「おっと、温野菜を忘れていた。俺はブロッコリーにするつもりだが、それでいいか?」
「うん、それでいい…。ブロッコリーは緑黄色野菜だし、繊維質が多くてデトックスにもなるから、大好き」
こわばっていた亜美の表情が、ほんの少しずつほぐれてきたことを窺い、竜児はちょっと安堵した。
そう言えば、高二の秋に豚肉か牛肉かのどっちを買うか、スーパーの食肉売場で悩んでいた竜児に、背後から適切なアドバイスをしたのは他ならぬ亜美だった。意外に、食材選びや料理の素養はあるのかも知れない。
「それと、肉料理だけじゃぁ、ちょっと味気ないなぁ…」
もう一品、何にするかを思い悩んでいた竜児の手を亜美が引いた。
「ねぇ、豆腐や、その加工品なんかどうかしら? 低カロリーで高蛋白なのも都合がいいし…」
そう言って、豆腐売場を指さした。その中でも大判の飛龍頭が目立つ。
「手作りの飛龍頭か、こいつはいい。美味しそうだし、大きくて食べ応えがあるな…」
「でしょ? オーブンで軽く焼いてわさび醤油で食べるだけでも美味しそうだし、下ゆでして油抜きしてか
ら、小鉢にエノキダケと茹でたスナックエンドウなんかと一緒に入れて、出汁と醤油をかけて電子レンジで
暖めるだけでもいいんじゃないかしら?」
竜児は、すらすらと調理の方針まで口にする亜美をちょっと驚いて見た。
「川嶋、お前、すげぇな。どこでそんなレシピ憶えたんだよ」
亜美は、意味ありげな淡い笑みで竜児を見た。
「インターネットよ…。自分が食べたい料理なんかのレシピを調べたりするだけでも結構楽しくって…。でも、自宅じゃなかなか自発的になれなくてね。だから、高須くんにいろいろと教わりながら、少しずつやっていけるってのは本当に嬉しい」
「お、おう…」
亜美の意外にも前向きな態度に竜児は驚くよりも、ちょっとした感動を覚えた。同時に、亜美の最大の魅力が何であるかも竜児は漸く悟ることができた。それは、元モデルだというルックスでも、ファッションその他のセンスの良さでも、如才なく振る舞うことができるクレバーさでもない。
「努力家なんだな川嶋は、それも人知れずこっそり練習するような…。勝手な想像で気ぃ悪くしたらすまねぇ
けどよ、モデルの仕事だって、誰も見ていないところで、ものすごい努力をしてきたんだろうな…」
亜美は、鼻筋に小じわを立てて、ちょっと竜児をからかうように笑った。
「え〜っ、亜美ちゃん、努力なんて大嫌い。天才亜美ちゃんに汗くさい努力とか根性なんてのは、ぜ〜んぜん似合わねーしぃ〜」
竜児もつられるように笑った。
「あくまでも表向きは努力を否定すんだな」
「努力って言えるほどのことはしてないし、実際に努力していたとしても、望んでいる結果が出ないうちに『努力してます』ってのは、ちょっとねぇ…」
「おぅ、努力ってのは、人知れずしてこそ意味があるんだよな。これ見よがしに『努力してます』って言う奴は品がないし、失敗の言い訳に『努力はしたんです』ってのは格好悪いからな。その点、努力していることをひけらかさない川嶋は立派だよ」
「う〜ん、本当に努力なんかしてないんだけれど、高須くんがそう言うなら、まぁいいや…」
亜美は、苦笑しながらも、ちょっと嬉しそうに相好を崩している。
この後は、竜児の家での亜美と一緒になっての台所仕事と、泰子を交えての夕食。そして、金曜日に予定されている弁理士試験受験生のサークル出席への準備に関連して、弁理士試験の状況を調べることになっている。
今日の実乃梨との諍いも帳消しにできるぐらい充実した時間が過ごせることだろう。
実際に、台所では手つきがちょっとだけ危なっかしい亜美をフォローしながらの調理、泰子との和気藹々とした夕食があって、インターネットを使っての弁理士試験の情報収集もした。
亜美もそこそこ台所仕事ができるようになり、泰子も亜美との夕食を喜び、弁理士試験の実情を知ることもできた。
特許庁のホームページで公開されている弁理士試験の試験問題の難解さと、合格率の低さには今更ながら慄然としたが、竜児も亜美も、今後の目標を再確認した夜でもあった。
これで、旋風のように現れた実乃梨との一件も落着! と思われたが、そうは問屋が卸してはくれなかった…。
それも何かに呪われていたかのように事件が立て続けに生じたのだ。
まずは、明けて火曜日。
事件は、講義が終わって、大橋駅まで帰ってきたとき、ちょっと息抜きのつもりで通称スドバ、須藤コーヒースタンドバーでコーヒーを飲んでいた時に起こった。
理学部と法学部共通で講義されるフランス語の対策、『基本書』と呼ばれる弁理士試験の勉強に必要な法学の専門書の話、それに何よりも、次の日曜日にはどこに出掛けるかといったことを、二人でとりとめのなく話していた時のことだ。
「あら、ずいぶんと古い機種なのね…」
テーブルの上に無造作に置かれた竜児の携帯電話を亜美が指さした。今どきの携帯電話に比べると、分厚く、全体にごっつい作りだ。
「おぅ、これか? そろそろ機種変更かと思っていたんだ。だが、最近の携帯は薄くてスタイリッシュだけどよ、ボタンまで薄っぺらで、ちょっと操作しにくくてなぁ、それで、今もこんな旧式を使っているんだ」
亜美は、「ふ〜ん」と、言いながら、珍しい骨董品でも見るように竜児の携帯を手に取った。
「ちょっと、いじってもいい?」
「別にかまわねぇけど?」
その言葉よりも、亜美の指は素早く動いていたかも知れない。
青い色をしたちょっと古めの携帯電話のボタンを、カチカチと操作する。
「そうねぇ、たしかにあたしの持っている薄型の携帯よりもボタンを押してるっていう感じはするわね。この操作する感触が気に入ってるなら、故障でもしない限り、機種変更する必要はないかも…」
「カメラの性能もそう悪くはねぇんだ。本体が分厚いから、レンズ部分とかの光学系の設計に余裕がある。写りは今でもなかなかのもんさ」
文系の亜美には竜児の言うことがいまいち理解できなかったが、理系の竜児が言うことなのだから、本当なのだろうと思うことにした。
「ねぇ、撮った写真を見てもいい?」
「おぅ、いいよ。好きにしてくれ」
別段やましいものは何も撮っていない。まれに、スカートの中を携帯で盗撮して逮捕されるような不埒な輩がニュースにはなるが、竜児には無縁の話だ。
「へぇ〜、バスの時刻表とか、大学近くの駅に掲げてある地図とか、実用に関わるものばっか。なんかこれって、すっごく高須くんらしい…」
亜美が思い描く竜児像を裏切らない写真ばかりなのだろうか。くすくすと笑いながらも、その表情には安堵するような雰囲気があった。
だが、写真を次々と見ていた亜美の表情が急にこわばった。大きく見開いた目が、その写真に釘付けになる。
「どうした?」
亜美は一瞬だけ竜児に咎めるような視線を送ったが、すぐに元の笑顔を取り戻して「ううん、何でもない」
と、首を左右に軽く振った。
−−そうよ、一枚くらい、こんな奴の写真があったっていいじゃない。何かの間違いかも知れないし。
気を取り直して、亜美は次の写真を見た。しかし…、
「うっ!」
次の写真も、その次の写真にも、そしてその又次の写真にも、櫛枝実乃梨が写っていたのだ。それも大口開けて、へらへらと、まるで写真を見ている亜美を小馬鹿にするように笑っている。
亜美はバセドー氏病の患者のように目を血走らせて、竜児の携帯に記録されている写真をチェックした。実乃梨の写真が記録されているのは、ある意味仕方がない。竜児が実乃梨に振られる前は、それなりに双方とも親密だったのだ。
−−だが、あたしは? 亜美ちゃんの写真は?
焦燥感に突き動かされながら、亜美は写真を次々とチェックしていく。
そうして、最後の写真を見終えた後、亜美は、竜児の携帯電話を震える手でぎこちなくテーブルに置くと、がっくり、とうなだれて脱力した。
亜美の写真は一枚もなかった。そう言えば、竜児にこの携帯で写真を撮ってもらった覚えなんぞ、そもそもなかったのだ。
「お、おい、川嶋、大丈夫か?」
「ない…」
低く微かな呟きだったが、怨嗟がこもった陰鬱極まりない声でもあった。
「ないって、何が?」
「一枚も、ない…」
「だから、何が一枚もないんだよ?」
亜美は、まるで幽霊か何かのように、ゆらりと顔を上げた。
「亜美ちゃんの写真が一枚もない…」
「なんだ、そんなことか…。そう言えば川嶋の写真は撮ったことがなかったよなぁ…」
内容そのものも誉められたものじゃないが、がっくりしている亜美を無視して、まるで他人事のように興味の薄そうな口調で呟いたのが、明らかにまずかった。
「た、高須くん! あんたってぇ人はぁ…」
思いやりが欠片も感じられない竜児に、亜美は顔を真っ赤にして詰め寄った。
「う、うわ、川嶋、なんだよ、まじになるなって…。お、落ち着け」
「落ち着いてなんかいられないわよ! あたしの写真がなかったことだけでも許せないのに、これは何よ!!
