」
「いや、全然そんなことねぇって」
首をぶんぶん横に振って、竜児が否定する。
-
「本当? じゃあ一緒に帰りましょ。っていうか、高須くんの家に置いてきた自転車取りに行きたいの」
「ああ、あれか。あんなもん、そのうち持ってってやるよ。その足で乗るの大変だろ」
-
「そう、それじゃ今日は一緒に帰るだけにしましょ」
-
「お、おう」
曖昧に頷く竜児に、奈々子は微笑みかけた。
よかった、と心の中で奈々子が安堵する。ちょっと強引だったかもしれない。
二人きりでの下校に胸が躍った瞬間に、鞄を背中に背負った能登が、竜児に話しかけてい
た。
-
「おーい、高須。一緒に……、ってどうしたんだ?」
-
竜児と一緒にいる奈々子に気づいて、能登が眼鏡の奥の瞳をきょろきょろと二人の間に向
ける。
-
「高っちゃんどしたの。帰ろうぜー」
突然現れたお邪魔虫に、奈々子は微笑む。
-
「ごめんね、ちょっと高須くんに用事があって、あたしと一緒に帰るの」
-
「へ?」
「ほぁ?」
アホのように目を丸くして、能登と春田が顔を見合わせる。そして、疑問の視線を竜児に向
けた。
-
「えっとだな、ちょっと香椎の自転車を俺が借りっぱなしで、そんでそれを返すためにだな」
-
「ふーん、そうなのか。でも高須、お前夕飯の買出しとかあるんじゃないのか」
「ああ、まぁあるけど」
「あたしもそれに付き合うから大丈夫よ。ほら、行きましょ」
奈々子は竜児の袖を掴んで、くいっと引っ張った。これ以上誰かに絡まれるのは困る。
「それじゃ、能登くん春田くん、またね」
-
ぽかんとしている二人に手を振って、奈々子は歩き出した。
商店街の中をゆっくり歩きながら、奈々子は隣の竜児をちらりと伺った。
歩きにくそうにしている奈々子を見かねて、竜児はすぐに奈々子の鞄を預かり、背中に背負
っている。
そういった自然な優しさに、奈々子はつい惹かれてしまうのだった。
曇った空の下に、水分を含んだ冷たい空気が停滞していた。風がないだけ、寒さはましなの
かもしれない。
夕方の商店街は人通りも多く、ゆっくり歩く二人は後ろから来る人に次々と追い越されてい
た。
「ごめんね高須くん。無理矢理誘っちゃって」
-
「ん、いや別に……」
-
竜児は頬を掻きながら、奈々子に合わせて歩いていた。
「一緒にいたかったの。迷惑じゃなかった?」
「いや、別にそんなことねぇけど……」
「そう、よかった」
竜児と一緒に歩いているだけで、奈々子は自然と笑みがこぼれてしまう。
まだ竜児の気持ちが自分に向いているわけではない。それがわかっていても、好きな人が
隣にいてくれて、優しさを見せてくれた。
-
「うふふ、高須くんと二人きり」
-
足さえ痛まなければ、スキップでもしていたかもしれない。
-
「しかし、なんでまた俺なんかに……。それが一番わからねぇんだが」
-
「あら、高須くんはとってもいい男じゃない。一家に一台は欲しいわね」
-
「家電かよ」
全自動家事マシーン竜児。ただし顔は怖い。
「つーか、あまりにも突然で、何が何やら……」
竜児は曇天を仰いで嘆息した。
「あら、あたしにとっても突然のことよ。だって、高須くんのことをこんなに好きになるなんて全然思ってなかったんだから」
-
「お、おう……」
-
頬を赤く染めた竜児が、前髪に手をやって俯いた。
-
「だから、あたしの想いが高須くんに通じたらいいな、って思ってるわ。あたしのこと嫌いじゃなかったら、しばらく付き合ってよ」
「うぇっ? つ、付き合う?」
-
「別に深い意味じゃなくて、お互いに時間があったら一緒にいましょってこと。でも、深い意味でも構わないわよ」
-
うふふ、と目を細めながら、奈々子は竜児に近づいた。
-
「い、いや……。俺は、なんだ、どうなんだろう」
-
「考えておいてね。高須くんがあたしのことなんか嫌いで、望みはまったく無いっていうんだったらはっきり言って欲しいけど」
奈々子の言葉に、竜児が商店街のレンガ敷きを見下ろしてうーんと唸る。
「……俺、卑怯だよなぁ。好かれてるってのが本当なのかどうかわからなくて」
-
「本当よ。信じて」
-
「え、いや、それはわかったんだけど……。それがわかってても、ちゃんと返事してなくて、なんか曖昧で」
「そういえば、高須くんは櫛枝にちゃんと振られたの?」
-
「ぬぉぅ、な、なななにをいきなり」
-
鞄を持ったまま、竜児はたたらを踏んで転びそうになっていた。
-
「もしかしたらさ、なんでもなかったみたいに扱われてるんじゃないかと思って」
-
「……多分、その通りだろうけど」
-
「それで、高須くんは櫛枝に未練たらたらで、諦めきれないの?」
-
竜児の表情を伺いながら、奈々子は竜児に尋ねた。あまりにも踏み込んだ質問だったかもしれない。
そう思ったが、竜児は少し考え込むように視線を遠くに向けていた。
-
「正直、わかんねぇ……。なんつーか、もう、やることやり尽くして、力尽きたというか」
-
言葉を確かめるように、竜児は自分の顎に手を添える。
「あいつは、俺の、憧れだったから。あんなふうになりたいと、ずっと思ってた」
「明るい性格がよかったの?」
「そう、かもしれねぇな。あいつみたいに、自分でやること決めて、進みたかった」
-
憧れを語る目は遠く、少しだけ寂しそうに微笑む竜児を見て、奈々子は唇を結んだ。
-
「じゃあ、高須くんも自分で決めればいいんじゃない? そう思うんだけど」
-
「……やりたいこと、したいこと、そういうのが無いからな。失いたくないものならあるけど、俺は、どうすればいいのかわかんねぇ」
はぁ、と息を吐いて、竜児は肩を落とした。
奈々子が、竜児の手を取る。
-
「うおっ、なにを?」
「高須くん、スーパー、通り過ぎてるよ」
-
「え?」
会話に夢中だったせいで、寄るはずだったスーパーの前を通り過ぎていた。
振り向いてから、竜児は再び溜め息を吐き出す。
-
「香椎、どっかにネジ落ちてねぇか?」
「ネジ?」
「俺の頭のネジだ」
スーパーで買い物をしている最中も、竜児は肩を落としたままうろうろしていた。
野菜売り場で、土のついたままの野菜をそのままカゴに放り込んだり、タマゴのパックの上に
牛乳を置いたり。
どうにか買い物を終えたものの、竜児は店を出てすぐに溜め息を吐いて空を仰ぐのだった。
奈々子はどうにか竜児を元気づけてやりたいと思うのだが、上手く言葉が出てこない。
-
「ねぇ、高須くん、あたしが櫛枝のこと訊いたのがまずかった?」
-
「いやそうじゃなくて、俺って、なんかダメだなぁと」
スーパーを出て、商店街を歩く。
-
「はぁ、なんかもう、どうしたらいいのか」
-
荷物が重いのもあってか、竜児は背中を丸めて地面を眺めたまま歩いていた。
この曇り空のように憂鬱な心境で、竜児は重たく息を吐く。
「悪いな香椎、一緒にいるのに、こんな俺で」
すまなさそうに笑って、竜児は奈々子を見た。
-
「ううん、いいの。自分が辛いのに、そうやって人を気遣えるのは、すごいと思うし、あたしは高須くんといるだけで嬉しいから」
-
「ほんとに、悪いな……。そこまで言ってもらって、俺って奴は」
-
再び竜児は重たい息を吐いた。
商店街を歩いていると、前方をふらふらと歩いている女性が目についた。
