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とらドラ!勝手にアフター
- 「・・・・・・よし、と」
朝、7時55分。
天気快晴、ただし室内暗し。
木造二階建て戸建、二階部分の借家。私鉄の駅から徒歩十分、南向き2DK。
家賃、八万円。
「泰子、じゃあそろそろ行ってくるから」
そういって、鏡の前で最終確認。口周り、清潔。肌、ニキビ無し。髪型、まぁ、OK。眼元、・・・・・・いつもどおり。
鏡にはドス黒い威圧感と闇の狂気に踊り猛る般若の顔――、もとい普段と変わらない、いや普段よりも少しやる気と希望が浮かぶ高須竜児の顔が映る。
そういえば、去年のこの時期は新しい髪型に挑戦しようとしていたっけ。そして自分でも許せないほどに合わなかったっけ。
そんなことを思い出し、前髪を少しだけ弄くりながら、台所に用意した二つの弁当箱を通学用カバンに丁寧に入れる。
「竜ちゃ〜〜ん、やっちゃんの分はぁぁ〜〜〜?」
泰子が慌ただしく部屋からかけ出てくる。顔周りに収まった髪は初々しく、持ち前の童顔と相まって以前よりいっそう若く見える。
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「そこに置いてあるだろ、・・・おう!?泰子、その恰好で行くのか?」
全く落ち着きのない実の母は、相変わらずの肌見せ&脚見せキラキラファッションで全身完全武装している。
去年の竜児なら何も気にしなかったであろう泰子の限界ギリギリの服装も、今となっては気にかけずにはいられないものがある。
「だってぇ〜、前のお仕事のときの服しかないんだも〜ん」
泰子の仕事は、雇われママだった大橋唯一のスナック毘沙門天国のママ、魅羅乃ちゃん(自称永遠の23歳)からオーナーの意向で
こだわりのお好み焼き・弁財天国のやすこちゃんに変わっていた。
泰子だけではない。去年の一年間で、竜児の周りではたくさんの変化が起こった。たくさんの喜びと、笑顔、たくさんの悔しさと、やるせなさ、涙を伴って。
だが、去年の出来事をつらつらと回想している暇はない。今日から新学期だ。高校最後の一年間が始まろうとしている。
これがモタモタとしていられようか。
「出かけるときは戸締りしっかり確認しろよ!行ってきます!」
「はぁ〜〜い〜行ってらっしゃぁ〜〜〜い〜」
泰子の甘ったるい声に見送られ、外廊下の階段を駆け降りる。新聞を取りに出ていた大家さんに挨拶をし、となりに聳える高級マンションの前を駆け抜ける。
またも激動の一年に思いをはせそうになりながら、ただしその鋭い三白眼ははっきりと前を見つめる。
「ぬぁ〜にをモタモタしてんのよぶぁか竜児!!」
腰までゆらりと垂れる栗色の髪にすっぽりと隠れてしまうような華奢な体つきに、透き通るような白い肌、フランス人形のような精緻な美貌。
いわゆる美少女の要素をこれでもかと詰め込んだ体躯は、しかし一見小学生と見紛うようなミニサイズ。
そんな美少女から出力されたとは思えないようなドスの聞いた罵声を朝っぱらからかっ飛ばすこの女こそ、逢坂大河、大橋高校にその名を轟かせる手乗りタイガーその人である。
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「おう、すまん大河。朝準備にてまどっ」
「どうせまた変わりもしない髪型いじって延々鏡とにらめっこしてたんでしょ?全くいいかげんにしなさいよ、浮かれポンチ竜児」
「なんだよいいじゃねーかよ、今日から3年になって新しいクラスになるんだし、誰だって気使うだろ」
「あんたのその前髪つくりよりも大事な時間があるって言ってんのよ」
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大河はそう言ってぶすっと視線をそらす。悪戯な春風にウエーブのロングヘアが踊る。
「こう・・・もっとその、ふ、ふた、り、の時間を大切に・・・とかなんとか思わないわけ!?」
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すべて言い終わらぬうちに、手乗りタイガー渾身の右フックが竜児の脇腹を襲う。竜児の鈍い悲鳴もむなしく
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「あんたね、クラス替えよ!私は文系で、竜児は理系なんだから、当然クラス変わっちゃうじゃない!それはつまり、一緒にいられないってことよ?