なんで、実乃梨ちゃんは、あの女はこんなに何枚も写っているのよ!!」
突きつけられた携帯電話の液晶ディスプレイには櫛枝実乃梨の笑顔が映っていた。竜児は、『こんな写真、未だ保存していたのか…』と一瞬思ったが、詰め寄る亜美の表情で状況が洒落にならないことを理解した。
「い、いや、櫛枝の写真は、く、櫛枝に撮ってくれってせがまれて、たしか、そんで撮ったんじゃないかって、思う…」
真っ赤な嘘だった。古すぎて記憶は定かではないが、たしか竜児の方からお願いして写真を撮らせてもらったはずだった。だが、正直にそんなことを言える雰囲気ではない。
「なんか、嘘くさい…」
女の勘という奴なのだろうか、『納得できない』と言わんばかりに、亜美はまなじりをつり上げた。
「そ、それと、川嶋の写真が、な、ないのはだなぁ、いや、川嶋はモデルだったし、普段、散々撮られているから、カメラを向けられるのは食傷気味だと思ってさ、ほら、ストーカー事件とかあったろ…。そ、それで、こっちも撮らせてくれってのは言い出しにくかったし…」
我ながら下手な釈明だ、と竜児は思った。竜児が携帯で写真を撮ることに特に興味があった頃、亜美は竜児の恋愛対象ではなかったというだけの話だ。亜美にとっては実に残酷なのだが…。
「今はもうモデルなんかやってないじゃない! ストーカーに写真撮られるのは気持ち悪いけど、高須くんに撮って貰うのはそうじゃないでしょ! 高須くんは、女心の機微ってもんを、本当に全然分かってない」
「お、おう…、そ、そうなのか?」
「それに、『こっちも撮らせてくれってのは言い出しにくかった』って、どういうこと? なんでいきなり『撮らせてくれって』話が飛び出すの? さっきの実乃梨ちゃんの写真は、実乃梨ちゃんからせがまれて撮ったんだよね? 高校時代でも実乃梨ちゃんの写真ですら自発的に撮らないあんたが、あたしの写真を撮らせ
て下さいって言う? おかしくない?」
「ど、どうなんだろうな…」
嘘がバレているらしいことに焦るが、ここはしらを切り通すしかない。
「だから本当は、実乃梨ちゃんの写真は、実乃梨ちゃんからじゃなくて、あんたの方からお願いして撮らせ
て貰ったんでしょ? で、その頃、あんたにとって好きでも何でもなかったあたしの写真は撮らなかった…。
もう、あんたは嘘が下手なんだからぁ、もうちょっと、ましな言い訳を考えなさいよっ!!」
亜美は、顔を真っ赤にして、今にも涙を零しそうに目を充血させて竜児を睨んだ。
竜児の下手な嘘は完全に見破られ、その嘘が亜美の心証を余計に害したことは間違いない。
「い、いや、それに、以前人づてに聞いたんだけど、川嶋ってさ、『たかが写真』とかって言ってたらしい
よな? そ、それで、撮らせてくれって言い出しにくくって…」
何とか事態の収拾を図ろうという苦し紛れの一言。だが、その一言が、致命的だった。
「なんで、あんたがそんなコメント知ってるの! 『たかが写真』ってのは、他の誰でもない、実乃梨ちゃんにしか言ってないのよ! それをあんたが知っているってぇのは…」
竜児は、『しまった、これ櫛枝から聞いたんだったっけ…』と思い出したが、もはや後の祭りであった。
亜美は、差し向かいの竜児の胸ぐらを、ぐいっ、と掴んで引き寄せた。
「う、いてて、暴力反対!」
「あんたは、いつだってそう。櫛枝、櫛枝、櫛枝、そればっか。本当にむかつくんだからぁ!!」
「お、お前、いつの話をしてるんだよ。む、昔のことじゃねぇか…。昔は昔、今は今だろ?」
「うるさ〜い!」
亜美は掴んでいる竜児の胸ぐらを激しく揺さぶった。
「な、なぁ、櫛枝の写真にむかついているなら、そ、そんな写真、い、今すぐ消去するから。ゆ、許してくれ」
竜児自身、存在すら忘れていた写真である。実乃梨との思い出が消えるのは正直惜しいが、振られた女の写真を後生大事に持っているがために、本妻のご機嫌を損ねるのは宜しくない。
「それだけ?」
亜美は、胸ぐらを掴んだ手を緩めない。それどころか、いっそう激しく、竜児の頭部を振り回すように揺さぶった。
「ま、未だあんのかよ…」
「あったりまえでしょ! あんたは、あたしが何をして欲しいのか考えなさい!!」
「く、櫛枝の写真を消去するだけじゃダメなのか?」
「あんたって、本当に『気遣いの高須』なの? まぁ、既に看板倒れもいいところだけどさぁ」
「振り回されて、脳みそがどうにかなっちまう。たのむ、ヒントだけでもくれぇ!!」
竜児の首が、がくがくと震える。このままでは本当に脳震盪か何かになってしまう。
「あ〜っ、もう本当に察しが悪いんだからぁ! あたしが不満な点は、何と何?!」
「ひ、一つは、櫛枝の写真を撮っていたことだ…」
「もう一つは?」
亜美の声が一段と刺々しい。竜児の察しの悪さに、亜美の怒りも臨界点に近づきつつあるようだ。
「お、お前の、しゃ、しゃ写真を撮ってなかった…」
亜美に振り回されて、意識が朦朧としてきた。
「で、その解決策は? 何?」
ここまで言われれば、いかに鈍い竜児でも察しがつく。
「しゃ、写真を、お前の写真を、と、撮る、こ、これならどうだ…」
漸く、亜美は竜児の胸ぐらを離してくれた。開放された竜児は、力なくテーブルに突っ伏した。ぐるぐると目が回り、イヤな頭痛がする。揺さぶられたことで、脳みそが震えて頭蓋骨の内面と干渉してなきゃいいのだが、といらぬ心配をしたくなる。
「いつまで寝てんのよ! ほら顔上げて、あたしの写真を撮る約束でしょ!」
ようやくめまいが収まりつつあった竜児は、「えっ!」と小さく叫んで亜美の顔を見た。
「今、ここでか?」
「当然でしょ? さっさと、撮る!」
その亜美の顔はお世辞にもフォトジェニックとはいえなかった。充血した目を釣り上げて、眉間にシワを寄せ、頬を怒りで痙攣させ、顔面全体は、いかにも頭に血が上ってます、というように生え際まで真っ赤に染まっている。
「な、なぁ、川嶋、悪いことは言わねぇ。今じゃなくて、今度にした方がいいって…。今のお前を撮ったとしても、その何だ、いい写真は撮れないような気がするんだが…」
「いいから撮りなさい! 変な写真だったら何度でも撮り直すの! 分かった?!」
竜児は「うへっ…」と、呟いて首をすくめた。今の亜美は鬼か般若そのものだ。逆らったら、取って食われてしまうかも知れない。
仕方なく竜児は携帯電話のレンズを般若顔した亜美に向けてシャッターを切った。いっぱしのカメラっぽいシャッター音の後に、撮影画像が液晶ディスプレイに表示された。案の定、ひどい顔だ。
「ダメ、なってない、やり直し!」
亜美がシートにふんぞり返って、すげなく言う。「そりゃ、モデルの表情が悪いんだからどうしようもない」
と言ってやりたかったが、言ったら間違いなくただでは済まない。
撮影二回目。
「ダメ、亜美ちゃんが、全然かわいく撮れてない!」
これもすげなく却下。
撮影三回目。これも没。四回目も五回目もダメで、亜美が、
「ふん、まぁこんなところで今日は勘弁したげる」
と、すまし顔で言ったときには、もう何回撮影したのか定かではなかった。
カウンターではマスターの須藤さんとスタッフの女子大生、それに稲毛酒店の店主を含む常連客の何人かが哀れみとも、嘲笑ともつかない視線で竜児を見ている。何のことはない、またしても公共の場で醜態を晒してしまったようだ。
さらに翌水曜日。
竜児は、亜美と一緒にフランス語の予習を自宅で行っていた。以前は、ファストフード店とか、スドバとかでやっていたのだが、結局、落ち着くところに落ち着いたと言うべきか。まぁ、スドバは、昨日の騒ぎで、そのほとぼりが冷めるまでは、ちょっと行けそうにないという事情もあるにはあるのだが…。
フランス語の講義は、次々と学生に答えさせる『ソクラテス方式』なので、予習は気が抜けない。この点では、北村が選択したドイツ語の方がぬるいらしい。
亜美の話では、法学では、ドイツ語もフランス語もどちらも重要だという。これは、わが国の民法典等はフランス法とドイツ法とを範としているためだろう。
一方の竜児が属する理学部数学科は、フランス語を学ぶ学生が支配的だ。今や海外文献はほとんどが英語なので、数学に関しては積極的にフランス語を学ぶ意義はないが、どういうわけか数学科はフランス語を学ぶのが多数派ということになっている。
同じ理学部でもドイツ語を学ぶ学生が圧倒的に多い化学科とは対照的だ。
「ふぇ〜っ、終わった…」
英語とは勝手が違うフランス語には、入学直後はかなり悩まされたが、二人合わせての共同作業による予習が功を奏したのか、以前に比べれば、それほど手こずるものではなくなってきていた。基本的な単語や文法が徐々に理解できてきたのだろう。
「これで、明日の講義は何とかしのげるわね」
「おぅ、先週は、理学部の多分数学科以外の学生が答えられずに晒し者になっていたな。階段教室であれを喰らうのは、トラウマになるほどの屈辱だから、絶対に回避したいよな」
「でも、あたしたちの力を合わせた予習で、明日は怖いもの知らずだわね」
「い〜や、俺、根は臆病だから、答えられる問題でも、当てられるのは願い下げだけどな」
「自覚はしてるんだ、臆病だって…」
ちゃぶ台の差し向かいにいる亜美が、くすくすと笑った。
「そんなもん、長い付き合いの川嶋には、とっくの昔にバレてるじゃねぇか。暗いところやオカルトもダメ。
高二の夏休みじゃ洞窟で怖気づいて川嶋に笑われたし、今さら格好つけたってしょうがねぇや」
そう言うと、竜児は、やおら立ち上がった。
「どこ行くの?」
「お茶でも入れるよ。最近、美味しい紅茶の葉が手に入ったんだ。セイロン島の高地で特別に栽培された奴だ。香りがすっきりしていて、勉強なんかで疲れたときに飲むとリラックスできる」
「うわ〜っ、それ、楽しみぃ!」
ちゃぶ台に一人残された亜美は、改めて竜児の部屋を見渡した。簡素、と言ってよいほど綺麗に片付けられた部屋には、分厚い書籍がいくつも納められた本棚が目立つ。中にはデザインやインテリア関係の洋書もあった。
「ねぇ〜、本棚にある本、ちょっと読んでいていい?」
心持ち大きな声で台所に居るであろう竜児に訊いてみる。
間髪入れず、「いいよー」という返事が聞こえてきた。
亜美はそのうちの一冊を手に取った。背表紙が英語のその本は、英国の出版社による意匠の変遷を大量の写
真で詳説するものだった。主にはロココ調からバロック、アール・ヌーヴォー等を経て現代に至るまでが、時代毎の特色を述べながら、詳細に説明されていた。
「学校の勉強以外にもこんなものを読んでいたんだぁ…」