「ねぇ高須くん、あれって泰子さんじゃないの?」
-
「え?」
竜児が顔をあげる。前を歩いている泰子に気づいて、竜児は顎を引き、駆け足で走り寄った。
奈々子はその速度についていけず、ゆっくりと後を追う。
「おい泰子、どうしたんだよ」
-
「ふぇ? 竜ちゃん」
歩みを止めた二人に、奈々子がようやく追いついた。
泰子に挨拶をしようと思い、その顔を見る。だが、顔色を見た瞬間に奈々子は声を失った。
青ざめていて、目もどこか虚ろだった。
-
「ありゃ、奈々子ちゃんも一緒だったんだぁ。あは、竜ちゃんと仲良しなんだね」
-
「ええ、まぁ……。それよりも、疲れてるんじゃないんですか?」
「うん、ちょっと眠いかも」
-
「ったく、だからバイトなんかやめろって言っただろうが」
-
竜児はいかつい顔面をさらに凶悪にして、泰子に向かって言葉を放つ。
「だいじょうぶだいじょうぶ、やっちゃん元気だから」
-
そう言って、泰子は微笑みながら力こぶを作って見せる。もちろん、そんなものはなかったが。
泰子のスカートから伸びる足を見て、奈々子は傷口でも見たかのように頬を引き攣らせた。
明らかに、ふくらはぎのあたりがむくんでいる。
「ねぇ、奈々子ちゃんもお家に来てよ。一緒にご飯食べない?」
-
「おいおい、何言ってんだ泰子」
-
呆れたように竜児が言葉を挟む。
「あっ、行きます。ね、いいわよね高須くん」
-
「いや、お前がいいんだったら別に構わねぇけど……。いいのか、家帰らなくて」
「大丈夫よ。どうせお父さんも仕事遅いし」
-
3人で連れ立って、高須家に向かって歩き出す。
買い物した荷物に、二人分の鞄を背負っていた竜児が、泰子からバッグを取り上げた。
-
「高須くん、それくらいあたしが持つわよ」
「いや、いいって。お前も足悪いだろ」
曖昧に微笑む竜児に、奈々子は小さく息を吐いた。
そうやって何もかもを背負い込んでいたら、竜児も疲れてしまうのではないか。
竜児の家にあがりこんで、奈々子は泰子をすぐに部屋へと連れて行った。
奈々子は敷いてあった布団に泰子を寝かせると、むくんだふくらはぎに触れる。
「ふぇ? どしたの」
-
「ここ、むくんでますよね……。痛くはないですか?」
-
「平気平気、だいじょうぶだよ」
-
そうは言っても、肌を内側から押し出しているかのようにむくんだふくらはぎを見て、奈々子は大丈夫だとは思えなかった。
「立ち仕事してたんですか?」
「うん、ケーキ屋さんでアルバイトしてるんだよ。余ったケーキ貰えたら、奈々子ちゃんにもあげるね」
うつ伏せに寝た泰子のふくらはぎを、奈々子はマッサージするように撫でた。
靴下をずり下げると、ゴムの後がくっきりと残っているのが見えた。
おそらく、血液が下半身に溜まってしまっているのだろう。顔色がよくなかったのは、そのせ
いかもしれない。
-
「足、上げたほうがいいですよ」
「えー、そう?」
奈々子は近くに落ちていたクッションを持ってくると、泰子の足の下に置いた。
それから泰子を仰向けに寝させる。
-
「あっ、これ気持ちいいかも〜」
-
無邪気に笑う泰子を見て、奈々子も微笑んでみせる。
「これでしばらく寝てたら、ちょっとはましになりますよ」
-
「へー、そうなんだー。でも、やっちゃんこの後お仕事行かなきゃ」
暢気な言葉に、奈々子は目を見開いた。
「えっ? 今まで働いてたんですよね……。それで、あの、スナックでしたっけ、その仕事ですか?」
「そうなんだよ、やっちゃん頑張って働いてね、竜ちゃんの進学資金貯めるんだ〜」
目を閉じたまま、泰子がうっとりと呟く。
こんなに足がむくむまで働いて、夜も働くという。それがどれだけ大変なことか、奈々子にも
理解はできた。
「……あんまり無理しないでくださいね」
「えへへ、やっちゃんはだいじょうぶだよ。だってお母さんだもん」
-
泰子は目を閉じると、穏やかに胸を上下させた。どうやら眠りについたらしい。
奈々子は泰子の部屋を後にして、ゆっくりと襖を閉めた。
台所に立つ竜児が、炊飯器のボタンを押していた。夕食の準備をしているらしい。
エプロンをして、冷蔵庫の中から豚肉を取り出している。奈々子は竜児の隣に立って、その
顔を見上げた。
「おう、どうした? 別にゆっくりしててくれていいんだぞ。今日は別にたいしたもん作りゃしねぇし」
「そうじゃないの。泰子さんなんだけど……、大丈夫なの?」
-
「大丈夫って……、俺に訊かれても」
竜児はまな板の上に豚肉のパックを置いて、ラップの端を丁寧に剥がしていく。
フライパンで炒めるのだろう。コンロの上には、フライパンが置かれていた。
「あのね、高須くん。泰子さん、足がむくんでたのに気づいた?」
「いや……、そうなのか?」
「うん。結構酷いわよ。多分、血のめぐりが悪くなってるわね。立ち仕事してたのもあるでしょうけど」
-
「ったく、あいつ……」
-
豚肉をまな板の上に広げて、竜児は包丁で適当な大きさに切り分けていた。
奈々子はその竜児の右手の甲を掴む。
-
「うおっ、危ないだろ、何すんだよ」
抗議の声をあげる竜児を、奈々子は睨むようにして唇を尖らせた。
-
「いいから、ちょっと聞いてよ。泰子さんの仕事、減らしたほうがいいわよ。あれじゃ倒れちゃうわ」
「……俺もそれは言ったっつの。それでも、あいつは大丈夫だって」
-
竜児はまな板を見ながら、口を閉ざす。
「そう……」
泰子は、竜児の進学資金を貯めるために働いているという。
しかし朝も働いて、夜も働くのでは寝る時間さえほとんど無い。あの調子では、すぐに体調を
崩してしまうだろうと思えた。
けれど、人の家の事情に、奈々子がこれ以上口を挟んでもどうしようもない。
「栄養つくもん食わせるしかねぇな。もっといい肉買ってくりゃよかった」
-
竜児はそう呟いて、包丁を動かし始める。奈々子も竜児の手から手をどけて、シンクの縁に
寄りかかった。
「あんまり脂っこいのはダメよ。もっとあっさりしたのにしないと。それから、亜鉛の豊富なもの」
「ん、そうか?」
-
「納豆とか、豆腐とか、大豆食品ね。牡蠣とかもいいけど、かなり火を通さないと怖いわ。それと水」
おそらく、働きづめでロクに水分を摂っていないに違いない。
-
「水は沢山飲ませたほうがいいわ。一気に飲むんじゃなくて、何回にも分けて。スポーツ飲料とかでもいいけど」
「そうなのか……」
-
竜児が豚肉をパックの中に戻す。 手を水道で洗ってから、竜児は冷蔵庫の中を覗き込んだ。
「豆腐はあるな。よし、冷奴にすっか」
-
「あと、玉子あるわよね。あたし、玉子焼き作るわ。玉子も、栄養豊富だし」
-
「そこまでしてもらわなくても……」
-
「いいから。ちょっとくらい手伝うわよ」
-
竜児は台所にかかっている時計をちらりと見て、小さく唸った。
ちょうどご飯を炊き始めたばかりだし、玉子焼きを作るには少し時間が早すぎるかもしれな
い。
-
「それより先に、お味噌汁作ったほうがいいかしら。わかめはある? あれも体にいいから、たっぷり使いたいんだけど」
-
「ええと、確かカットのやつがあったっけな」
「じゃあそれで、わかめたっぷりのお味噌汁作りましょ。豆腐もあるんでしょ」
-
「ああ、あるぞ」
奈々子はポケットの中から、ゴムを取り出して、首の後ろで髪をひとつに束ねた。