だ、だからそう、こうやって一緒にいられる時間を・・・たいせつに・・・」
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ごにょごにょ、とうつむきながら話す大河の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやり、改めて感じる。この小さな虎の愛おしさ。
140センチそこそこの美少女とは思えない暴言と暴力の嵐。横暴で、わがままで、食い意地が張ってて、全校生徒規模で手乗りタイガーなんてあだ名で恐れられ、
でもドジで泣き虫で、それでいて壊れそうなほどにまっすぐに生きるこの少女。逢坂大河の、愛おしさ。
竜児と大河は、付き合っている。それどころか近い将来の結婚までを誓い合っていた。それもこれも高校2年生という時間を二人、互いの一番近くで過ごしてきたその結果だった。
ただ、ここにたどり着くまでにたくさんの悩みとぶつかってきた。一度はすべてから逃げてしまい、二人だけで生きてゆこうとも考えた。
でも二人だけの幸せを放棄して、今ここにたどり着いたことは、今のところ正解だと思っている。その暫定的な回答を完璧な正解にするための一年が、今日から始まるのだ。
「ごめんな大河。ほら、遅れちまうから行こうぜ」
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全ての思考を一度沈め、しかし未来への希望と決意は握りしめ、穏やかな気持ちで歩きだす。隣には大河。手はどちらともなくつながっている。
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「明日はもっと早く来なさいよ」
「俺はお前の寝坊の方が心配だよ」
「ぅおぉ〜〜い〜〜高っちゃ〜ん!タイガ〜!」
春の陽気に、春田の暢気。背後から間の抜けた声が自分たちの名前を呼ぶのが聞こえる。となりの大河が「はぁ・・・・・・」わざとらしいため息をついたのもついでに。
校舎前のスペースに毎年張りだされる新クラス表。一番奥に張り出された3年の掲示を見て、改めて高校最後の一年なのだと思い知る。
「おう春田。お前何組になったんだ?」
「おっす〜!え〜俺〜?おれD組〜亜美ちゃんとぉ〜麻耶様とぉ〜奈々子様もぉ〜高っちゃんは?」
ひょーー!ハーレム完成〜と小躍りする春田とさりげなく一歩距離を取る。
「おれはB組。んで大河はCだ。」
「うお〜高っちゃんB組って国選じゃん!さっすがぁ〜じゃあなに、北村大先生と一緒じゃな〜い」
なんで最初に会うのがこのアホロン毛なわけ?ていうかアホのくせに進級できたんだ、あそーか裏口入学だから・・・まぁでも卒業はむ
竜児はこの際隣から聞こえるエンドレスの小言は聞こえないふりをすることに決め込んでいた。
これでもし大河と実乃梨が同じクラスでなかったらと思うと背筋が凍る思いだ。
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「おう、そうだな。北村は・・・どこだろう?」
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「呼んだか?高須。」
竜児の方をポンと叩く手と、挨拶のつもだりだろう、律儀に上げられた右手のその長い指。
「おう、北村。また一緒のクラスだな。」
いまどき珍しいくらいの坊ちゃん刈りの黒髪に、銀ぶちメガネに飾られた瞳は大きく、綺麗な顔立ちはにっこりと笑う。
大橋高校生徒会長、北村祐作とはこれで三年連続で同じクラスだ。
「逢坂に春田も一緒か。クラスは違うが今年もよろしくな、二人とも。」
春に似合うさわやか全開の笑顔であいさつする北村は優等生そのものだ。
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「ぅおいぃっす〜き〜たむら〜」「おはよう北村君」
二人の挨拶もそこそこに、
「とぅあいが〜〜〜また一緒のクラスじゃんか〜〜〜!」
「みのりん!」
猛然と走り込んできた実乃梨に、大河が飛びつき空中で合体する。そのまま大河のあたまを「よしよ〜し」とがしがしと撫でまわし、大河も幸せそうに実乃梨の胸に顔を埋める。