道理で博学なわけだ。それに理系にしては英文読解力が秀でているのは、自宅でこうしたものを読んでいたからだろう。
人知れずの努力というのなら、こういうことを指すに違いない。
亜美は、一通りその本に目を通すと、元通りに本棚に戻した。
「あれ?」
箱でカバーされた刊行物が分厚い洋書に紛れて存在していた。亜美にも見覚えがあったそれは、高校の卒業アルバムだ。
「こんなところに…」
亜美が卒業アルバムを手にしたのは、久しぶりだった。亜美も同じ卒業アルバムを貰ってはいるのだが、そのアルバムは東京の実家に預けたきりになっている。
「何だか、懐かしい…」
その卒業アルバムを手に取って開いてみた。
アルバムには写真や、学校で配布されたプリントの類がいくつか挟まっていて、ページを繰ろうとしたら、それらがちゃぶ台の上に滑り落ちてきた。
「おっと、あたしとしたことが…」
元通りにアルバムに挟むべく、亜美はちゃぶ台の上に散らばったプリントや写真を手に取った。
「あらやだ、こんな写真持ってたんだ…」
それは文化祭でのものだった。少々、竜児と実乃梨とが手をつないでゴールしている少々癇に障る写真もあったが、ミスコンの司会を務めている亜美の写真もあった。しかも、亜美の写真は、下乳がばっちり写っている。
「実乃梨ちゃんのとの写真は粗末にしてもいいけど、あたしの写真は大事になさい」
わざと怒ったような口調で呟いた。でも、竜児が自分の写真を持っていたというのは、まんざら悪い気はしない。
「あれ?」
写真に紛れてノートの切れ端のような紙切れも出てきた。二つ折りにされ、いくぶんシワが目立つそれは、何てことはない紙屑のようだった。だが、わざわざ卒業アルバムに挟んでまで取っておかれていることが気になり、亜美はその紙切れを広げた。
「何これ?」
そこに書かれていた内容を目の当たりにして、亜美の表情がこわばった。
何しろ、そのメモのような紙切れには、以下のような文言が記されていたのだ。
『コラたかすくん! みのりは怒っているよ! たいがに聞いたけど、たかすくんは転校生ちゃんとなにやらアヤシイらしいね!? 前に屋上で言ったはずだよ、もしたいがを捨てたらそのときは…おしおきだべ〜』とあって、文末には稚拙なドクロのマークが付してあった。
「転校生ちゃん、ていうのはあたしのこと?」
文面は、大河を気遣うものらしいが、『転校生ちゃん』を邪魔な異物扱いにしているようで、何だか気に障る。亜美にとって実乃梨は当初から苦手な存在だったが、実乃梨も亜美のことをあまり好意的には思っていなかったようだ。
「やっぱ、むかつく女だわ、あいつは…」
後半部分も、亜美の神経を逆撫でするには十分過ぎる内容だった。
『いちおういっておくけどね、あの転校生ちゃんはたしかにとってもかわいこちゃんだ。でもねえ、完璧っていうのは、おもしろくないんだぜ? その証拠に、いつもは貪欲なみのりんレーダー(かわいこちゃん捕捉用触手)が、今回はビタいち反応しないぜよ』
「失礼ねぇ、何なのよぉ、これぇ!!」
完璧っていうのはおもしろくないとか、かわいこちゃん捕捉用のみのりんレーダーに反応しないとか、いくら当人が読まないことが前提とはいえ、結構な言い草ではないか。
実乃梨も実乃梨だが、こんなメモを後生大事に保存していた竜児も竜児だ、と亜美は憤慨した。
「こんなメモなんか!!」
くしゃくしゃにして、踏みにじり、ビリビリに破り捨ててやろうかと思ったが、思いとどまった。
竜児のいない場でこの業腹なメモを処分するよりも、これをネタに竜児を追及する方が性悪チワワの冥利に尽きる。
亜美は、ちゃぶ台に散らばった写真を卒業アルバムに元通りに挟むと、本棚に仕舞った。手元に残るのは、あのメモだ。
「おぅ、待たせたな」
竜児が紅茶を淹れたポットと二組のティーカップを盆に載せて戻ってきた。
「川嶋の口に合えばいいんだが…、人工的に香り付けをしていないにもかかわらず、不思議と清涼感がある。
すごく頭がすっきりする香りなんだが、人によっては膏薬みたいに感じられることもあるらしいから、もし不味いと思ったら正直に言ってくれ。ダージリンとかの無難な茶葉に変えるから」
例によって解説口調でポットに淹れた紅茶をカップに注いでいく。ポットもカップも、白い磁器のようだが、
僅かにクリーム色を帯びた暖かな感じがする。おそらくはボーン・チャイナなのだろう。
湯気とともに紅茶の香りが漂った。なるほど、竜児の言う通り、清涼感のある香りだ。膏薬というよりも、森の若葉を思わせる清々しい感じがする。
「いい匂いね。あたし、この手の香りは好きだわ…」
「そうか、でも、最終的な判断は、実際に飲んでからにした方がよくないか?」
「そうね…」
竜児をとっちめるのも、このおいしそうな紅茶を飲み終えてからでいい。亜美は、カップに口をつけた。
ストレート・ティーが一番だ、という竜児の勧め通りに砂糖もミルクも入れないで飲んでみた。たしかに際立った清涼感があり、そうした補助的な味付けを要しない。むしろ、下手に何かを入れたら、全てが台無しになってしまうだろう。
「どうだ、川嶋の口に合いそうか?」
「うん、おいしい…」
「そうか、よかった…」
亜美の言葉に嬉しそうに頷く竜児を見ていると、この男は、邪気と呼べるようなものとは本当に無縁なんだな、と亜美は今さらながらに思う。
その罪のない笑顔を見ていると、メモの件を追及する気が失せてしまいそうだ。香り高い紅茶にも、心を穏やかに和ませる作用があるのかもしれない。
−−でも、けじめはつけさせてもらおうかしら…。
この男に邪気はない。ただ、恋愛がらみになると致命的と言えるほどに迂闊で鈍感なのが問題なのだ。
「おいしかったぁ…」
亜美は紅茶を飲み終えて、カップをソーサーに戻した。
「おぅ、香りが際だっているお茶は他にもアールグレイとかがあるが、あれは人工的に着香したものだから個人的には好みじゃねぇな。何か、香りがわざとらしい。その点、こいつは、着香していない素のままで、茶葉本来の香りがする」
「そうね…」
亜美は、目を細めて、含みのありそうな笑みを浮かべた。
「いかにも高須くんが好みそうな感じのお茶だよね。万事がきちんとした清廉な高須くんみたいな感じ、かな?」
「よせやい、万事がきちんとしているわけじゃねぇし、清廉でもねぇよ、この俺は」
亜美が無条件で礼賛していると勘違いしているのだろう。竜児は、ちょっと恥ずかしそうに鼻の頭を軽く掻いている。
その、ある意味、自意識過剰とも受け取れそうな竜児の態度が、竜児に対する亜美の加虐趣味を刺激した。
「そうよね、さしもの高須くんも、叩けば埃が出てくるかも知れないわね。いろいろと…。例えば、こんなのとかは、どうかしら?」
隠し持っていた例のメモをちゃぶ台の上に広げた。
竜児はそれを見て、「何だ、こりゃ…」と言いかけたが、そのメモが何であるかを知ると、「うわっ!」と叫び、それを引ったくろうと手を伸ばした。
「だめよ!」
亜美の手の方が一瞬だけ早く動き、メモをちゃぶ台から回収していた。
亜美は、それを手早く折り畳み、それをブラウスの前立てから胸の谷間に滑り込ませた。こうすれば、竜児にメモを簡単に奪われることはない。あの櫛枝実乃梨の直筆メモが肌に直接触れているというのは、正直ちょっと気持ち悪いが…。
「か、川嶋、そのメモだけど、読んだのか?」
「読んだわよ、当然でしょ。結構、面白いことが書いてあるじゃない。何だか、亜美ちゃんのことを色々と貶してくれているように思えるんですけどぉ〜」
「あう…」
「これって、授業中にやりとりしていたメモでしょ? 単なる一過性の情報じゃない。その場限りで後は捨ててしまって構わないような…。なのに、どうして卒業アルバムに挟んでまで保存しておくのかしら?」
うふふ、と意地悪く笑っている亜美の顔を見ることができず、竜児は正座した膝の上に両手を突いてうつむ
いた。額から脂汗がにじんでくる。
「そ、それは…」
「あたしを小馬鹿にした文章が書いてあるけど、要は単なるノートの切れ端よね? この機会に捨てちゃった方が、高須くんもすっきりするんじゃなぁ〜い?」
「ううう…」
竜児が捨てるに捨てられない理由は亜美にも分かっている。好きだった実乃梨から初めて貰った手紙なのだろう。振られたとはいえ、それを残しておきたいという気持ちは分かる。亜美が竜児と同じような立場だったら、おそらくは同じようにするだろう。そうなると、昨日は竜児の携帯電話から実乃梨の写真を消去させたのは、少々やりすぎだったかも知れない。
「どう? 返事がない場合は、高須くんも知っている『黙示の同意』ってことで、捨てても構わないって判断するけど、それで文句はないわね?」
内心では、昨日のやりとりはやり過ぎだったと思っても、意地悪くニヤリと口元を歪め、目を細めて観察するように竜児を見る。追い詰められた竜児の姿もまた、亜美にとってはそそられるのだ。
「どうなの?」
これが最後通牒のつもりで亜美は竜児に念押しした。返事がなければ破り捨てるまでだ。逆に『捨てないで
くれ』と懇願されたら、その時はその時、策はある。
「…す、捨てないでくれ…」
「ふ〜ん、そう。亜美ちゃんの陰口をしたためた紙切れが、高須くんは、亜美ちゃんよりも大切なんだぁ〜」
さりげなく『亜美ちゃんよりも大切なんだぁ〜』という文言を盛り込んで竜児に揺さぶりをかける。詭弁めいていて、我ながら意地の悪い物言いだと亜美は思った。
「そんなこたぁねえよ…」
正座してうつむいたままの竜児が、か細い声で力なく呟いた。
「そう? 高須くんは、こんな紙切れにご執心なのよね。亜美ちゃんよりも、ね?」
膝の上に置かれた竜児の手が握られたのが見て取れた。
「お、俺は、川嶋が今は誰よりも大切なんだ…。だけど、過去の思い出も捨てがたい。過去は過去、今は今じゃねぇか。た、たのむ、そのメモは返してくれ」
竜児は亜美に向かって土下座した。
亜美はそんな竜児を目を細めて冷やかに見下ろす。こんな紙切れのために土下座までする無様な竜児がちょっと許せなくなった。それに、『俺は、川嶋が今は誰よりも大切なんだ』と言うのなら、それを証明して貰いたい。
「いいわ、返してあげる。その代わり、亜美ちゃんの指示に従ってもらうけど、文句はないわね?」
「お、おう…」
不安気に顔を上げた竜児に見せつけるように、亜美は左手をブラウスの前立てに突っ込んで、例のメモをさらに奥の方へと押し込んだ。メモは右の乳房の下の方でブラジャーに挟まれている。
「メモはここよ。亜美ちゃんのおっぱいの中。もうブラジャーを脱がさないと取れないくらい奥の方に押し込んであるわ…」
「か、川嶋、何のつもりだ…」