それから袖をまくりあげ、手を洗う。
-
「じゃあ、手伝うわね」
「いや、ちょっと待て……」
竜児はわずかに頬を赤く染めて、奈々子を見た。
-
「おまえ、制服だろ? これつけとけよ」
-
そう言って、竜児は自分が着ていたエプロンを脱いで渡した。服、汚れたら困るからな。
-
「あら、悪いわね」
-
受け取った奈々子が、エプロンを通す。その姿を、竜児は横目でちらちらと伺っていた。
-
「じゃ、はじめましょうか」
-
「お、おう、そうだな」
奈々子は、だし巻き玉子を作ることにした。ずっと昔、父に教えてもらった料理だった。
普通の玉子焼きに比べれば時間はかかるものの、上手くできれば、柔らかく、口にした瞬間
にじわっと味が広がるようなものができる。
インスタントの粉末だしを竜児に借りて、だし汁を作る。それから、みりんと塩と砂糖をわず
かに入れた。菜箸で掻き混ぜる。玉子もコシが無くならない程度に菜箸で手早く掻き混ぜた
。
竜児も、興味深そうに奈々子の手元を見ている。
-
「なんかいい手つきだな」
「そう? これくらい普通だと思うけど」
-
ここまではともかく、みりんと砂糖を入れたのもあって焦げやすさが随分変わってしまう。
だし汁を入れたことで、玉子は柔らかくなり、焼いている途中でひっくり返すのもかなり難しい。
念のために、だし汁はやや少なめにしておいたものの、それでも難しいことに変わりはない。
奈々子は手の平に汗が滲むのを感じていた。竜児の前で失敗はしたくない。
家での料理なら、途中で失敗してもなんとか食べられるものにはできる。形が悪くても構わ
ない。
しかし、竜児と泰子に出すものなのだから、綺麗な形に整えたい。
玉子焼き鍋を借りて、すぐ傍に油を用意した。クッキングペーパーに油を染み込ませる。
そして、奈々子はここにきて、だし巻き玉子を選んだことを後悔した。
確かに作ることはできるかもしれないが、それでも結構な量の油を使わないと上手く焼けな
い。
ついさっき、油物は控えたほうがいいなどと言っておいて、自分が沢山使うというのもおかし
い。
「ん、どうした? フライ返しか?」
-
竜児は、奈々子が上手く玉子を返せないのではないかと思ったらしい。片手にフライ返しを
持って尋ねてくる。
「ううん、そうじゃないの……。えっと、大丈夫だから。菜箸でいいわよ」
なんとか油を少なめで焼くしかない。
白煙が昇り始めた玉子焼き鍋に、油を注ぎ込み、一度油を返す。それから、菜箸の先に玉
子をつけて、玉子焼き鍋の上に直線を描いた。
玉子焼き鍋の上で、菜箸の先についていた玉子がすぐに固まる。このくらいの温度なら、な
んとか焼けそうだった。
お玉で玉子を注ぎ込み、ぽこぽこ浮かんだ気泡を菜箸で突付いて潰す。火が通ってきたら、
奥のほうから手前にひっくり返して玉子を畳んだ。
焦げないよう、半生にならないように、火の通りに気をつける。
奈々子は目を細めて、唇を強く閉じ、時々唾を飲み込みながら何度も玉子を注いでいった。
「お、おい、そんな頑張らんでもいいだろ」
隣から奈々子の手つきを覗き込んでいた竜児が、怯えながら声をかける。
「しっ、ちょっと黙ってて」
-
-
奈々子は真剣な表情で、じっくりと玉子を焼き上げていく。
ここで焦がしたり、生焼けにしたり、形を崩したものを出してしまえば、竜児に情けないところ
を見せることになる。
こんなことなら、もっと練習しておけばよかった。奈々子は残り少なくなった玉子をすべて鍋
へ注ぎ込み、焼き上げにかかる。
最後にまんべんなく、全体に玉子をまぶすようにして焼けば、箸で持っても形が崩れにくいも
のが焼きあがる。
じっくりと、焼き加減を見た。玉子がわずかに膨らんで、そして萎むタイミングを伺う。
「ふぅ……」
どうにかうまく出来上がった。後は巻き簾で形を整えて、もう少し冷めるまで待てばいい。
奈々子は額を拭って、竜児の表情を伺った。竜児が、感心したように息を漏らしている。
「へぇ、うまいもんだな」
「これくらいはできるわよ」
そう言って奈々子は微笑んで見せた。すると、竜児が合った視線を急に逸らして、頬を掻き
ながら言う。
「その割には必死だったような気がするぞ」
-
「ち、違うのよ、別に焼くのが難しいとかじゃなくて……、油物は控えたらとか言っておいて、あたしがあんまり油使って焼くのもどうかと思って……」
-
竜児が、いまだに湯気をあげている玉子焼きを見おろす。
-
「ま、まぁとりあえずこんなもんでいいだろ。こっちもたいしたもん作るわけじゃねぇし」
-
奈々子が玉子を焼いている間に、冷蔵庫からおかずを取り出していた。汁物も、わかめと豆
腐しか入れていないので、すぐに出来るようだった。
あとはご飯が炊き上がるのを待てばいいだけだ。
奈々子はエプロンを外しながら、安堵の息を吐いた。
「イヒィヤァ!」
「ん、インコちゃんお目覚めか?」
-
「なに今の?」
奈々子からエプロンを受け取った竜児が、居間に向かって歩き出す。
部屋の隅に吊られていた鳥篭を持ち上げて、テーブルの上に置いた。鳥篭にかかっていた
カバーを外す。
「ウホッ」
「なんだよウホッて」
「あら、インコ飼ってるの?」
-
奈々子も居間に行って、そしてテーブルの上に置かれた鳥篭に目を移す。
-
「きゃっ、な、なにこれ」
-
鳥篭の中にいたのは、確かに鳥だった。しかし、その顔面を見て、奈々子は悲鳴をあげる。
どう見ても、鳥の顔面ではない。デメキンと鳥の間に生まれてきたのではないかと思うほど
出っ張った目。
異様なまでに長く伸び出た舌が、不揃いな嘴の間からにゅるんとこんにちは。
-
「なにこれとは失礼な。これがうちのかわいいペットのインコちゃんだ」
「えっ? かわいいのこれ?」
グロテスクな顔面に、奈々子はつい距離をとろうとしてしまう。
しかし、竜児がかわいいと言っているのだし、大事なペットなのだろう。
本当だったら近寄りたくもないアブナイ外見の持ち主だが、奈々子は恐る恐る近づいていっ
た。
「ほーらインコちゃん、自己紹介するんだ」
優しげに目を細めて、竜児はインコと思しき生物に声をかけている。
うん、高須くんのペットなんだもん。あたしも、かわいがってあげなきゃ。
グロテスクに見える外見も、見慣れればきっと不思議にかわいさが増して来るはず。
せめてキモカワイくらいに。
頬を引きつらせながら、奈々子はインコちゃんの顔を覗き込んだ。
薬でラリってしまっているかのような表情のインコを見ながら、奈々子はこれはかわいいの、
かわいいの、と自分に暗示をかけた。
-
「ウィイイイッッ、インッ」
「そうだ、がんばれインコちゃん」
「ンドッ!!」
「くっ、そのネタはずっと昔にやっただろ!」
-
竜児が悔しそうに顔を背ける。
-
「へ、へぇ、喋るんだ。かわいい、かも」
「ああ、喋ることは喋るんだがな」
-
「じゃあ、あたしの名前を言えるかしら。ほら、なーなーこって」
-
奈々子はインコに向かって話しかける。暗示の甲斐あってか、グロテスクな顔面にも少し慣
れた。
かわいいとはまったく思えなかったが、それでも数秒なら正視していられる。
「いや、インコちゃんは人の名前は全然覚えなくてなぁ」
「ンナーーッ、ナッナッナッナー!!」