「今日から3年・・・か。」
竜児の見上げるは、いつもと同じ、青い空。
- 始業を終え、新しい教室で、最初のロングホームルームを行う。
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「みんな今日から3年生だ。進路を早めに確定することが受験を勝ち抜く第一歩となる。すでに連絡済みではあるが、今日は午後から体育館で進学説明会がある。
昼休みをはさむから各自遅れないようにな。」
「はぁ・・・」
「どうした、高須?」
今年もしっかりとクラス委員に内定した親友、北村が話しかけてくれる。新しい一年、などと浮かれてはいたものの、結局自分はこうなのだ、と思い知る。
「いやぁ・・・、クラスの奴らが明らかに俺を見てるんだが」
「あぁ・・・そうか。いやでも気にすることはないぞ、高須。去年の文化祭の活躍もあって、ヤンキー高須は実はヤンキーじゃないって噂も出てるくらいだからな。」
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「ヤンキー・・・」
竜児の溜息も出きらぬうちに、ドグゥアン!バン!!とクラスのドアがものすごい音を立てて開く。
壊れんばかりの勢いで開かれたドアの向こうに見えるのは竜児には見なれたウエーブのロングヘアー。クラス中の注目を小さい体に余すことなく集め、つかつかと
竜児に向かって真っすぐ歩いてくる。
「手乗りタイガー・・・」「なんでここに・・・」「相方の高須を連れだしに来たのか・・・」
クラスの連中のひそひそ話を目で制しながら竜児の前の席にちょこんと座る。小さく収まった大河のうつむく顔はさっきの威勢のよさはどこへやら、顔を赤らめて
竜児を控えめに見つめる。
「どうした、大河?ていうか、あんな登場しなくても・・・」
「ごはん」
「あぁ飯か?ほらよ・・・。全く、待ってれば今届けに行ったのに」
「ちがう、そうじゃなくて」
「じゃなんだよ」
自分の通学用バッグから朝用意した大河の分の弁当箱を目の前につきだしながら聞き返す竜児をちらちらと見る顔はもとのミルク色の白さも忘れ
「そ・・・の、一緒に食べようよ」
「ん、おう。な、なんだそういうことか。それはいいけど・・・ここでか?」
クラス連中の視線は大橋高校の二大ヤンキーの競演に釘づけになっている。「高須君が手乗りタイガーに貢物だ・・・」などと。
「ここはちょっと不味くないか・・・」
「じゃあどっかで」
「どっかって・・・」
机ひとつを挟んで向かい合い悩み始める二人の間に、天声のように北村の言葉が割り込む。
「飯を食うなら、いいところがあるぞ」
「・・・で、ここか。」
「確かに他に人はいないけど」
「っおう!まださみいぞ・・・」
二人が北村に薦められたのは、屋上。4月とはいえ春一番の吹き荒れる地上五階相当の気温は一層低く。
「とととりあえず、どこかに座りましょ」
「おう・・・、そうだな」
せっかくだから遠くまで見えるところがいい、とわざわざ寒いところに向かう大河を、竜児は四歩、五歩の距離で追いかける。
「っっっっうううさっむううう」
適当に二人腰をおろしたフェンス際。自分の弁当箱を足元に広げた大河が脇に潜り込んでくる。
「っおう!?大河・・・、その、くっつきすぎだ、誰か来たら」
むす、とおちょぼ口を作って見せ、そのまま胸のあたりに顔を預けよりかかってくる。さすがに動けない。
竜児の瞳孔が赤黒い光を孕み、目の前の少女を取って今日の昼飯に頂くは肥えに肥えさせた極上の娘の肉と血のワインじゃー、というのではない。
ただ恥ずかしいのだ。いつも一緒にいた大河とはいえ、この距離感はほとんど未体験ゾーンだ。ただ、イヤかと聞かれれば、そうでもない。
「だってこのほうがあったかいし・・・、それに!誰も来ないからこんな寒いとこにわざわざ来たんじゃない」
「いやもちろんそりゃそうなんだが」
「・・・じゃあ何も問題ないじゃない。・・・イヤ?」
突き刺すような乾いた空気に揺られ、大河の柔らかく温かい髪のにおいがふわりと鼻もとに届く。もう一度言おう、イヤかと聞かれれば、そうでもない。