額に脂汗をにじませて、竜児が固唾を飲み込んだ。
「決まってるじゃない、高須くんがあたしのブラを脱がせてメモを取り出すの。大切なメモが取り戻せて、高須くんが誰よりも大切に思っている亜美ちゃんのおっぱいを直に見ることができる。何なら、そのおっぱいを高須くんが好きにして構わない…。どう? 願っても無いことでしょ?」
「う、うう…」
脂汗を垂らしながら苦しげに唸っている竜児を亜美は冷やかに睨め付けた。根性がないのにも程がある。このままでは、何時間でも正座したまま呻吟していることだろう。
「埒が明かないわね…。じゃあ、高須くん、あたしの指示する通りにやりなさい。少しでも逆らったら、メモは渡さない。いいわね?」
竜児からの返答はない。それでもお構いなしに、亜美は正座している竜児ににじり寄り、白い頬を竜児の顔に近づけた。
そして、ハンカチで、浮き出ている竜児の脂汗を拭ってやる。
「まずはキスよ。それも今までにないくらい官能的でディープな奴…」
竜児からの返答を待たずに、亜美はバラ色の口唇を竜児のそれに密着させ、竜児の口唇と口蓋をこじ開ける
ようにして、舌を竜児の口腔に差し込んだ。入れ替わりに竜児の舌も亜美の口腔に侵入してくる。
二人の舌が艶かしく絡み合い、蠢いて、互いの頬の内側や上顎の粘膜を刺激する。
「う、うう〜ん…」
呼吸もままならない状態で、亜美は竜児とのキスに酔い痴れる。
−−悔しいけど、気持ちいい…。
身体中の体液が逆流し、全身の性感帯がさらなる刺激を求めてざわめいているかのようだった。乳首やクリトリスが固く、痛々しいほどに勃起してくる。
性愛にはものすごく疎いくせに、何でこんなにも竜児はキスが官能的なのだろう。快楽に陶然としながら亜美はとりとめのないことを考える。
どれぐらい口唇を重ねていただろうか。亜美は、呼吸を整えるつもりでキスを中断した。
口唇から糸のように垂れてくる唾液を手の甲で拭う。
そして、膝を崩して座ったまま両手を後ろ手にし、竜児に向けて乳房を突き出すつもりで、上体を反らした。
「さぁ、これからが肝心よ。あたしのブラウスを脱がして…」
「お、おう…」
竜児の震える指が亜美の胸元のボタンを一つ一つ外していく。緊張した竜児の鼓動までが聞こえてきそうだ。
だが、それは亜美とて変わらない。隆起した乳房の下で、亜美の心臓もまた、どくどくと激しく脈打っているのだ。
ボタンが全て外され、ブラウスの前がはだけられた。
亜美のミルク色とも表現すべき柔肌が竜児の前に晒される。
「か、川嶋、ボタンは外した。つ、次は、どうすればいい?」
「脱がしてって言ったでしょ? ボタンを外すだけじゃなくて、そのブラウスを、あたしの身体から完全に取り去るの!」
「わ、分かった…」
竜児が、ぎこちない手つきで、亜美のブラウスの前立てを左右に広げていく。亜美の白い肩が露になり、半袖のブラウスは、後ろ手になっている亜美の両腕を滑り落ちた。
亜美は、掌を一旦は畳から離し、手首の辺りにまとわりついているブラウスを抜き取り、それを、そのまま
脇に押しやった。そして、また先ほどと同じように後ろ手にして乳房を竜児の目の前に突き出した。
その一連の動作で、白いブラジャーに包まれた亜美の乳房が妖しく揺れる。
乳房やミルク色の肌に竜児の視線を感じ、亜美は陶然となる。竜児に自分の半裸を見られているというだけ
で、羞恥心よりも喜びで胸が高鳴ってくるのだ。
「か、川嶋、次は、ブ、ブラを外すんだよな?」
背中のホックを外すために伸びてきた竜児の腕を、亜美は身をよじって避けた。ホックを外されたら、簡単にメモを取り出されてしまう。それでは面白くない。
「背中のホックは未だいいわ…。それよりも、肩のストラップを外してちょうだい」
「お、おう…」
竜児は、ストラップに指を掛け、慎重にそれを亜美の肩から外していく。竜児の、長く繊細でひんやりとした指先がほてった肌に心地よい。
「いいわ…、そのままブラを上の方から、乳首が出るまでめくって…。乳首が出るまでで、いいから…」
いよいよだ、と亜美は思った。
竜児は、『乳首が出るまで』と言われたことで一瞬躊躇したかに見えたが、亜美のブラジャーのストラップの付け根あたりを、震える指でそろそろと引っ張った。
勃起した乳首がブラの布地に引っ掛かる。
「うっ!」
膨れ上がった乳首に刺激を感じ、亜美は息を飲んだ。
「川嶋! 大丈夫か?」
「あ、あたしだったら大丈夫…。続けてちょうだい。ちょっと、気持ちよくて声が出ちゃっただけ…」
亜美は、仰け反ったまま首を左右に振った。
竜児は、引っ掛かっていた部分を指先でつまみ上げ、そのままゆっくりと下に引っ張って、亜美の乳首を露にした。
桜色にほんの少し褐色を帯びた乳首が、大きめの乳輪共々ぷっくりと膨れて自己主張している。
「か、川嶋、綺麗だ…。すごく綺麗だよ…」
「うん…」
亜美は半ば恍惚として竜児に頷いた。
「ねぇ、高須くん、亜美ちゃんの首筋からキスをして、そ、そして…」
興奮して呂律が怪しくなりそうだったので、一呼吸置いた。
「す、吸って…、あ、亜美ちゃんのおっぱい、高須くんに吸ってほしい…。あ、あたしのことを誰よりも大切に思うのなら、亜美ちゃんのおっぱいを好きにしていいよ…」
仰け反っていた亜美の上体が竜児の腕で抱き止められた。竜児のやわらかな口唇が、亜美の首筋から胸元へとトレースされていく。
「あああっ…」
右の乳首に口づけされた。ずきん、と疼くような快感がほとばしる。
「吸って、そのまま吸ってぇ!」
乳輪を含めた部分がすっぽりと竜児の口唇に捉えられ、そのまま吸引された。ただでさえ勃起して充血している乳首に、その吸引が刺激となって、さらに多くの血液が送り込まれるような気がした。
−−気持ちいい…。き、気持ちよすぎるよぅ…。
左の乳首も腫れ上がったかのように固く大きく膨れている。
その左の乳首を亜美は指先でつまんでみた。刹那、電撃のような快感が襲い、全身を駆け巡った。
クリトリスがさらに固く勃起し、膣からは淫靡な粘液が溢れ出る。
「た、高須くぅん、み、右だけじゃなくて、ひ、左もぉ…。そ、それと、ごく軽くでいいから、ち、乳首を、か、噛んで…」
それに応えるように、竜児の前歯が固く膨らんだ左の乳輪と乳首に当てられた。
「あ、くぅ〜っ!」
亜美にとって空前の快楽だった。自慰ではこれほどの疼きにも似た快感を味わったことはない。
「だ、大丈夫か? 川嶋、痛かったらすまねぇ」
亜美が痛がっているものと勘違いした竜児が、乳首への口づけを中断した。
「う、ううん、つ、続けてちょうだい。すっごく気持ちいい…」
再び、亜美の乳首が竜児の唇と舌と前歯で翻弄される。乳首が吸われ、舌先で弄ばれ、前歯で軽く噛まれる度に、快楽が亜美の全身を駆け巡っていく。
「ねぇ、た、高須くぅん、ほ、本当は、け、経験あるんでしょ?」
あまりに刺激的な竜児の愛撫に身を委ねながら、まさか実乃梨と何かやっていたのではあるまいか、とさえ亜美には思えた。
「ねぇよ、赤ん坊の時、泰子の乳を飲んで以来のことだよ、女の乳房を吸うなんてのは…」
亜美は、「嘘っ!」と言いかけたが、その瞬間に、竜児が今度は右の乳首を軽く噛み、舌先で転がしたことによる雷撃のような快感で、「うっ!」と絶句した。
その快楽に連動して、クリトリスをはじめとする陰部がズキズキと疼くように火照ってくる。
亜美はスカートの中に左手を突っ込み、ショーツのクロッチの脇から人差し指と親指を差し入れた。股間は既にぐっしょりで、クリトリスはパンパンに腫れ上がっていた。
そのクリトリスを指先でつまみ上げるようにして刺激する。
「あ、あああっ…」
もはや意識を失う寸前の快楽に全身が支配されかかっていた。竜児の乳首への愛撫が巧み過ぎる。
亜美は、親指の腹でクリトリスをこね回すように刺激しながら、人差し指を膣に挿入した。膣に何かを入れるのはこれが初めてだった。正直、ちょっと怖かったが、今はさらなる快楽への欲求が何にも増して支配的だった。
指先に粘膜の襞のような処女膜を感じた。慎重に、その真ん中にあるはずの開口部を探り当て、そこに人差し指を押し込んでいく。
膣内は筋肉と粘膜の襞が、挿入された指を舐め回すかのように妖しく蠢いていた。
さらに奥へと進んだ亜美の指先がおちょぼ口のような突起に触れた。
「ああ…、し、子宮の入り口…」
その呟きは竜児の耳には届かなかったようだ。竜児もまた、亜美の乳房を夢中になって吸い、舐め回していた。
亜美は、子宮口を愛おしげに指先で撫で回した。いずれ、亜美も子を宿す時が来るだろう。何なら、それが今日であっても構わない…。
亜美の親指が包皮が剥けてむき出しのクリトリスに触れた。痛みにも似た違和感を感じたが、指先の動きは止まらなかった。
「あうっ!」
痛みと紙一重の激しい快感が炸裂し、人差し指をくわえ込んだ膣が収縮しながら粘液を溢れんばかりに分泌した。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ〜っ!!」
そのまま亜美は感電したかのように、背中を海老反らせて全身を痙攣させた。
「か、川嶋! 大丈夫か?」
気遣う竜児をよそに、亜美は全身の痙攣が治まると虚ろな笑みを天井に向けて呟いた。
「いっちゃった…」
そのまま横たわり、ふぅふぅ…、と切なげに呼吸を整えながら、膣から左人差し指をゆっくりと引き抜いた。
「ぬぁ…」
ぬぽっ、という粘っこい音が微かに聞こえ、膣内を指が擦過する新鮮な刺激が亜美の身体を震わせた。
「か、川嶋、今、拭いてやるからな…」
快楽にあてられて、ぐったりとしている亜美の、顔や胸、そして先ほどまで膣内に挿入されていた左手の指を手近にあったタオルで拭ってやる。
「高須くん…」
心配そうに覗き込む竜児のことがたまらなく愛おしくなり、両手を伸ばし、その腕を竜児の首筋に絡ませた。
「ありがとう…、高須くんが、あたしのことを誰よりも大事にしてくる、それが本当のような気がしてきた…」
「川嶋…」
亜美は、左手をブラジャーと右の乳房に間に滑り込ませ、細かく折りたたまれた紙片を取り出した。
「だから、これは返す…。高須くんの言う通り。過去は過去、今は今なんだわ…。あたしの過去に高須くんが干渉できないように、あたしも高須くんの過去に干渉することは許されない…」
その紙片を竜児の手に握らせた。
「川嶋、すまねぇ、お前にとって愉快とは言えないことが書いてあるのに…」
「いいんだよ…、あたしが勝手に高須くんの本棚から引っ張り出してきたのが、そもそもの間違いだった…。
その上、過去と現在とを混同して嫉妬したのはあたし…。高須くんは悪くないよ」