インコちゃんは無意味に羽をばさばさと動かしながら、何かを言おうとしている。
-
「うおっ、まさか言うのか?! インコちゃんもついに次の段階へいこうというのか!」
-
鳥篭を掴んで、竜児は眼光を鋭くさせていた。
奈々子も、鳥篭に顔を寄せて、インコちゃんのユニークな顔を見た。
ふと、奈々子は竜児と顔が近いことに気づく。思わず、唇を少しだけ噛んで竜児の横顔を見
てしまう。
「ほら、インコちゃんがんばれ」
-
竜児はかなり近い距離にいる奈々子にも気づかず、ペットに話しかけている。
奈々子もインコちゃんに話しかけてみる。
-
「ほら、奈々子よ。なーなーこ」
「ナッナッ!! ナマコ!」
「惜しいッ!!」
惜しくないと思うんだけど。
奈々子は小学生くらいの時に、こんな呼ばれ方をしたことがあったことを思い出していた。
-
「ンナッ、ナナポ!」
-
「誰だよッ?! 違うだろインコちゃん、奈々子だ、なーなーこ」
不意に、竜児の口から自分の名前が出て、奈々子は目を見開いた。
-
「ほら、奈々子だって、なーなーこ。インコちゃん、がんばれ」
「ンナナナナ」
-
「そうだそうだ、奈々子だ奈々子。もっと」
-
子供が見たら泣き出して逃げるんじゃないかと思うほど、竜児は目を細めてペットのインコ
を睨みつけている。
奈々子の名前を連呼する竜児に、奈々子は息苦しくなるのを感じていた。自分が呼ばれて
いるわけではないけれど、竜児の口から自分の名前が出てくるのが嬉しい。
ずっと、こうやって呼んでもらえたら……。そう思うと、奈々子は胸の奥で小さな音が鳴った
ような気がした。
「ナナッ!! ムリッス」
「うおおっ! 諦めた?!」
-
はぁ、と肩を落として、竜児はインコちゃんの鳥篭から手を離す。
-
「惜しかったんだけどなぁ。インコちゃんも、その小さな頭でがんばってるんだけど、香椎の名前呼ぶかと思ったらこれだ」
「なーなーこ」
奈々子は竜児と近づいた顔を、さらに寄せて竜児にそう告げた。
「は? なにを」
-
「ほら、なーなーこ」
奈々子は口元に微笑を浮かべて、竜児にそう詰め寄った。
-
「香椎、どうしたんだ?」
-
「あら高須くんはインコちゃんより頭が悪いのかしら」
「おおおお、お前の言ってる意味がわからねぇ」
竜児はすぐ近くに奈々子の顔が迫っていたことに今更気づいて、慌てて距離を取った。
だが、奈々子はその距離を埋めるべく、膝でじりじりと傍に寄る。
「ほら、なーなーこって」
-
「な、奈々子」
「うふっ、よくできました。やっぱり高須くんは鳥より頭がいいもんね」
-
顔を赤くして、後退している竜児に、奈々子が微笑みかけた。
-
「な、なんだよいきなり」
「ねぇ、もう一回言ってよ」
「……奈々子」
「もう一回」
「奈々子」
「もう一回」
「奈々子」
「もう一回」
「いつまでやらせんだよ……」
呆れたように、竜児が息を漏らす。
奈々子は自分の肩を抱きながら、俯いて目を閉じた。
-
「あたし、奈々子っていう名前でよかった」
「なんだそりゃ」
夕方の6時を過ぎたころになって、竜児は泰子を起こしにいった。
ひどい顔になっている泰子をまずは洗面所へと放り込み、それからテーブルに食器を並べ
ていく。
炊飯ジャーを居間に持ってきて、次は座布団を3人分並べた。
奈々子も何か手伝おうかと申し出たのだが、何もしなくていいと言われて、ぼんやりと竜児
を眺めていた。
男にしては細い指で、お皿をゆっくりと食卓に置いている。奈々子が焼いただし巻き玉子も、
切り分けられて並んでいた。
泰子が戻ってきたところで、食事が始まる。居間の端っこでも、インコちゃんが与えられたエ
サを啄ばんでいた。
「おう、美味いなこれ」
竜児は奈々子の焼いた玉子焼きを口に放り込んでそう言った。
「えー、これ奈々子ちゃんが作ったんだ。すっご〜い、あっま〜〜い。やっちゃん玉子焼き作ると半分スクランブルエッグになるの」
泰子も玉子焼きを食べながら、奈々子に笑顔を見せる。
「ダシの量がちょうどよかったのがいいのか。あんまり入れすぎると柔らかすぎるし。うん、いいなこれ」
「うふふ、喜んでもらえてよかったわ」
-
奈々子はなんでもないようにそう口にしながら、内心でガッツポーズをあげていた。
竜児が、自分の作った料理を食べておいしいと言ってくれた。
おいしいと言うだけならともかく、自分の料理の手順も覚えていてくれて、それについて言及
してくれる。
- こんなことができる男子は、きっとクラスの中、いや学校の中でも竜児くらいのものではない
かと思えた。
奈々子のアドバイスに従ったのもあって、食卓に並んでいるもの自体は質素なものだった。
それでも、竜児と一緒に食べていると、何もかもが美味しく感じられる。
買ってきた豆腐を切っただけの冷奴だって、その味が特別に奥深いものに変わった。
こうやっていつまでも竜児の傍にいられたら、幸せな気分でいられるのだろうか。
奈々子は竜児の横顔を一度伺って、こっそりと溜め息を吐いた。
- 夕食を食べ終えた後、奈々子はインコちゃんをテーブルの上に置いて眺めていた。
見慣れてくると、このグロテスクな顔面も、キモカワイイような気分になってきた気がして改
めて見るとやっぱり不細工で、奈々子は首を捻っていた。
「うふふ、今度いいエサ買ってきてあげるわね」
-
「フオォォウッ!」
一昔前に一世を風靡した芸人のような雄叫びをあげて、インコちゃんは羽を広げた。
片足で立ち、グリコでもするかのように羽の先を限界まであげる。そして嘴で天井を突き刺
すように頭をあげて、舌を差し出す。
「あら不細工」
「ダガソレガイイ」
「いいの?」
インコちゃんが、片足立ちしたかと思えば、今度はカクカクと腰を振り出す。
おかしな行動に、奈々子はつい身を引いてしまった。
「世の中不思議な生き物がいるものね」
ふぅ、と息を吐いてから、洗い物をしている竜児の背中を見た。
奈々子がさっきまで着ていたエプロンをして、竜児は手早く食器を洗っている。
あまり水を使わないのは、もったいないと思っているからだろうか。
慣れた手つきで食器を次から次へ、シンクの脇についたカゴの中へ逆さまに置いていく。
しばらく竜児の仕事ぶりを眺めていると、泰子の部屋から、仕事へ行く準備を終えた泰子が
出てきた。
「それじゃ行ってくるね」
-
「おう、気をつけてな」
-
「奈々子ちゃんも、遅くならないうちに帰るんだよ〜。竜ちゃんに送っていってもらったらいいし」
それだけを言って、泰子は家を出て行った。
昼間も働いて夜も仕事では、疲労が溜まってしまうだろう。
人の家のことに口出しはできないが、奈々子はつい気になってしまう。
「さて、そしたら俺らも出るか」
-
洗い物を終えた竜児が、手をタオルで拭きながら言う。
-
「もう少しゆっくりしていっていい? 食べた後だから、動きたくないの」
-
「ん、そうか。まぁそっちがいいなら別にいいんだけど、あんまり遅くなるのもな」
-
「大丈夫よ、お父さん仕事で遅いし」
エプロンを外した竜児が、居間に戻って座布団の上に座り込む。
奈々子はインコちゃんの鳥篭を指で突きながら、足を伸ばした。正座やアヒル座りをすると
足首が痛むので、ずっと膝を横に倒して座っていた。