「いや!いやいや・・・いやじゃない、いやじゃないぞ」
「なによ、いやなのかいやじゃないのかはっきりしなさいよ」
竜児の対応が期待はずれだったのか、さすがに二人だけの屋上とはいえ恥ずかしさがでてきたのか、それとも目の前の弁当に我慢ならなくなったか、
大河はくっつけていた頭を直して、箸を持つ。
「いただきます、は?」
「いただきまーす」
「ん、このきんぴらおいしい!」
「おう!そいつは昨日の自信作だ」
自分の分のきんぴらを一瞬で平らげた大河は不意打ち、竜児の弁当からきんぴらをつまみ、口元に運ぶ。
「おあっ、大河おまえ!・・・ってあーあー」
口に運ぼうとした端からきんぴらがこぼれ、スカートの上にぽつりと落ちる。拭いてやるからじっとしてろ。このドジめ、と竜児がティッシュを取り出したとき、
不意に強い風が視界をふさぐ。
「きゃあ!」
大河のスカートは盛大にめくれ、上に乗っていたきんぴらも飛ばされてしまう。
「・・・見た?」
「見てねえ!見えてねえ!」
「見たのね・・・このエロ犬!!」
少々行儀の悪い春風もしばらく一緒だが、ここでおだやかに、だけど少し慌ただしく昼を過ごすのも悪くはなさそうだ。
「亜美ちゃんだ・・・」
「あの川嶋亜美と・・・同じクくクラス」
「ちちち近い近すぎるまぶし過ぎる・・・」
「さ、ササインを・・・」
そこかしこから漏れる男子生徒のため息混じりの歓声を一身に受け止め、これでもかと鉄仮面の上からの営業スマイルを振りまいてみせる。
チワワ目をめいっぱいに潤ませ、わざとらしいほどのボリュームで、
「やぁ〜ん、亜美ちゃん感激〜♪このクラス、すっごい良い人ばっかりみたぁ〜い。みんなあ、よろしくね〜☆」
午後にはまだ直視などしたくもない進路についての学年集会が控えた、春休み明けの昼下がりだというのに、3−D組には(主に男子生徒の)
まるで今日入学したばかりというような希望に満ちあふれた笑顔が踊っていた。いつぞやのキャンプファイヤーよろしく笑顔の輪の中心で燦然と輝くのは現役女子高生カリスマモデル、川嶋亜美である。165センチのすらりとした長身に、その細身に不釣り合いとも思える美しいバストライン。
完璧なまでの整いを見せるパーツを詰め込むには小さすぎるような小顔。郊外の公立高校の制服を着てなお埋もれることなく輝きを放つセレブオーラ。
あまりに完璧な外見で包むのは、その実黒さの塊としか思えぬ我がままお姫様的性格。
「あーあ、大したイケメンもいないし、外れねー」
と、3秒前とは打って変わってダルそうに、つまらなそうにぼやいてみせる。
「もともと期待なんて薄いしー。それに亜美ちゃんにはやっぱり本物の芸能人しかいないっしょ!ね、それよりさ、駅ビルに新しくフルーツパラダイスできたの、知ってる!?」
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「え、そうなの?フルーツならそこまで気にせず食べられていいわよね」
こんな黒さを見せる亜美とも慣れた様子で会話を続ける二人も、亜美の影に隠れることなく美しさを見せている。
どこから情報を仕入れてくるのか駅ビル事情に異様な詳しさを見せ、またすこし明るく染め直し、丁寧にトリートメントされたストレートヘアを揺らす木原麻耶に、
ギャルっぽさを売りにファンを獲得している麻耶とはまた別の層から熱烈な支持を受ける、穏やかな空気感に妙な色気を醸す口元のホクロがチャームポイントの香椎奈々子。
2−C美少女3人組は、かくして今年も同じクラスでガールズトークに花を咲かせる。
「おれ、3Dになれてよかった・・・」「成績たいして良くなくてよかった・・・」
なぞと感動に打ちひしがれる男子生徒の中で一人、「進級できてよかったあ〜」とずれた喜びをかみしめるロン毛が一人。
「おい春田、お前去年もあの3人と同じクラスだろ?おれらのこと紹介してくれよ!」
「ぬぉ〜んのん。俺でもあと一歩のところで攻略しかねた亜美ちゅわんが振り向くわけないってえ〜!ま〜あ〜、おれは瀬奈さんがいるから攻略の必要なんて〜ウフフ」
「なんだよ春田気持ち悪いな、お前。」
「お〜い春田ー!」
さっそくそのフランクさで新しいクラスでものらりくらりとアホを咲かせる春田を、廊下からの声が現実へ引き戻す。