亜美は淡い笑みを浮かべていたのだろう。心配そうに覗き込んでいた竜児もまた、安堵したように微笑んだ。
「そう、過去は過去…、あたしたちは二人で新たな歴史を作っていくことになるんだわ…」
「あ、ああ…?」
亜美の真意が理解できていないのだろう。竜児は、怪訝そうに頷き返した。
「だから、続きをしましょう。高須くんはあたしのおっぱいを啜るだけじゃなくて、あたしの全てを感じて欲しい…。あたしも全てを高須くんに捧げるから、あたしも高須くんの全てを感じたいの」
そう言うなり、竜児の首筋に絡めていた腕を引き寄せるようにして、亜美は竜児に抱きついた。
半ば剥き出しの亜美の胸が竜児の胸に密着し、その鼓動を竜児に伝える。亜美もまた竜児の力強い鼓動を感じた。
「あったかい…。高須くんの身体、すごくあったかいよ…」
「川嶋…」
竜児が華奢な亜美の身体を抱きしめてきた。その抱擁に、亜美は感極まって涙する。
「あたし、本当に嬉しいよ。いよいよ高須くんと一つになれるんだ…」
「俺もだ、川嶋とこうなることを、心の底では望んでいたんだ…」
亜美は、左手で竜児の右手を掴むと、それをスカートの中に誘おうとした。一瞬、竜児は抵抗するように右手を硬直させたが、亜美が竜児の耳元で「お願い…」と甘く囁くと、呪縛が解けたかのように、素直に亜美が導くまま、そのスカートの中に己の右手を差し入れた。
竜児の指がショーツの布地越しに亜美のクリトリスや陰裂の上を這う。
「き、気持ちいい…。自分でいじるよりか、何倍も気持ちいいよぉ」
しぼみかけていたクリトリスが再び固く張りつめ、膣からは熱い粘液がじくじくと溢れてくる。
亜美は竜児の股間に手を伸ばし、グレーのチノクロスを突き上げている陰茎を、布地と一緒に包み込むように優しくなで回した。
「か、川嶋、そ、その手つき、い、いやらしいぞ…」
「高須くんの指だって、亜美ちゃんのあそこを、いやらしく弄くり回してるじゃない…。そ、それに高須くんは、亜美ちゃんのあそこを薄いショーツ越しに弄っているけど、亜美ちゃんは、厚い布地の上から高須くんのおちんちんを触っているんだよ、ずるくない?」
「あ、こ、こら、川嶋…」
竜児は、喘ぎながら亜美に抗議したが、竜児の股間に添えられた亜美の手は、手探りで竜児のチノパンのジッパーを押し下げ、ブリーフを剥いて、雄々しく隆起した陰茎を露わにした。
亜美の細長い指が、剥き出しになった亀頭を捉える。
「高須くんのおちんちん、想像してたよりも太くておっきいぃ〜。それに、固くて、熱くて、びくびくしてるのぉ」
こんなに太くて大きいのが入るだろうか、と不安にはなったが、竜児と一つになりたいという不退転の決意を思い出し、不安な気持ちを振り払った。
「お返しだ!!」
竜児の指がショーツの内側に入り込み、亜美のクリトリスを直につまんだ。
「は、はうっ! そ、そこは…」
さらに竜児の指は、亜美の尿道口と膣口を探り当て、そこを弄ぶ。本当に経験がないのかと訝るほど、竜児の愛撫は巧みだった。亜美の歓喜に打ち震えるツボを既に心得ているかのようだ。
膣口をまさぐっていた竜児の指が、ほんの少しだけ膣内に入り込み、さらに奥まで入っていきそうな感触に、亜美ははっとした。
「だめぇ!」
竜児の指が膣に入ったら、またオルガスムスに達してしまう。
前菜でお腹一杯になりたくなかったから、自身の陰部を掌で覆うようにして、竜児の愛撫を中断させた。
「川嶋、どうしたんだよ…」
愛撫を打ち切られて不満げな竜児に、亜美は詫びた。
「ごめんなさい…、これ以上、高須くんに弄られたら、亜美ちゃん、またいっちゃう…。二度もこんなに気
持ちよくなっちゃったら、高須くんと本物のエッチをする元気がなくなっちゃう…」
亜美は、ちょっと呼吸を整えるつもりで、言葉を切った。しかし、その間も繊細な指先で竜児の亀頭を、さわさわ、となで回し続けているのだが…。
「川嶋、ずるいぞ。俺にはお前のあそこを弄らせないくせに、お前は、さっきからずっと俺のを弄り倒してるじゃねぇか…」
「ふふふ…、高須くんのおちんちんは、もう、亜美ちゃん専用なんだからね。で、このおちんちんを、亜美ちゃんのあそこに入れるのぉ」
亜美は、竜児を上にしたまま、スカートに手を突っ込んで、ぐしょぐしょに濡れたショーツを脱ぎ捨てた。
「高須くん、裸になろう…、二人とも生まれたままの姿になって…。そして、一つになろう…。あたしは、高須くんのものだから、亜美ちゃんの身体の中に高須くんの精液をいっぱい、い〜っぱい注ぎ込んでよ」
「川嶋、そんなことしたら、妊娠しちまうかもしれねぇ…。せめてコンドームくらいは着けた方がよかぁねぇか?」
いい雰囲気の時に、何て無粋な、と亜美はむっとした。
「買い置きとかあるの?」
「いや…。そもそもエッチ未経験の俺がそんなもん常備しているわけがねぇ」
亜美は、不満げに頬を膨らませた。せっかくいい雰囲気になったのに、ここでコンドームを買いに行くことを理由に中断されたら、結局、エッチできずに有耶無耶で終わってしまうだろう。それに…。
「高須くんと初めてのエッチなんだよ、高須くんのおちんちんがゴムで絶縁されているなんて、亜美ちゃん許せない。それは高須くんだって、そうでしょ?」
「そ、そりゃ、そうかもしんねぇけどよ…」
竜児の表情が不安げだ。亜美は、そんな竜児に気遣いはさせないつもりで、淡い笑みを浮かべた。
「あたしのことなら、気にしなくていいんだよ。なんなら妊娠したって構わない。それどころか、高須くんの赤ちゃんを孕みたい、高須くんの赤ちゃんなら生みたい、何でだろう、今は無性にそう思う…」
「か、川嶋、もう安全日じゃなかったのか?!」
「う〜ん、この前の日曜日あたりは絶対に大丈夫ぽかったけど、今日は、微妙かなぁ…。でも、さあ、女の排卵日なんて、はっきりしないから、気にしたって仕方がないよ」
だが、竜児は、亜美の言葉に怯えるように青ざめ、頬を引きつらせ、次いで、生気を失ってうなだれた。
「川嶋、すまねぇ、俺は川嶋を妊娠させたくない。だから、妊娠の危険がありそうな時に、何の避妊具も使わねぇで、お前とエッチすることはできねぇ…」
「ちょっと、どうしてよぅ! 亜美ちゃんと一つになるんでしょ? それが何で今になって…」
亜美は狼狽した。捨て身で竜児にぶつかったのに、ここまで来てそれはあんまりだった。
亜美は竜児の首に縋り、その首筋に白い頬を擦り付けた。今、ここで竜児を手放したら、再び、実乃梨に心を奪われてしまうのではないか、という根拠のない不安すら湧き起こってくる。
そんな亜美に竜児は、厳かな口調で告げた。
「泰子…、お前を泰子みたいな目には遭わせたくないからだ…」
亜美は、はっとして竜児を見た。
「泰子は、十代で俺を生んで、本当に苦労の連続で、ここまでやって来たんだ。十代の女が出産して、その後、生活していくっていうのがどれだけ大変か、俺はいやと言うほど見てきた。だから、男は無責任に女を孕ませちゃいけねぇ…。俺の父親のように、泰子一人に苦労を押し付けるような最低な真似だけは絶対にし
ちゃいけねぇ…」
「で、でも、亜美ちゃんは…」
竜児は、それには応えず、はだけていた亜美のブラジャーを元通りにし、そのストラップを亜美の肩に掛けた。そして、部屋の隅の方に脱ぎ捨てられていた亜美のブラウスを着せてやった。
「お前は、孕まされた女の悲惨さを分かってねぇ…。そんな悲惨な被害者は泰子くらいで十分だ。ましてや、俺を加害者にしないでくれ…」
「加害者だなんて、大げさ過ぎるよ。たかが男女の自然な営みじゃないのぉ」
「川嶋、お前は妊娠することを軽く考えすぎちゃいねぇか? 気ぃ悪くしたら済まねぇけどよ、お前は、母親に逆らって、役者にならずに今の大学に入ったんだよな? すでに親の心証を相当悪くしている。その上、子供なんか身ごもったら、今渡こそ本当に勘当されちまうだろう」
「でも、それだったら、大学は休学して、あたし泰子さんみたいに頑張るから」
竜児の表情が険しく引き締まった。
「お前に泰子の何が分かる? 息子の俺が言うのも何だが、あいつの苦労は生半可なもんじゃねぇ。それにお前が泰子のような生き方をするってぇのは、大学の卒業も下手したら諦め、弁理士になる夢も捨てなきゃならねぇ…。代償があまりに大きすぎる」
「う、うん…、で、でも…」
竜児が、怒ったような、それでいて悲しそうな目で亜美を見ている。その視線の無言の圧力に、亜美は言いかけた言葉を飲み込んで、うなだれた。不満ではあったが、竜児の言うことは正しいのだ。
「それに、『愛された証』だとかって、孕んだ子供のことを思わない方がいい。無責任な男は、女の都合なんてお構いなしさ。俺の父親がいい例だ。生きてるのか死んでるのかすら分からない。大体が、後先を考えずに女を孕ませるような奴はダメなんだ。俺も危うく、そんなダメな奴に成り下がるところだったよ…」
竜児は、タンスからユニセックスのショーツを選ぶと、亜美に手渡した。
「俺の下着だけど、いやじゃなかったら使ってくれ。一応は女性が使ってもおかしくないようなデザインになっている。何せ、お前のショーツは、ぐしょぐしょだからな。とても穿けたもんじゃねぇ…」
亜美は手渡された竜児のショーツをおずおずと穿いた。
敗北感のような、何かに打ちひしがれた思いがする。
「そうね…、高須くんの言う通りなんだろうと思う。正気に戻った高須くんの判断に誤りはない…。今日のところは、あたしの方が明かにやり過ぎ。だから、もう帰るわ」
亜美はバッグを持って、玄関に向かった。竜児が亜美の後を追うようについてくる。
玄関の土間で靴を履いた亜美は、竜児に向き直った。
「ここで、いいわ…」
「川嶋…、あのよ、さっきの言い方はちょっときつかったな、その点は許してくれ…」
亜美は、竜児に対して首を左右に振って応えた。
「ううん、高須くんの言うことの方が正しいの。自分の考えが浅はかだった…。その点は反省しなきゃいけない。でも…」
「でも?」
「据え膳を食べて貰えなかったっていうのは、女にとって屈辱なの。その点は分かってちょうだい」
口調は穏やかだったが、捨て台詞のつもりだった。
意識して、できるだけ丁寧にドアを閉めるようにした。そうでないと、心の動揺を竜児に見透かされてしまう。
悔しくて寂しくて悲しくて情けなくて、その場に座り込んで泣きじゃくりたくなるのを懸命に堪えながら、鉄製の階段を、手すりに縋って、よろよろと降りた。
足を引きずるようにして門を出て、暗い路地に差しかかった時、不意に涙が溢れてきて、それが頬を伝って流れ落ちた。
−−泣くもんか!