家にいる時なら胡坐でもかけばいいのだろうけど、さすがに竜児の前でそんな座り方をした
くはない。
「そういや香椎の親父さんってなんの仕事してるんだ?」
「なーなーこ。ね? インコちゃん」
「ウィ」
「あら、フランス語まで堪能なのねインコちゃん」
-
鳥篭を小さく揺らしながら、奈々子は竜児の顔を見た。
竜児は額を掻きながら、頭上の蛍光灯を見てる。
「名前呼ぶ、ってのもなぁ……」
「あら、さっきは呼んでくれたじゃない」
奈々子は唇を尖らせながら、手をついて竜児に少しだけにじり寄った。
-
「ねぇ、あたしのこと名前で呼ぶの嫌? そんなにあたしのこと嫌いなの?」
-
膝立ちで、這い這いでもするようにして竜児に近づいていく。
小さく首をかしげて、竜児の顔を覗き込んだ。
-
「高須くんに、名前で呼ばれたいの。だってほら、好きな人には名前で呼ばれたいじゃない」
-
「おおお、お、でも、俺はだな……」
顔を覗き込まれた竜児が、あからさまにうろたえて、後ろに進んでいく。
竜児に、名前で呼んで欲しかった。もっともっと、距離を縮めたかった。
心も、体ももっと近い場所にあってほしい。そう願うと同時に、断られたらどうしようという不
安もあった。
「ねぇ、お願い。名前で呼んでよ」
-
「お、おう。わかった。今度からちゃんと名前で呼ぶから」
竜児はそう言って、首を縦に振った。
「じゃあ今、あたしの名前を呼んで……」
奈々子はさらに膝で這いながら、竜児へと近づいていく。竜児は背後の引き戸にぶつかり、すでに後ろに進む場所がなくなった。
-
「じゃあ、呼ぶぞ……。奈々子」
-
「うん」
自分の名前が、竜児の口から出た。その舌で、唇で、喉で、自分の名前を作り出した。
奈々子は一度唾を飲み込んで、それから一度鼻を鳴らした。心臓が、餅つきでもしてるかの
ようにぺったんぺったんと激しく動く。
「高須くん……」
-
「って、俺のことは苗字かよ!」
なんの考えもなく、竜児はつい突っ込みを入れてしまう。
「じゃあ名前で呼んでいいのよね?」
「えっ?! いや、それは、別に構わねぇけど……」
「んー、はぁ……。だめ、緊張するわね……。えっと、竜児くん?」
-
上目に、竜児の顔を覗き込む。奈々子の頬は赤くなり、段々と瞬きの数も増えていた。
瞳は潤んで、竜児の顔を捉える。唇が急に乾いて、奈々子は下唇を舌で舐めた。
「ねぇ高須くん、じゃなかった、竜児くん」
-
「おおう、な、なんだ?」
-
「顔、真っ赤になってるわよ」
「そうか? 気のせいだろ。っていうか、お前も顔赤くね? なぁインコちゃん」
-
ご主人の声をインコちゃんはあっさりと無視。
「ねぇ、そんなにあたしから離れようとしないでよ?」
-
奈々子は竜児の顔をじっと見つめながら、さらに竜児との距離を詰める。
-
「いや、別にこれは……。き、緊張してるだけで」
「どうして? あたしと一緒じゃリラックスできないの?」
-
「おお、お前みたいな美人が近寄ってきたら、そりゃ緊張もするっての」
-
意外な言葉に、奈々子は目を見開いた。
「それって……、あたしのこと、女の子として意識してるってこと?」
-
「ああそうだよっ、つかそりゃそうだろが」
半ば怒るようにして、竜児はそう言って顔を背けた。
「高須くん……。じゃなかった、竜児くん」
奈々子の息が荒くなる。心臓が何倍もの大きさになったのではないかと思うほど、胸の内側
で暴れていた。
腹にコルセットでも嵌められたかのように、きゅんと内臓が締まった気がした。
奈々子は膝で這いながら、竜児との距離を詰めて、ついに竜児の膝に触れる。
目がとろんと虚ろになり、息苦しくて閉ざされない唇の間から、熱い息が漏れ出す。胸は何
度も上下して、それでも足りなくて肩も動いた。
太ももを、こすり合わせ、後ろに向かって尻を突き出す。
「んなっ、な、どうした?!」
-
竜児は半笑いになって、瞬きを繰り返す。
「あなたのことが、好きなの……」
「お、おう」
-
「はぁ……。どうしよ、あたし、ちょっと興奮してきちゃった」
-
奈々子は探偵のように口元に手を添えて、視線を落とした。
-
「こ、興奮って……」
「すごく、エッチな気分かも」
-
竜児が生唾を飲み込んで、奈々子の体を見てしまう。
-
「ごめんね、変な女で。あたし、はしたないかも」
「おお、気、気にすんなよ」
「うん……。ちょっと待ってね、ちょっと心を落ち着けるから」
そう言って、奈々子は膝立ちになって目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
竜児は呆気にとられたように、へ? と口に出して、奈々子の深呼吸を見ていた。
「はぁ……。少し、落ち着いたわ」
「そ、そうか……」
緊張の糸が緩んだのか、竜児は残念そうに肩を落とす。
-
「ごめんね、いきなりこんなふうに迫られても困るわよね。危うく押し倒しちゃうところだったわ」
奈々子は手で片目を覆って、小さく息を吐いた。
竜児が、自分のことを女として意識してくれている。そう思うと、急に体が熱くなった。
このまま竜児の体を抱きしめて、何度もキスをしてしまいたかった。
肌をすべて重ね合わせて、竜児の体に溶けてしまいたいと思えた。
けれど、そんなことをしてしまえば、きっと断られる。
もっとゆっくりと距離を縮めようと思っていた矢先にこれでは、先が思いやられた。
告白だって、もっと仲良くなってからしようと思っていたのだから。
「んー、ごめんね。あたしばっかり、そうやって竜児くんを求めてたらダメだよね……」
自分と一緒にいる時、竜児は緊張しているようだった。
そうじゃなくて、自分といる時には安らかな気持ちでいてほしい。
自分のことばかり考えて、押し付けるようなことをしたら、きっと嫌われてしまう。
-
「高須くん、じゃなかった……。竜児くんのこと考えてると、本当におかしくなっちゃうわ」
「おかしく……?」
-
「うん。あたしはね、別にたか……、竜児くんが求めてくれるなら、なんだってしてあげたいの。でも、あたしから押し売りするようじゃ、ダメよね」
-
「え? おう、そう……かな」
竜児は引き戸にもたれたまま、奈々子が、膝立ちからゆっくりと後ろにお尻をついて、体育座
りをする様子を眺めていた。
そして、奈々子自身は気づいていなかった。ちょうど、竜児の視線からは、自分のスカートの
中が見えていることに。
竜児は奈々子のスカートの中が見えて、一瞬大きな声をあげそうになり、慌てて喉まででか
かった声を留めた。
慌てて視線を逸らし、前髪に手で触れる。意識しようがいまいが、竜児の心臓がけたたましく回転数を上げてレッドゾーンにぶち込まれる。
吸気が間に合わず、喘ぐように浅く呼吸を繰り返した。
奈々子が、膝を畳につけるように足を崩して座る。
ただ、こういう座り方が楽だっただけなのだが、竜児から見れば細いウェストや、大きな胸元
が強調されるグラビアポーズか何かにしか思えなかった。
体が少し捻られ、両足は横に伸びる。あまり気を使わずに座ったものだから、スカートがわ
ずかにめくれていて、竜児からは腿の付け根のあたりまでが見えた。
「あんまり緊張しないでよ。ほら、もっとリラックスして、のんびりしましょ」
奈々子がそう言って笑いかけるが、竜児は心を落ち着けるどころではなかった。