「おー能登っち〜」
黒ぶち眼鏡に、ランダムにたち跳ねるショートヘア。春田と、そして竜児の親友能登久光は、春田を呼びつけながら全く春田のことなど見てはいない。
「げ、能登・・・。」
不意に目が合った麻耶に露骨に目をそらされ、バツの悪そうに春田に挨拶をする。
「なになに〜、能登っち〜麻耶様見に来ちゃったの〜?あ〜、それとも〜新しいクラスにともだちいなくて〜こっち来ちゃったとか?」
「なに言ってんだよ違うよ。ほら、春休み約束したじゃん、駅ビルに古着屋で来たらしいから行ってみようぜって」
「あぁ〜駅ビルね〜!」
春田のプライベートもクソもないアホボリュームで聞こえた単語に、麻耶が少しだけ反応したのを知るのは隣の二人だけで。
5年ほど前に塗り替え工事が竣工し、実乃梨の入学当時はそれこそ新設同様に綺麗だった校舎と比べて、グランド裏にこぢんまりと建てられたこの部室棟の汚さ、ボロさはどうだろう。
グラウンドの土が春の強い風に舞い上げられ、玄関口は埃っぽく、かといって中に入れば運動部とはいえ年頃の女子の部屋とは思えぬ異様な匂い。
グラブやスパイクにしみ込んだ汗と、雨でたまった湿気の最悪コンボに対して強引に制汗スプレーやらファブリーズやらで対抗した悲惨な戦いの後の傷跡も、人間慣れてしまえば関係ないのだろうか。
重苦しい音とともに開いた安っぽいドアを開けて、見なれた面々に挨拶をする。
「やーやーおはよう諸君。元気かい?」
「あー櫛枝先輩お疲れ様でーす」
「おうおうおっつかっれーい」
運動部特有のTPOなど無視した万能あいさつで先に部室にたむろしていた後輩たちと軽くコミュニケーションをとりつつ、奥のロッカーの上、
丸められたジャージやら誰のものかもわからない置き勉用教科書やらがひしめき合う中に目当てのファイルを見つける。
「いやー危ない危ない。失くしたかと思ったよ」
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「なんです?それ」
「明日からの部活勧誘のチラシの原本さー。いいか〜、みんなで死ぬほどばら撒くんだぜぇ〜。」
「あー勧誘・・・。めんどくさい〜」
後輩の一人が読んでいたマンガを伏せて、泣き真似をしてみせる。女子部とはいえど部室なんてこんなもんだ。忘れ物だって暇つぶしだってここにくれば大抵なんとかなる。
「おいおい舐めるんじゃねえぜ、今まで連綿と続いてきた女ソフを廃部に追い込むようじゃあ、部長の名折れってもんよ。」
そういって実乃梨は気をつけをし、見えないマイクの高さを調整し、わざとらしく脱帽して一言。
「過去の部長は引退式で言ったもんさ・・・、『わが大橋高校女子ソフトボール軍は永久に不滅です』ってね」
後輩たちの微妙なリアクションなど気にもせず、実乃梨は颯爽と部室を後にする。
あっという間に3年生になってしまった。必死こいて必死こいて練習して、あと二カ月もすれば夏の予選だ。
でも怖くはない。焦りもない。自分のやることは見えている。自分の進むべき道は見えている。
その道は、決して一人で見つけたものではないと思う。たくさん笑って、たくさん悩んで、時に泣いて。
自分のしていることは、自分のしてきたことは正しかったかと道に迷ったかもしれない。ものすごい遠回りをした一年だったかもしれない。
バカなミスで試合に負けたこともあった。バカなことを言って親友を泣かせることもあった。後悔は数えきれない。でもよいのだ。
それを、一人の力ではなかったけれど、乗り越えた自分がいると信じられる。
高須君は、まっすぐ進む自分が好きだと言ってくれたのだ。彼は分かってくれた。大河も、あーみんも、北村君も。今の自分にはたくさんの理解者がいてくれているのだ。
スタンドで応援してくれている人に、一番の投球を見せずに何がピッチャーだろう。
ソフトも、普段の生活だって、バイトだって、全力投球のフルスイングをしてやるのだ。
「やってやるぜーーー!!」
櫛枝実乃梨、17歳。背番号は1。エンジンは、いつでも全開――。
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