そう思えば思うほど、涙が止まらなくなってくる。
亜美は、その涙を拭おうともせず、おぼつかない足取りで彷徨うように家路につくのだった。
明けて木曜日。
例によって学食での丸テーブルを囲んでの昼食時。竜児と亜美は、実に気まずそうに黙々と同じおかずの弁当を突いている。
「あ、あのねぇ…」
沈黙の重圧に耐えられず、亜美が口火を切った。しかし、差し向かいで席についている竜児と目が合ったとたん、目を伏せ、首をすくめてうつむいた。
竜児も竜児で、その眼差しや物腰には、亜美に対する後ろめたさのようなものがあるのか、無駄に周囲を威圧するはずの三白眼が精彩を欠いている。
精彩を欠くのは亜美も同様だ。
昨日は、竜児に拒絶されたと思い込み、家に帰るなり、着の身着のままで布団に突っ伏して泣いた。ひとしきり泣いて落ち着くと、今度はシングルマザーの子である竜児の心証を害したことに気付き、また泣いた。
そのまま泣き疲れて眠りに落ちたせいで、寝起きの顔はひどいものだった。
泣きはらしたせいで、まぶたは腫れ上がり、目の下には大きなクマまでできていた。洗顔で腫れ上がった肌を引き締め、ヒアルロン酸等が含まれた基礎化粧品でケアしたが、所詮は姑息な処置に過ぎない。げっそりとやつれた顔は手の施しようがなかった。
亜美は上目遣いで竜児を一瞥した。昨日のことを竜児自身がどう思っているのかが気になるのだ。
まずいことに、昨日は、濡れたショーツを竜児の家で脱いで、そのまま忘れてきてしまっている。それがどうなったのかを訊く勇気もない。
竜児のことだろうから、その日のうちに洗ったのであろうが…。
代わりに亜美が借りた竜児の下着は、未だ洗わずにそのままだ。こういうすぼらなところも恥ずかしい。
憂鬱そうに目を伏せて、亜美は切干大根の煮物を口に運んだ。
上品な薄味で美味しい。塩分が控えめだから健康にもいいはずだ。亜美も真似はしてみるのだが、こうした
微妙な味わいまでは再現できない。
それにしても、昨日のようなことがあっても、律儀に弁当を作ってくる竜児には恐れ入る。
とにかく、エッチ関連の話は、しばらくは御法度だろう。
料理や、弁理士試験等の当たり障りのないことを話して、徐々に関係修復を図っていくのがいいかもしれない、と、亜美は、うつむいて、もぐもぐと口を動かしながら考えた。
であれば、沈黙は銀、雄弁こそが金であるはずだ。お互いにだんまりでは埒が明かない。
亜美は再び口火を切った。
「あ、あのさぁ…、昨日は、何か、色々あったけどぉ、あ、明日のこと、ほ、ほら、弁理士試験のサークルのこと、あ、あれについて、もうちょっと話を詰めないかなぁ〜、とか…」
言いながら顔面が引きつっていることが分かる。モデル時代に慣らした『ウソのツラ』は竜児には全く通用しないから、実にやりにくい。
「お、おぅ、その話か…、そうだなぁ、まぁ、お、俺も法律の勉強を始めるのはこれが最初だから、実はど
んな本を買うべきなのかすら怪しくてな。その辺を含めて、法学部である川嶋の話は助かるよ」
無理に笑っているような、ぎこちない感じは否定できなかったが、竜児の反応は悪くない。意外に、昨夜のことは気にしていないのかも知れない。亜美は、ちょっとだけ安堵した。
もっとも、気にしなさ過ぎるというのであれば、それはそれで問題なのだが…。
「条文集は買った?」
「ああ、発明協会が発行している奴でよかったんだっけ?」
「そう、ひとまずはそれでいいわ。あとは、青本とかは?」
青本とは、特許庁が編集している『工業所有権法逐条解説』の俗称である。箱が浅葱色のような緑を帯びた
淡い青色をしているので、こう呼ばれている。特許法、実用新案法、意匠法それに商標法を中心とした法律を解説したもので、『弁理士のバイブル』とも言える存在だ。
「買ったよ、最新の第17版。下手な電話帳よりも分厚いな。しかも、書いてある内容がちんぷんかんぷんだ。先が思いやられるぜ」
「青本の内容は弁理士試験に必ず出るから、条文と青本をしっかり読んでおくことが合格する上では重要だって、この前インターネットで見た合格体験記にも書いてあったでしょ? イヤでも避けて通れないわよ」
亜美は、ちょっと意地悪そうに「うふふ…」と、笑った。
法学では亜美に一日の長がある。勉強では敵わない竜児に、初めて一矢を報いることができるかもしれないのだ。
「その青本には、『公信力』とか、『用益物権』とか、得体の知れない言葉があるけど、これ自体については青本は何も解説してねぇ…。これって、民法とかで出てくる項目だろ? それを分かっていることが前提
だとしたら、実際には、青本に書かれている以上のことを憶えて理解しなくちゃいけないってことだよな?」
「ふふ、そうね…、特許法とかは民法の特則みたいなところもあるから、民法をちょっと知っておくと有利かも知れないわね。でも、弁理士試験で主に訊かれるのは特許法や意匠法、商標法とかだから、民法や民事訴訟法は、特許法とかに関連がある事項だけを理解できればいいんじゃないかしら…」
たしか竜児は、青本を買って間もないはずだ。にもかかわらず、特許法と民法の関係に薄々気付くとは、大したものだな、と亜美は感心する。
「川嶋は、民法とかも大学の講義でかなり習っているんだろ? 青本を読んで分からないところは、川嶋に訊けばいいんだよな?」
「ええ、あたしが分かる範囲であれば、高須くんの質問に喜んで答えさせていただくわ。ただし、高須くんが、例の誓いを忘れずに、亜美ちゃんに永遠の愛を誓うっていう条件付きでね」
と言って、竜児にウインクする。後段の台詞は、昨日のことがあった後ではどうかな? と正直思ったが、「お、おう…」と、ちょっと嬉しそうに頬を赤らめている竜児の反応を見る限り、許容範囲だ。
一緒に大学入試の受験勉強をしていた時もそうだったが、竜児と勉強についてあれこれと話すのは、本当に楽しい。
竜児とキスし、抱き合っている瞬間も喜びだが、性愛抜きで勉学について話し合っているだけでも、十分に幸福だと思えるのだ。
二人揃って弁理士になれたら、法解釈について論じ合うのが日常生活の一部になることだろう。時には相互に助言し合い、時には論争めいたやり取りがあるかもしれない。
いずれにしても、結婚して、単に家庭を持つということにとどまらない、別個の次元での二人の生活があるに違いない。もしかしたら、亜美が求めている幸福とは、竜児との性愛だけではなく、竜児と共同で何かを成し遂げることなのかもしれない。
「訊きたいことは色々あるけど、もうそろそろ昼休みが終わっちまう」
亜美も腕時計を確認した。あと五分で予鈴が鳴ることだろう。次の講義は、『ソクラテス方式』で恐れられているフランス語だ。
「続きは、講義が終わった後に、どっかの喫茶店で話そう」
「そうね、スドバとか?」
わざと言ってみた。それを竜児も分かっているのだろう。
「冗談きついぜ、あそこで痴話喧嘩して醜態さらしたばかりじゃねぇか。いばらくは常連客のネタにされるぞ。特に、稲毛酒店のおじさんとかが、『喧嘩するほど仲がいいんだな』てな冷やかしをするだろうな」
そう言いながらも、苦笑している。
「そうね、犯罪者よろしく、時効というか、ほとぼりが冷めるまでは、大人しくしていましょうか」
「そうだな」
二人は、示し合わせたかのように、「ふふふ」と忍び笑いをした。
「おっと、電話だ…」
竜児は、着信を示すランプが明滅している携帯電話を取り上げた。
フリップを明けて液晶画面を見る。その瞬間、竜児の表情が、困惑したかのように曇るのが見て取れた。
「誰からの電話?」
亜美の問いに、竜児は一瞬だけだが躊躇したようだった。
「櫛枝からだよ…」
「そ、そう…」
「電話に出るぞ、いいか?」
「出るも出ないも高須くんの権利でしょ? あたしがどうこう言うべきではないわ…」
本心では、その電話は無視して欲しかった。実乃梨からの電話だというだけで、今はイヤな気分になる。
「お、おう…」
竜児は、そう言って、ちょっと遠慮がちに電話に出た。
「ああ、櫛枝か…、俺だ…」
その後のやり取りは、一方的に実乃梨がしゃべっているのか、竜児は、「ああ…」とか、「そうか…」とかしか言わない。
亜美は、できるだけ耳を澄ましたが、周囲のざわめきで実乃梨の声は全く聞き取れなかった。
「わかった、じゃ、そういうことで…」
結局、何が話し合われたのか皆目分からないうちに、実乃梨からの電話は終わった。
「さっきの電話は何だったの?」
竜児を非難するつもりはなかったのだが、相手が実乃梨ということで、自然に表情が険しくなっていたのかも知れない。詰め寄る亜美に、竜児はちょっと怯えるような表情を見せた。
「い、いや、今度の土曜日の話だよ。櫛枝の練習試合。ぜひとも見に来てくれとさ…」
「それで、了解したの?」
訊く前から竜児の応えは分かっていた。
「お、おぅ、北村と一緒に、行かなきゃならなくなっちまった…」
「そう…」
「それと櫛枝が、お前に先日は済まなかった、と言っていたよ」
「そう…。あたしは別に実乃梨ちゃんのことなんか気にしていないけどぉ」
嘘もいいところだ。正直、実乃梨が居なければ、とさえ思っている。
「その櫛枝がさ、土曜日は川嶋にも詫びたいから、俺や北村と一緒にグラウンドに来てくれって…」
亜美は、むっとした。冗談じゃない。
「それ、実乃梨ちゃんにオッケイしたの?」
罰が悪そうに弱々しく頷く竜児を見て、亜美は学食中に響き渡るような声で怒鳴った。
「あたし行かないからね! 行きたきゃ、祐作とでも一緒に行きなさいよっ!!」
そして、金曜日。
弁理士試験対策のサークルに竜児と亜美は出席した。
昨日の実乃梨からの電話に対する竜児の優柔不断さには、一瞬キレかけた亜美だが、落ち着いて考えれば、それは、今に始まったことではないし、元凶は、あろうことか、実乃梨を連れてきた北村祐作なのだし…、ということで、彼女なりには納得することにした。
まぁ、土曜日の練習試合とやらが終わったら、主犯の北村と、共犯(?)の竜児をとっちめればいい…。
それだけの話である。
肝心のサークルは、竜児と亜美以外のメンバーは十二名だった。
元々が法学部の有志で始められたサークルということもあって、うち十名は法学部生または法学系の大学院生であり、その他は二名が工学部の機械科の男子学生だった。
そのメンバーが、講義の終わった法学部の空き教室に集合していた。
「へぇ〜、君ら一年生なのにもう弁理士試験の勉強を始めるんだ」
サークルのリーダーだという年嵩の男子学生が、感心とも呆れとも判じがたい口調で呟いて、二人の新参者を吟味するように見比べた。どうやら、一年生のメンバーは竜児と亜美以外には居ないようだ。
「で、君は理学部数学科か」
「はい、そうですけど…」
「弁理士は理系が多い士業だけど、ほとんどが工学系だからね、ちょっと珍しくて。しかし、理学部でも一番難しいんだろ? 数学科って」
「はい」
偏差値は一応そのようになっているようだ。
「弁理士になるって言うけど、数学の研究者とかにはならないの? または、高校の教師とか?」
「いえ、研究者になれるような素質はないし、教師もあんまり向いてないと思います。それに、俺が数学科
にしたのは、そんなに深い意味はないんですよ。強いて言えば、物理科や化学科みたいに実験がないから、資格試験の勉強に割ける時間があるかなって程度ですから…」