目の前にいる奈々子は、竜児から見ても美人だと思えた。日焼けを嫌った肌はどこも白く、
瑞々しい張りを湛えている。
唇は艶っぽく光り、口元のホクロが色気を醸し出していた。ゆるく巻いた髪は黒々と輝いて
いて、ふわっと空気を抱き込んでいる。
指を動かす仕草のひとつでさえ柔らかくて、男心をくすぐった。
囁きのような、空気の混じった声は耳に優しくて、脳に直接染みこんでゆく。
「リラックス、とか言われてもだな」
-
竜児は体育座りをして、膝を抱いた。
-
「うふふ、シャイなのね」
-
目を細めて、奈々子は竜児に囁く。
「……かもな」
「真面目なのね。でも、そんなところが好きよ。がつがつしてるよりはいいじゃない」
-
「ちょ、ちょっと待ってくれ……。あんまり好きとか言われると、その……、どきどきしてだな」
「あら、好きな人に好きって言って何が悪いの? だって、本当に好きになっちゃったんだもの」
-
奈々子は竜児の傍に近づくために、膝で這った。
そして、体勢を変えて竜児の隣に座る。竜児の肩に、自分の肩を寄せて、奈々子は竜児の
顔を下から覗き込んだ。
竜児の顔は赤く、瞬きの回数も多かった。困ったように手を前髪に当てて、畳に目を向けて
いる。
-
「なんつーか、意外だな。香椎がこんなに積極的だと思ってなかったし」
「奈々子ね。あたしだって意外よ。人を好きになって、もっと触れていたいとか触れてほしいとか思って……」
「お前は、ほんとにいい奴だと思う……。こんな俺なんかに好きだって言ってくれるし、泰子の健康まで気遣ってくれるし」
-
「俺なんか? 竜児くんはとっても魅力的な人だと思うわよ。沢山いいところがあるじゃない」
「……俺には、そう思えねぇ」
「だったら、あたしが教えてあげるわ。竜児くんのいいところを、まずひとつ」
竜児が顔をあげて、奈々子を見る。強烈に尖った目を、いつもよりわずかに丸くしていた。
ほんの少しだけ唇を開いて、奈々子の言葉を待っていた。
-
「竜児くんが、ここにいてくれること。それだけですっごく嬉しいもの」
-
「……なんだそりゃ。別に俺、なんにもしてねぇし」
期待はずれだったのか、竜児が眉を寄せる。
「傍にいてくれるだけで嬉しいの。それって凄いことだと思うけど」
「なんか、難しいな……」
「竜児くんは、いい子ね」
「はぁ?」
体育座りをしながら、爪を畳の目に少しだけめり込ませた。
竜児は奈々子の言動を理解できないのか、首を傾げている。
「お母さんに、あんまり反抗したことないでしょ?」
「なんでいきなりそんな話に……」
奈々子の言葉に、竜児は唇を噛んだ。
竜児の反応を横目で伺って、奈々子はさらに言葉を続けた。
-
「反抗しないというか、お母さんの期待に応えようってがんばってきた。違う?」
「別に俺は……」
-
「でもそれだけじゃいけないって思ってるでしょ?」
竜児が顔を上げて、奈々子を見る。目を瞬かせて、小さく息を吸った。
-
「お母さんが無理して働いてまで進学することに抵抗があるんじゃない?」
-
「……ああ」
少しだけ目を細めた竜児が、畳に視線を落とす。
「ずっと頑張ってきたお母さんに、もっと楽してほしいと思ってるでしょ」
-
「そりゃ、まぁ」
「だから進路で就職を希望してるんだ」
-
「……お前、なんでそんなこと知ってんだ?」
-
竜児が怪訝そうに眉を寄せる。
-
「好きな人のことだから、わかるわよ」
奈々子は、竜児が担任に呼び出されていたのを知っていた。素直に進学を希望していれば、わざわざ呼ばれることもない。
進路に関する調査があった後のことだから、そこで進路関係の話をしたのではないかと思っ
た。
進学に抵抗があるのなら、残るは就職しかない。
「でも、働いてお母さんを楽にしてあげたいのなら、今だってバイトしたりとかできるわよね。それをしないのは、お母さんに止められるの?」
「お、おまえ……」
竜児はただ驚いて奈々子を見ていた。その距離があまりにも近くて、つい竜児は視線を逸らしてしまう。
「高校出て就職しようっていうのにも、反対されてるのよね」
「エスパーかお前は」
大袈裟に驚いている竜児を見て、奈々子は顔を綻ばせる。
もしも竜児が、母親を楽にさせてやりたいから働こうというのなら、何も悩むことはない。
就職するのが、心からやりたいことで、そして母親にも了解を得ているのなら、もっとやる気
に満ちていてもおかしくない。
けれど竜児はいまだに悩んでいるようだった。母親と合意を得ることができていないのだろ
う。
もしくは、その道を選ぶことに、他の理由による葛藤があるのではないかと思えた。
「竜児くんのこと、もっとわかってあげたいの」
-
「う……」
黙りこんだ竜児を見て、奈々子はさらに体を寄せた。
お互いの肩が触れあい、体温が伝わってくる。喜びのせいか、緊張のせいか、奈々子は腹部にシクシクとした痛みを感じた。
「それで、悩んでる竜児くんに、素敵なアドバイスでもあげようかなって」
-
「アドバイス?」
竜児が目を輝かせて、奈々子を見ていた。すぐ近くで視線が絡み合い、奈々子が照れて口
元を手で隠す。
-
「うん、どうすれば悩みが解決できるかアドバイス」
「お前は、どうすりゃいいと思うんだ?」
-
「あたしのこと好きになればいいのよ」
-
「……おいおい」
呆れた様子で竜児が肩を落とす。
「あら、冗談じゃないわよ。高須くん、いや、竜児くんはね、まず自分で何かを決めて、実行しなきゃダメ」
「決める……」
-
夕方に、竜児が話していた望みだった。
-
「だからまず、出来ることから決めなきゃ」
竜児は引き戸にもたれて、考え込むように指で顎をなぞっていた。
-
「あたしは、こんな短い時間一緒にいただけで、竜児くんのこと、これだけわかってあげられるのよ」
竜児の肩に預けていた肩をあげて、奈々子も引き戸にちょっとだけもたれた。
「そんなあたしが傍にいたら、きっと竜児くんにとってもいいことだと思うんだけど」
-
囁くように、声のトーンを落として言った。竜児は、黙ったまま膝の上で腕を組んでいる。
奈々子はわずかな手応えを感じていた。竜児の気持ちが、少しは自分に向いてきているよ
うな気がしたのだ。
少なくとも、昨日のように、嫌われてしまうかもしれない、仲が深められないのでは、という暗
い不安は無かった。
「ねぇ、少しは好感度上がったかしら」
-
奈々子の言葉に、竜児が苦笑する。
-
「なんだよそれ、ゲームじゃあるまいし」
「ポイント貯めたら何かいいことがあったりとかしない?」
「別にねぇよそんなの」
-
「残念だわ。まぁ、それはともかくとして、どう? 少しはあたしのこと、好きになった?」
-
「ああ、そうだな……」
-
竜児は遠くを見ながら、溜め息混じりにそう言った。穏やかな口調で言われた言葉だったが、奈々子の耳には鋭く突き刺さる。
-
「えっ?! ほんと?」
「まぁ、そりゃ嫌いじゃねぇし、好きだって言われて嬉しいし……」
とくに意識するでもなく、竜児は素直に言葉を紡いでいた。
奈々子は半ば冗談で訊いたつもりだったが、ここまで好感触だと驚いてしまう。
-
「そ、それって、あたしと付き合うとか、そういうことも考えてるって思っていい?」
