竹宮ゆゆこ総合スレ SS補間庫
   

 

 川嶋安奈の憂鬱

川嶋安奈は女優である。

生まれつきの美貌と、才能、そして人一倍の努力と・・・幾ばくかの幸運に恵まれて
今では割りのいい仕事が、勝手に舞い込んでくる身分になっていた。
また、恐らくは選んだ連れ合いが良かったのだろう、芸能人にはありがちな家庭の不和も
彼女の元には訪れなかった。
だから、傍から見れば、それはきっと何不自由ない幸せな生活に見えるだろう。


その日、余人の立ち入りを許さぬ無駄に広い楽屋の中、ただぼんやりと鏡を見ていた。
取り出したプライベート専用の携帯のリダイヤル欄には「亜美」という名がポツポツと並んでいる。
自分の若い頃に瓜二つと評されることの多いその名前の少女は、日本人離れしたその肢体と
相まって、実際には若き日の自分よりも間違いなく美しい、と思う。
加えて、身内の贔屓目を別にしても、その少女には才能があった。
モデルと呼ばれる人種は、写真家の言葉一つで自在にその表情を変える。
その中でも、頂点に君臨する者達は、写真家の求めに応じて、周りの空気を、いや、文字通り
世界をすら塗り替えてしまう。
あの子がその中の一人になる確信はあったし、実際にその片鱗も見え始めていた。
そしてその力は必ず、女優としての大きな武器になる。
今はまだ、演技とは呼べないほどたどたどしいものだったが
いずれは、あの子には私の後を継いで女優として大成して欲しいと思っていた。
それが、何よりあの子の為になると信じていた。

ストーカーの件が解決した後、私はあの子に戻ってくるように言った。 さも当たり前のように。
その時私は、あの子がそれを断るなんて思ってもみなかった。
今思えば、あの子なりに真剣に考えていたのだろう。
本当はすぐにでも連れ帰りたかったけれど、結局私は娘の気が変わるのを待つことにした。
それはあの子が、学校や、友達の事をあんな風に話すのを始めて聞いたからだったかもしれない。

そしてそれからしばらくして、私は思い出したように、また電話を掛けてみた。
・・・泣いていた。
電話口の声は平静を装っていたけれど、母親の私は悲しいことに、それに気がついてしまう。
けれど、努めて平静を装う娘に、私は何も言えなかった。
たとえ泣いている理由を知ったとして、それに答えてやれる自信がなかったから。
いつの間にか、娘の気持ちがわからなくなっていた事に、唐突に気づいてしまったから。
だから私は当たり障りのない会話を重ねて、電話を切った。 そうするしかなかった。

確かに、仕事は忙しかった。
しかし、本当に会いに行こうと思うなら、時間を捻出するのはそう難しいことではなかったろう。
けれど私はそうしなかった。
預けたとは名ばかりで、親戚はほとんど家に居ない事も知っていたのに。
そしてまた電話を掛ける。
・・・泣いている。
また電話を掛ける。
・・・泣いている。
娘は何も話してはくれない。
・・・また、泣いている。
泣き声なわけじゃない。 いつも声は、明るい。
痛々しいくらいに「いつも通りに明るく」、「いい子」を演じている。
「・・・・・・帰ろうかな」
ある日、ポツリと漏らしたあの子の言葉に。
『帰ってらっしゃい』 たったそれだけの短い言葉が継げられなかった。
娘のために、道をならしてあげるのが、母親の仕事だと思っていた。
けれど、娘の気持ちも解らないのに、どうして『道』の行く先を決められるのだろう。
女優として自分の後を継いで欲しい、口癖のようになった私の言葉に、あの子が生返事しか
返さなくなったのはいつからだったのか。

それからしばらくは電話を掛けていなかった。
どれほど苦しくても、母親の前ですら演技を続ける娘に、どう手を差し出したらいいのか分からない。
子供を愛さぬ親など居ない。 けれど、愛することと、触れ合うことは、違うのだ。

―――
携帯電話を持つ手がこわばる。

あの子は、いったい幾つの夜を、独りきり涙を重ねたのだろう。
あるいは、今はもう笑顔を取り戻してくれているのだろうか。

―――
のろのろと携帯電話を操作する。

何を話そう。
あの子は父親に似たのか、私よりもずっと賢い。
不用意な事を話したら、きっと見透かされてしまうだろう。
目の前の鏡が僅かに曇って、自分の吐息の深さに驚かされる。

―――
見慣れた数字の列が携帯の画面を流れていく。

次に亜美に会うとき、私はどんな貌をしようか・・・

「もしもし? ママ?」
「・・・亜美・・・。」

川嶋安奈は――――――女優である。