榊と名乗る、そのリーダーは、竜児の説明に納得した様子で頷いた。
「う〜ん、何だか最初から資格試験狙いなんだなぁ。でも、それもありか…。それにあの試験は、司法試験に準ずるほど手強いから、早めに始めておいて正解かもしれない。俺なんか、もう六年連続で受験しているけど、一次試験の合格止まりだからなぁ〜」
と、苦笑する。聞けば、修士二年だという。しかも、学部生のときに必須科目でしくじって留年しているので、学部と院とで通算八年間もこの大学にいるらしい、大柄で太り気味ということもあるが、妙に貫禄十分なのは、そのせいか、と二人は納得する。
サークルの活動場所になっている空き教室では、既にメンバーの学生が二人一組になって、一次試験の過去問を出題し合っていたり、来月に控えた二次試験のために、知識の要点整理をしている。
弁理士試験は、マークシート方式で短答式試験と呼ばれる一次試験、法律論文の良否を競う論文試験と呼ばれる二次試験、法律上の知識を口頭試問で問う口述試験と呼ばれる三次試験とがある。
一次試験に合格しなければ二次試験は受験できないし、二次試験に合格しないと三次試験は受験できない。三段階もの関門をくぐり抜けねばならず、特に二次試験である論文試験が狭き門とされている。
マークシート方式の一次試験は、条文の知識が頭にあって、過去問を解くことで『受験慣れ』してしまえば、大体は合格レベルに達するが、二次の論文試験は、知識だけでなく、出題事例に適応した思考力が求められ、
これがために単に知識を詰め込んだだけでは歯が立たない。そのため、このサークルのリーダーである榊のように、一次試験には合格したものの、二次試験になかなか合格できない受験生がかなりの数にのぼる。
そのためには、条文を正確に理解し、青本等の基本書を中心とした学習を通して、法学的な思考力とセンスを醸成することが何よりなのだが、青本その他の基本書の分厚さや難解さから、それを忌避する受験生が少なくない。
このサークルでも、使用している教材は、資格試験対策で有名な予備校が刊行している『レジュメ』と呼ば
れるものだった。
このレジュメ、青本等の基本書から重要な部分を抜粋したもので、手っ取り早く概略的な知識を身に付けるという点では都合よくできている。
しかし、得られる知識が断片的であることは否めず、本試験でレジュメが言及していない分野から出題されれば、万事休すである。
「青本は使わないんですか?」
亜美の問いに、榊は苦笑いした。
「君ねぇ、あんなクソ厚いのいちいち読んでいたら、時間がもったいないだろ? 世の中にはもっと便利な教材があるんだよ。まぁ、青本読まなくても合格した先輩方は結構居るからね」
「「はぁ…」」
ちょっと安直過ぎないか、と、竜児と亜美は思った。青本を読まなくても合格できたというのは、一昔前の話であろう。
マークシート方式の一次試験であれば、多少のごまかしは利くかもしれない。
しかし、一から自分の文章で論述する現行の二次試験ではそうはいくまい。
二次試験の事案の設定が今よりも単純で、記すべき項目を深く論じることまでは要求されなかった一昔前はいざ知らず、事案が複雑な上、法律上の論点を深く論じさせる出題が主流な昨今で青本軽視は命取りだ。
「なんか、期待していたのと違うな…」
それは亜美も同感だった。受験機関のレジュメに依存し、青本等の基本書を軽視する姿勢もさることながら、お遊びのサークル然とした雰囲気が何よりも気になった。
仲間がいれば心強いのかもしれないが、それに安心し切ってしまい、真摯に学ぶということが疎かになっているのかもしれない。
「それに、さっきから変な視線感じない?」
亜美が竜児にだけに聞こえるように囁いた。
都合十二名ほどのメンバーのうち、二年生か三年生であろう女子学生四人が、こちらを窺っている。窺うだけならまだいいが、竜児と亜美、特に亜美を見ながら、くすくすと笑っているのだ。
「何か、あたし、笑われているみたい…。感じ悪!」
「川嶋は元モデルだから、それで注目されているんじゃねぇのか?」
「そうかも知れないけど、明らかに好意的じゃないわね。勘だけど、あたしが元モデルっていうのとは全然関係なく、あたしのことを快く思ってないような気がする」
「悪意があるかどうかまでは断定できねぇだろ? 今まで通りに地味に振る舞っていれば、何てことないんじゃないか?」
「うん…」
竜児の言う通りなのだろう。モデルだったということを妬んだ数学科の女子に因縁をつけられたことが以前あったことで、見知らぬ者から理由なく見られることに神経質になり過ぎているのかも知れない。
「う〜ん、そうだな。君らは未だ一年生だし、本試験の問題を解くのは無理だろう。レジュメもないだろうから、条文の読み合わせをしていなよ」
ぬるい雰囲気は気になったが、それについて初学者である竜児や亜美がつべこべ言える義理はない。郷に入っては郷に従うのが流儀である。幸い、リーダーである榊は人がよさそうで、面倒見も悪くないようでもある
し…。
「じゃぁ、高須くん、条文に慣れるためにも、まずは高須くんから読んでみてよ」
「お、おう…。じゃぁ、特許法の第一条から、『この法律は、発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もって産業の発達に寄与することを目的とする…』」
淀みなく届く竜児の朗読に耳を傾けながら、亜美は、気になる点はあるにはあるが、これはこれでいいかも知れないと、思い始めていた。
各メンバーがペアになっての、レジュメを使用したり、過去問を解いたり、条文を読み合わせたりといった、勉強は、夕方五時に始まって、夜八時まで行われた。
その後は、学生サークルにつきものの『コンパ』ということになった。
「いや、ぴちぴちの一年生生が参加してくれたから、その歓迎会も兼ねてね。何しろ、川嶋さんみたいな可憐な女子が参加してくれるのは、下心なしで嬉しい。男ばっかだと、どうにも殺伐としちゃうからさぁ〜。
まぁ、元々、女子も四人いるけど、さらに増えてくれた方が、サークルが華やぐからねぇ」
そう言って、榊は、あはは、と笑う。本当によく笑う人だと、亜美は思った。少なくとも、この人は悪い人ではないらしい。
コンパは大学近くの居酒屋で行われた。
竜児と亜美は未成年者だし、上級生のメンバーでも二年生あたりには未成年者が居る。しかし、コンパで
「未成年者だから、アルコールはちょっと…」というのは、無粋の極みとして許されない。
飲酒には否定的な竜児の前にもビールが並々とつがれた大ぶりのグラスが差し出された。
「それじゃあ、一次試験合格者は来月の第一日曜日に迫った二次試験である論文本試験の必勝を期して、そ
れと、惜しくも一次試験の結果が芳しくなかった者は、捲土重来を期して、かんぱぁーい!!」
リーダーである榊のよく通る声が店内に響き渡り、各メンバーもそれに唱和するように「乾杯!」と言い、グラスのビールを飲み干した。
竜児も、おずおずとグラスのビールを一口だけ飲み、ちょっと顔をしかめている。
その横で、亜美は、他のメンバーよろしく、グラスのビールを、ぐっと、あおった。
普段は全く飲酒をしない亜美だが、アルコール飲料自体は嫌いではない。むしろ、美味いと思う程だ。
ただ、すぐに酔ってしまうのと、酔った勢いで竜児宅に乱入したように、酒乱の気があることを自覚してい
るので、飲酒は手控えている。
「お、川嶋さん、いい飲みっぷりだねぇ」
リーダーの榊と、サブリーダーの小林が、亜美の飲みっぷりのよさに感嘆するように言った。小林は法学系
の修士一年だ。こちらは榊と違い、そつなく単位を取得しているのか、留年の憂き目には遭っていないらしい。細身の長身で、物静かな雰囲気を持ち、豪放な性格でビヤ樽のような榊とは正反対だが、絶えず、にこにこと人畜無害そうな笑みを浮かべており、こちらも悪い人ではなさそうだ。
「あたし、あんまりお酒は強くないけど、飲むのは好きなんです」
「へぇ〜、意外だねぇ。川嶋さんみたいな楚々とした人は、お酒よりも紅茶にケーキって感じだけどな」
小林が、尖った顎を撫でるように手をやった。その仕草は、単なる癖なのだろうが、ちょっとロダンの『考 える人』を連想させ、哲学的な趣きがなくはない。
「ええ、甘い物も好きです。でも、お酒も美味しいと思いま〜す」
「そりゃ頼もしいや。まぁ、もう一杯…」
「は〜い、ありがとうございまぁ〜す」
榊によって注がれた二敗目は、一気にいかず、一口ずつ飲んだ。猫さえかぶっていれば、お淑やかな美少女で通用する。要は、酔って地が出なければいいのだ。
その後は、
「川嶋さんて、モデルやってたんだって?」
という質問も、
「いやぁ、昔の話ですよぅ、受験勉強を機に足を洗いましたぁ」
と、当たり障りなくスルー。
「お母さんは、有名な女優の川嶋安奈でしょ?」
という追求も、
「そうですけどぉ、あたしは母と違って芸がありませんからぁ、今はただの地味な女子大生ですよぉ」
と、部外者を装うようにして、これも素っ気なくスルー。
そんなこんなで、コンパの夜はつつがなく過ぎていくかに見えた。しかし、神の祟りか、悪魔の罠か、そうは問屋が卸さなかったのである。
コンパが始まって一時間も経過した頃だろうか、酔いをできるだけ防ぐために、ちびちびとビールを飲んでいた亜美が顔を真っ赤にして、目を回している。元々が、それほど酒に強くないのだから仕方がない。
「お、おい、川嶋大丈夫か?」
心配そうに覗き込んでくる竜児の声が、心持ち遠くから聞こえてくるようだ。
陶然とは、こういう感覚なんだな、と他人事のように亜美は思った。
「川嶋さん、大丈夫?」
未成年者に飲酒を勧めて、さらにその未成年者が酔いつぶれかけているとあっては、責任者としてまずい。
呑気であるはずの榊の口調にも、ちょっとした焦りが感じられた。
「ぜ〜んぜん、平気れす、ら、らいじょうびぃ…」
笑顔で健在ぶりを立証しようとしたが、舌がもつれて呂律が回らない。竜児と榊、それに小林の心配そうな
顔が、視野に浮かんでいる。
−−ありゃ、三人とも、望遠鏡を逆さにして見たように遠くにいるような…。
なんで、竜児たちがあんなに遠くに見えるんだろうと、思い、それで漸く自分が多少は酔っているんだな、ということを自覚した。
「全然、大丈夫じゃねぇよ」
竜児は、亜美の両肩をに手を副えて二度、三度と揺さぶった。
「た、たきゃすく、ん、あ、亜美ちゃん、ち、ちょっと酔っぱらっただけで、ずぅえんぜん、だ、だいじょうびなんすけどぉ〜」
「お前、べろんべろん、もいいところだぞ。そもそも歩けねぇだろ、そんな状態じゃ」
「うふ、あ、歩けなくたって、た、たきゃすくんが、きゃい、介添え、し、してくれるよね?」
「他人を当てにしている時点で、ダメだろうが…。あっ、て、お、おい、川嶋、寝るな!」
完全に酔いが回ったのか、亜美は竜児の肩にもたれて寝息をたて始める。
榊は、酔っ払った亜美に付き添う竜児を、ちょっと羨ましそうに一瞥した。
「まぁ、高須くんみたいなナイトが居るから安心かな? でなけりゃ、俺が川嶋さんのナイトになってもいいんだが…」
「えっ?」
三白眼を点にして驚く竜児の肩を榊は軽く叩き、太鼓腹を揺すって笑った。
「冗談を真に受けるな、他人の彼女にちょっかい出すほど無粋じゃないよ。何よりも、川嶋さんが君を頼りにしているのが、君を見る目つきとかで分かるからねぇ。しっかり守ってあげなよ」