「……ま、まぁ考えてはいるけど。ぶっちゃけ、なんか展開早すぎて、いまいちどうしたもんかと」
「だったら、もっとじっくりと、時間をかけて仲を深めればいいのよ。ね?」
「そうだな……」
-
竜児が、息を吐き出しながら首をこきこきと鳴らす。それから、大きく欠伸をした。
夜の8時にさしかかろうとしていた。
-
「さて、そろそろ出ようぜ。送ってくから」
「そうね……、じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ」
まだ、こうやって二人でゆっくりしていたいと思えた。
竜児の家を出てすぐに、奈々子はあまりの寒さに震えてしまった。
曇天は、今にも雪を吐き出しそうなほどに分厚い。湿った空気が大きくうねって流れていく。
夜の暗闇はいつもよりも深いように見えて、奈々子は身震いしてしまう。
階段の手すりに掴まって、曇った空を見上げた。
-
「その格好じゃ寒いだろ。これ着とけよ」
そう言って、竜児は奈々子の肩に自分のコートをかけた。
制服の冬服しか着ていなかった奈々子を見かねて、竜児はほら早く着ろよと声をかける。
「えっ? でも……、いいの?」
「いいって、ほら袖通せって」
袖の内側で引っ掛からないように、制服の袖を掴んでからコートの袖に腕を通す。
前をあわせると、コートが随分と大きくて不恰好に思えた。
それでも、竜児がわざわざしてくれたことに、奈々子が笑みを漏らす。
-
「ほんとに優しいのね」
「べ、別にこんなのどうでもいいだろ。ほれ、マフラー」
竜児が赤いマフラーを差し出してくる。
「さすがにそんなに借りるのは悪いわ」
奈々子は首を振って、竜児が差し出したマフラーを押し返した。
-
「馬鹿、あんまり寒い格好してると風邪引くぞ」
「じゃあ、巻いて」
さすがに、これは甘えすぎかと思ったが、竜児は言われた通りにマフラーを広げた。
奈々子の体に抱きつくように首筋に両腕を回す。そして、髪の下にマフラーをくぐらせて、奈
々子の首にマフラーを巻いた。
少しの間、奈々子は呆然としていた。
「ど、どうもありがとう」
「おう、じゃあ行くか。自転車持ってくるから、ゆっくり降りて来いよ」
竜児は一足先に階段を駆け下りて、階段の下に置いてある自転車に鍵を差し込んでいた。
奈々子は階段の上で、目をぱちぱちとさせて立ち尽くしていた。
「あれは……、反則よね」
竜児のコートを着ている。竜児のマフラーを巻いている。
その事実が、奈々子の心を爆発させそうになっていた。当たり前のように、寒いだろうからと
着せてくれた。
我に帰ってみれば、マフラーからは竜児の匂いがして、頭の中に酒を注がれたような気分に
なった。
くんくんと匂いを嗅いで、さらに肺の中にまで竜児の匂いを満たそうとマフラー越しにゆっくり
と息を吸い込む。
もし、今部屋で一人だったら跳ね回っていたかもしれない。口元がどんどんにやけていくのを
止められなかった。
神に祈る聖人のように手を組んで、体を丸めて、体の内側から溢れようとする何かを必死で
押し留める。
「おーい、どうした。まだ寒いのか?」
-
「えっ? 違うの、そうじゃないから、すぐ行くわ」
奈々子は、足が痛まないようにゆっくりと階段を降りた。
自転車の後ろの荷台に腰掛けて、奈々子は竜児の背中を見た。
暗闇の中を走り出す。ライトが照らしたアスファルトが、黒々と光っていた。
高須家の前を出てすぐに、竜児が後ろに座っている奈々子に声をかける。
-
「ゆっくり走るからな。落ちるなよ」
-
奈々子は竜児から見えるわけもないのに、頷いた。
さっきから、ずっと心臓が激しく律動していて、血が顔に昇っているような気がしていた。
竜児のダウンを小さく摘んで、奈々子はカラカラに渇いた口の中をもごもごと動かす。
どうせだったらこのまま、竜児の背中に抱きつきたかった。少し手を伸ばせば、竜児の体に
腕を回せる。
こうやって竜児の背中に肩を寄せているだけでも幸せな気分になれた。
「……い、いいわよね」
抱き付いてしまおう。手を竜児の腹に回してしまおう。
そう、これはただ落ちないように、しっかり掴まるだけだし。
「ありゃ、なにやってんだあいつ」
奈々子がまさに抱きつこうとした瞬間に、竜児が声をあげる。
ブレーキレバーに指をかけて、速度を落とした。
どうしたのかと思ったら、ひとりの女の子の前で停車していた。
-
「おう大河、どっか行ってたのか」
歩道を、大河が歩いていた。ちょうど、家に帰るところだったらしい。
手にはスーパーの袋を提げていた。白いコートを深く合わせて、ピンクのマフラーを首にぐるぐる巻きにしている。
大河は竜児の姿に気づいて、心底嫌そうに口を曲げた。
-
「うっわぁ」
「なんだよいきなりその態度」
せっかく二人きりでタンデムを楽しんでいたのに、まさかここで恋敵に会うとは思ってもいなかった。
「っていうか、なにやってんのよあんたら」
「ちょっと家まで送ってもらうところなのよ」
-
奈々子の姿に気づいて、大河は目を眇めた。機嫌悪そうに、つんと顎を上げる。
「おおうっ?! なんだその荷物。おまえっ!」
「いちいち人の荷物見るんじゃないよ」
気になって、奈々子も大河が手に提げているスーパーの袋を見た。
そこには台所用の洗剤と、ブラシが入っているようだった。その他にも、細々とした掃除のた
めの道具が入っている。
「まさか掃除するつもりか?! あの部屋を、何故俺を呼ばん」
竜児の目が暗闇の中で妖しく光る。夜道でこの目を見たら、どんな生き物だって逃げ出すのではないかと奈々子は思った。
「うわぁ、心底うざいわあんた。さっさと消えな。ほれ、しっしっ」
-
大河が、犬を追い払うように手の平を振る。
明らかに嫌そうな顔で、竜児を見ていた。
ふと、大河と奈々子の視線が合う。
奈々子は竜児の背中に肩を寄せて、大河に微笑みかけた。
大河の反応が見たかった。
-
「えっ?」
一瞬だった。大河が目を丸くして、わずかに口を開く。
すぐに自分が我を忘れていたことに気づいて、大河は歯を食い縛った。
その一瞬の反応で、十分だった。
奈々子には、大河の心中を簡単に察することが出来た。
大河は竜児に好意を持っている。
その反応を見て、奈々子は鼻で笑うように大河を見下ろしていた。
大河は、そんな奈々子を見て、そっぽを向く。
「あんた、そんなエロボクロ後ろに乗っけて何やってんのよ」
-
「失礼ね、エロくないわよ」
内心否定できないものがあったが、一応否定しておく。
「ふんっ、どうせあれでしょ、その巨大な脂肪の塊に、エロ犬の竜児がサカっちゃってるんでしょ」
大河の言葉に、竜児は眉をひそめた。
「あのなぁ、俺はただ怪我してる香椎を家まで送ってやろうとだな」
-
「はぁ? なんでそんなことするのよ。大体、どうしてそこのエロボクロがあんたの家から出てくるわけ?」
「別に、ただ今日は一緒に帰って、うちでメシ食ってって、そんだけだ」
-
「なんでエロボクロを家に誘ってんのよ。あんた、そんなことしてる場合じゃないでしょ。みのりんのことはどうしたのよ」
「それは……」
竜児が、額を掻きながら視線を逸らした。
奈々子にとって、その話題は出されたくないものだった。竜児が実乃梨に対して好意を抱い
ているという事実は、何よりも重いものに感じられる。
