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イイコト
- 「んふっ・・・」
声にならない声が静かな教室に響く。 一瞬、自分の身に何が起こったのかが理解出来ない。
何か柔らかい物が触れたような感覚と、込み上げてくる熱い思い。 そして触れたはずの物体は離れていく。
何が起きたのかわからない?いや、わかってる。わかってはいる。
――彼の唇が私の唇に触れたんだ――
その事実を認めると、彼の視線が急に私へ羞恥を促す。 にもかかわらず自然と笑顔になるのは何故だろう。
決して短くない時間、私はそれを望み求め続けていた。 思い、焦がれ、渇望し、時に涙した。
そして今、それを得ることが出来た。その喜びは何物にも代え難い。 それでもその直後には「もっと、もっと」と求めてしまう自分がいる。
そんな事を思いながら再度唇をねだると、彼は私の口内に舌を潜り込ませてくる。 私を強く求めてくれているようでただ素直に嬉しい。
彼がこんなにストレートに、愚直に、私を求めてくれる事はそう無かったから。 私と彼との間でそれは致し方の無い事。
でも、嬉しいものは嬉しい。それは否定のし難い事実。
- その喜びに一人浸っている束の間に、今度は熱い接吻と共に私の身体へ腕をからめてくる。
腕に、お尻に、背中に、首筋に。
それはゾクゾクという感覚と共に、私の身体を支える力を奪っていく。 私はたまらず背後の壁へ崩れかかる。
彼は追い討ちを掛けるかのように両の肘で私の頭を柔らかく挟み込む。
後ろは壁。横は腕。そして眼前には愛しの三白眼。
逃げ場など、もう無い。 当然、その先が幸せであるとわかっているので逃げる気も起らない。
さて今度はどのように私を料理してくれるのかしら・・・。
そう思った次の瞬間、彼は本当の意味でのフレンチキスと共に、スッっと私から距離を取る。 何故?と一瞬いぶかしむ私。
「悪い。夕飯の買い出しがあるからそろそろ帰るな」
彼はそう言って、申し訳なさそうにそそくさと帰っていってしまった。
私の気持ちを置き去りにして。
- 教室に残されたのは私一人。
ちょっとガッカリ。いや、結構かな。 それでも、その先を期待させといて酷いな、とは思わない。
今はこれだけで十分幸せだったから。 今日はこれで満足しなきゃね、と自分に言い聞かせる。
そして私は、彼の帰る先に思いを馳せた。
そこは彼のお母様と、もう一人のいる場所。 私の立ち入る隙間など無い。
初めからわかっていた。全てが満たされる恋ではないことを。
人に他言することの出来ない恋であることを。 そう、それはわかっていた。だから私は覚悟を決めた。
心が寂しい時は、彼の唇の感触に思いを寄せて紛わせよう。 身体が寂しい時は、彼の指が私の胸を鳴らす事を思い出して身体を鎮めよう。
そうやって足りないものを補っていけば、私の孤独なんて消えてしまうはず。
いつか、いつか・・・。
そうやって淡い期待を抱きながら、この胸を焦がす日々を送っていこう。 そうすればきっと、私にもイイコトが舞い降りてくるだろうから。
そんなことを思いながら、奈々子は帰宅の途についた。
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