「タイガーには関係無いでしょ。ほら、もう家に帰ったら? あたしたちも、行かなきゃいけないし」
「あっそ。私には関係無いもんね。竜児がみのりんのこと諦めて誰を選ぼうが、私が今まで応援してきたことを無駄にしようが、竜児の勝手だもんね。ほんと、中途半端なんだから」
せせら笑いながら、大河は竜児に向かってそう言った。竜児が苦々しく顔を歪める。
なんていう酷い言い方だろうと、奈々子は心の中で憤慨した。竜児自身の良心に訴えるよう
な大河のやり方は、どうやら上手く行ったらしい。
竜児は黙ったまま、ブレーキレバーにかけた指をぐっと握り締めていた。
今まで竜児が実乃梨に対して抱いていた想いを再認識させ、どのような形なのか奈々子に
はわからないが、今まで協力してきたという恩を持ち出してくる。
こんなやり方はあんまりだ。奈々子は、竜児の気持ちが少しずつでも自分に傾いているのを
感じていたが、これでさらに距離が出来てしまったような気がした。
「ほ、ほら竜児くん、行きましょ。タイガーも帰るところみたいだし」
奈々子が、竜児の背中を軽く叩く。冬の夜は、煮凝りのようにどろどろした冷たい空気で満
たされていて、じっとしていると体の芯まで冷えてしまいそうになった。
街灯に照らされた大河が、顎をあげて竜児の横を通り過ぎていく。このまま帰るつもりなの
だろう。
奈々子の家に辿り着くまで、竜児は無言だった。何かを話しかけようと思うのだが、奈々子
は声をかけることができない。
竜児は何かを考え込んでいるようで、前だけを見たままずっと自転車を漕ぎ続けていた。
きっと、実乃梨のことを考えていたのだろう。どれだけ長い間、実乃梨のことを想っていたの
かは、奈々子にはわからない。
わからないから不安になる。それがもし、心の奥底でいつまでも燻り続ける燠火のようなも
のだとしたら、いつその炎が再び竜児の体を焦がすのか。
力尽きたと話した竜児だったが、まだ実乃梨への想いを払拭できるほどではないのだろう。
少しずつでも、自分へ好意が向くようにと努力してきたのに、竜児自身の優しさや良識に訴
える大河の言葉で、すべてが振り出しに戻ってしまった。
大河自身が、竜児のことを好いている。だから、あんなことを言ったのだろう。奈々子と竜児
が付き合うことについて、大河はよく思っていない。
家の前まで着くと、竜児は自転車を停めて奈々子が降りるのを促した。
-
「自転車、どこに停めといたらいいんだ?」
「こっちの塀の中に停めてくれる?」
薄い闇の中で、竜児が自転車のスタンドを立てて、鍵をかける。自転車の鍵を、奈々子に渡
そうと、竜児はキーホルダーをぶらさげて奈々子に寄越した。
ぽとん、と奈々子の手の平の中に鍵が落ちる。その渡し方が、奈々子には苦痛だった。手
が触れ合わないように、わざわざ上から落としたのだから。
しばらくの間、奈々子はその鍵を見つめてしまう。上から落とすようなやり方じゃなくて、しっ
かりと手の平の上に乗せて欲しかった。
竜児自身は、そんなことを意識してはいなかったのだろう。自転車の前カゴに入れていたバ
ッグを持って、それも奈々子に渡そうとしていた。
-
「ねぇ竜児くん……。ちょっと肩貸してくれない? まだ、足が痛くて……」
そんなのは嘘だった。別に、家の中に入るまで5,6歩進めば十分なので、肩を借りなくてもなんとかなる。
けれど、今は竜児に触れていたかった。竜児は快く応じてくれて、奈々子の隣に立つと、奈々子の腕を自分の首に回した。
-
「ごめんね、面倒かけちゃって」
-
「気にすんなよ」
-
竜児の肩に体重を預けて、奈々子は左足に体重が乗らないように少しずつ前へ進む。スカートのポケットから、家の鍵を取り出して開錠した。
家の中に入ると、足元にあった赤外線センサーが作動して、玄関をわずかな明かりが照らす。
竜児から体を離して、奈々子は竜児のほうへと体を向けた。
「寒いから、閉めてよ」
-
「ん? ああ」
開けっ放しにしていた玄関の扉を、竜児が後ろ手で閉めた。
奈々子は、竜児から借りていたコートを脱ぐと、竜児に手渡した。
「その上から羽織ったら?」
-
「いいよ、そんなに寒くねぇし」
十分に寒いと思うのだが、竜児は着るつもりはないようだった。丁寧にコートを畳んで腕にか
けている。
本当は、コートもマフラーも、返したくない気分だった。竜児の匂いがするこの服を、しばらく
持っていたいと思った。
けれどそういうわけにもいかないだろう。
「じゃあマフラーくらいは巻いていってよ。それじゃ寒すぎるわ」
奈々子は、竜児から借りていたマフラーを手でくるくると外すと、竜児の首に巻いてやろうと
手を伸ばした。すると、竜児が慌てたように一歩引いて、手で制止しようとする。
「いや、自分ですっから」
-
「いいの、ちょっと黙ってて」
足元を照らしてた明かりが、一定時間が経ったせいで消えてしまう。真っ暗になった玄関で
、奈々子は竜児の首にゆっくりとマフラーを巻いていった。
抱きつくように腕を伸ばして、二回ほど首に巻きつける。そして、奈々子は竜児に体を寄せ
た。
竜児の首に回した手を、自分のほうへと引っ張る。痛む足で、なんとか爪先立ちになると、
竜児の唇に、自分の唇を重ねた。
ほんのひとつ、時間が積まれた。唇が離れると、竜児がよろめいて、後ろに一歩足を出す。
その瞬間に、再び足元を照らしていた明かりが点いて、ぼんやりと竜児の顔が浮かび上が
った。
竜児は目を瞬かせて、唇を手で押さえていた。
「お、おおお、お」
「キス、しちゃった」
奈々子は悪びれる様子もなく、微笑んで見せた。
竜児が、唇に手を当てたまま視線を床に落とす。うろたえているのか、瞬きの回数が多かっ
た。
-
「いきなりこんなことされて嫌だった?」
「いや、別に、そういうわけじゃ……」
-
マフラーを掴んだまま、奈々子は近い距離から竜児の顔を見上げた。見ているだけで、腰が
燃えてしまいそうだった。
体の中から湧き上がる熱が、顔まで昇ってきて奈々子の頬を赤く焦がす。肺の一番底から
出てくるような暖かな息が唇の間から漏れた。
この唇を、ほんの少しの時間だけ竜児の唇に触れ合わせた。冷たい空気に触れてかさかさ
になった唇だったが、そこからは炎のような熱いものが伝わってきた。
臍の下あたりが、きゅうきゅうと締まってくる。竜児にもっと触れ合っていたいと思った。その
体に、自分の体を預けて、抱き締めて欲しかった。
けれど、この人には他に好きな人がいる。その人への想いを、消火することも出来ずに、胸
の奥で小さな種火を燻り続けさせていた。
その炎を消してしまいたい。そして、新しい炎で竜児の心を焦がしてしまいたかった。
「ねぇ……。今日はお父さんの帰り、遅いの」
-
奈々子は竜児の目を見据えながら、小さな声で囁いた。
竜児と視線が絡み合う。薄明かりに照らされた竜児の顔は赤く、瞳は漆塗りの器のように鮮
やかに光っていた。
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「……あたしの部屋に来ない?」
竜児が、息を飲んだ。
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