「はい」
それから、榊は宴席を見渡した。
「それにしても、いつにも増して無礼講だな」
ひどく酔っているのは亜美だけではないようだ。
聞けば、一次試験の合格発表があったばかりだという。サークルで一次試験に合格したのは、榊と小林、そ
れに法学部の学部生が何人かという有様で、約半数が不合格だったらしい。その憂さ晴らしもあって、やけ
酒をあおっている者が少なからず居る。
そうした者は、「一点足りなかったんだよ、一点!」とか、「畜生、何であんな変な判例なんかネタにするんだよ!」などと、真っ赤な顔で互いに愚痴を言い合っていた。
「けっこう荒れてますね…」
「まぁね、試験は合格と不合格しかないからねぇ…。合格した奴は、次の二次試験のことがあるけど、取り敢えずはめでたいし、一次試験でダメだった奴は、失意からやけくそになっているし、まぁ、大変だよ」
「勉強している時は、結構なごやかな雰囲気でしたけど…」
「一応は理性ってもんがあるからねぇ。しかし、アルコールはその理性を麻痺させる。それで本性や地が出
るんだな…。第三者として見てる分には面白いけどね」
「はぁ…」
榊の意外にクールな発言に竜児はちょっと戸惑った。
しかし、サークルを率いているのだから、「あはは」と表で笑いながら、裏ではそれなりに苦労しているのだな、と思うことにした。
「ねぇ、きみ〜ぃ、飲んでるぅ?」
亜美ほどではないが、へべれけ一歩手前の女子学生に袖を引かれた。
「はい、いただいてます」
酔っぱらいには適当に返事をしておくに限る。竜児も飲んではいる、ただしビールは一杯目だけ、後は烏龍茶だけなのだが…。
「おい、おい、瀬川さん、もう、でき上がっちゃってるじゃない。大丈夫?」
「いや〜ん、こんなの酔ったうちに入りませんよう〜」
榊に瀬川と呼ばれた女子学生は、くねくねと腰を振った。その姿は、酔っているせいもあるのか、妙に艶かしい。
「瀬川さんは、一次試験に合格したんだから、来月の二次試験で頑張らないと…。コンパで言うのも何だけど、深酒せずに、明日から論文試験対策をしないとね。まぁ、それは俺も同じか」
「うふふ、初受験で一次突破、この勢いで最終合格しちゃいまぁ〜す」
と言って、けらけらと笑った。初チャレンジで一次合格が余程うれしいのかもしれない。
「初回で合格はすごいですね」
一次試験突破だけで数年かかる者も居ることを思えば、それなりのお手柄と言ってもいいだろう。
「そうなんだ、彼女は法学部の二年。元々は、法科大学院に行って司法試験を受験するつもりだったんだが、学部生でも受験できる弁理士試験狙いに方向転換してね、で、いきなり一次合格。キャリアは浅くても、サークルの中ではかなりの実力者だよ。今後、勉強で分からないことがあったら、彼女に訊くといい」
「やっだぁ! 私なんて全然大したことないですよう。合格はまぐれですぅ、ま・ぐ・れ」
そう言いながら、自信満々、してやったりの嫌味な態度が丸出しだ。これが瀬川という女子学生の本性なのかもしれない。
「そんなことよりぃ〜、ねぇ、ねぇ、その子って、君の彼女ぉ?」
顔を真っ赤にして竜児にもたれかかっている亜美を指差した。
「はぁ、一応、そうですけど…」
照れがあったのか、『一応』という文言が無意識に口をついて出ていた。それを耳にしたのか、亜美が瞑目したままで、眉を、ぴくり、と痙攣させたように思えた。
「あっはっはっぁ、『一応』なんだぁ〜」
「あ、いえ…、まぁ、同じ高校出身ですから…」
瀬川という女子学生は、「ふ〜ん…」と呟いて、竜児と亜美とを見比べている。どちらかというと知的美人に類するのだろうが、ちょっとつり上がった切れ長の双眸には悪意が秘められているようで、物腰や言動には、才女というか、知力に自信がある者特有の傲慢さが現れていた。
「でさぁ〜、君ぃ、私のこと、憶えてなぁ〜い?」
いきなりそう言われても、竜児には心当たりがない。いや、待てよ、サークルに参加してきた竜児と亜美、特に亜美を見ながら、くすくすと笑っていた四人の女子学生の片割れだったような気がする。
しかし、そんな程度で憶えているも何もないものだ。
「いえ、すいません。先輩にお会いするのは、おそらく今日が初めてです」
「そうぉ? 今週の月曜日、学食で何があったか、もう忘れちゃったのぉ? ほらぁ、ちょっとした事件があったでしょぉ〜」
「あっ!」
しまった、亜美と実乃梨との一触即発のトラブルを隣のテーブルで傍観していた女子学生の一人だったのか、と竜児は漸く思い至った。
「ふふ、世間って狭いわよねぇ〜。君の彼女と、他の大学から来た女子学生との諍いは、なかなか見ものだっ たわ。退屈な日常のスパイスになる位の…」
「あ、い、いえ…」
厄介事というものは、とかく尾を引くもののようだ。公共の場で騒げば、それは一時の恥では済まされない。
「おい、おい、瀬川さん、新入生をいじめちゃダメだよ。高須くん、困っているじゃないか」
榊がたしなめたが、酔いで理性のブレーキが効かなくなっているのか瀬川の勢いは止まらなかった。
いや、もしかしたら、素面でもこうした陰険な女なのかもしれない。
「いえね、この子と私は初対面じゃないってことを理解してもらうために、実際に月曜日に学食で起こったことを、ちょっと言っただけですぅ」
「だったら、もういいじゃない。高須くんも、瀬川さんと初対面ではないことに気づいているみたいだし、それ以上、月曜日に起きた事件とかについて、あれこれ言うことはないだろ」
瀬川は、榊の忠告に「う〜ん、そうですねぇ…」と応じかけたが、すぐに、きょとんと、とぼけたような表情をして竜児の方ににじり寄ってきた。
「な、何ですか、先輩…」
「私を思い出してくれたのはうれしいけどぉ〜、月曜日のアレは、何か興味深いわねぇ。月曜日にやって来た他の大学の子と、君の彼女って、何か確執があるみたいでさぁ〜、ねぇ、アレって、痴情のもつれって奴なの? 会話にはそれらしい文言は出てこなかったけど、そんな感じしたんだよねぇ」
「き、気の回し過ぎです。そんなことありません」
「そう? 月曜日に君とその子の居たテーブルに集まったのは、みんな同じ高校の出身者なんでしょ? で、
他の大学から来た子は、君の元カノで、今、ぐーすか眠ってるその子と因縁がある、って感じがしたんだけど、違う?」
鋭い! 女の勘ってやつなのか、それとも、簡単に一次試験を突破できるだけの知力の賜物なのか、そんなことを思いながら、竜児は、応えに窮していた。もっとも、実乃梨は『元カノ』という存在までには至らなかったのだが、竜児のかつての願望を含めて言い当てているという点では、ほぼ正解だろう。
「瀬川さん、いい加減にしなよ。高須くんと川嶋さんの個人的な事情に、第三者であるあなたが関与する筋合いはない。高須くんは見かけによらず理知的だし、川嶋さんだって、楚々としたお嬢さんじゃないか。その二人に因縁をふっかけるようにして難癖をつけるのは止めてくれ。いくらコンパは無礼講だといっても限度がある」
榊が表情を険しく引き締めて、瀬川に警告した。しかし、当の瀬川が動じる様子はない。むしろ、何年かかっても最終合格できない榊を侮蔑しているようにすら見えた。
「楚々としたお嬢さん? あっはっはっはぁ〜、冗談じゃないですよ。言葉遣いも乱暴だったし、今にも取っ組み合いの喧嘩をしそうなほど粗暴なんですよぅ〜、その子。有名女優の娘とか何とかみたいだけど、育ちはよくないって感じぃ〜?」
そう言って、竜児にもたれている亜美を指さした。同時に、竜児の肩に乗っていた亜美の手が、きゅっ、と握られた。寝た振りをして、この屈辱に耐えるつもりなのだろう。
竜児が盾になることを意味するが、亜美が酒乱の本性丸出しで暴れるよりは、なんぼかマシである。
「先輩、勘弁して下さい。川嶋は、そんな奴じゃありません」
「あら、あら、頼もしい王子様の登場かしら? その王子様に守ってもらって、狸寝入りぃ? 月曜日に来た子も言ってたけど、本当におんぶに抱っこねぇ。笑っちゃうわぁ〜」
亜美が寝た振りなのを見破っている。鼻持ちならない女だが、勘が鋭く、頭も切れるようだ。それだけに、扱いにくいことは間違いない。
「瀬川さん、もうやめないか! 君一人のおかげで、高須くんや川嶋さんだけでなく、コンパの雰囲気自体が台無しだ。君も上級生なら場の雰囲気を読んでくれ」
榊の口調は、警告というよりも懇願といった感じだ。その榊に、瀬川は切れ長の双眸を向けて、せせら笑った。
「なら、どうしますぅ? 暴力にでも訴えて、私を排除しますぅ? できますかぁ? できませんよねぇ〜。
やったら、よくてセクハラ、悪くすれば傷害罪ですよぉ〜。それに、リーダーは、私のような才色兼備の女 子が居た方が、場が華やいでいいってお考えでしょぅ? ならぁ、粗末にはできませんよねぇ?」
「瀬川さん、酔っているとはいえ、今の君の言動はひどいものだ。サークルでの明朗な君は、どこへ行ったんだ!」
「あらぁ〜ん、これが私の地なんですけどぉ? まぁ、サークルのメンバーの実力とかが不明なうちは、猫かぶってたんですよう。で、一次試験の結果を見たら、ほとんどが不合格じゃないですかぁ〜。ぜ〜ん、ぜん大したことないしぃ〜。だから、今後はぁ、才に長けた私のぉ好きにやらせていただきまぁす。ほらぁ〜、
リーダーだって、この子たちに、勉強で分からないことがあったら、私に訊くようにって言われましたよ
ねぇ。だから、この子たちは、私が面倒を見させてもらいますけどぉ〜」
豪放であるはずの榊が、青ざめて歯噛みしている。瀬川という女子学生の本性がここまで悪いとは見抜けていなかったのだろう。
「瀬川さん、君はうちのサークルにふさわしくない。辞めてくれないか。今後は、君だけで勝手に弁理士試験でも何でも受験してくれ」
榊の押し殺した声にも、瀬川は動じない。蚊に食われた程にも感じていないかのように、瞳をきょとんとさせている。
「うふ、私が出ていったら、残りの女子三人も居なくなりますけどぉ? さらに私たち女子を追って、何人かの男子学生も居なくなりますが、それでも宜しければ、出ていきます。それに、私も含む女子四人が抜けたら、確実にここのレベルは下がりますよねぇ〜。何せ、リーダーとサブリーダーを除けば、一次試験に合格したのは、この四人だけですからぁ〜」
そう言って、あははは…、と哄笑した。
面相を歪めて邪悪に笑う瀬川の傍に、残りの一次試験合格者が寄ってきた。竜児にも、そいつらが誰であるかは察しがついた。全員が、あの月曜日、竜児たちの隣のテーブルに座っていた女子学生たちだ。
さらに、四人の男子学部生が立ち上がり、瀬川たち女子の群に加わった。合わせて八人。瀬川とそれに従う者は、サークルの過半数に達していた。
「何て奴だ、派閥工作でもしていたのか? 卑劣なのにも程がある…。君たち女子と、それに追従する者は、もはや仲間とは思いたくない。勝手にしたまえ!」
榊が憮然として言い放った。それを瀬川は、榊の敗北宣言と受け取ったのであろう。
「ええ、ですから勝手にさせていただきますわぁ。弁理士試験は知識と思考力を問う試験ですからぁ、真に知力に秀でた私たち四人の女子が、ここを仕切らせていただきます。あ、リーダーは引き続きお務め下さいね、お飾りですけどぉ〜」
「断る! 君らのような悪辣な者たちは、こちらの方から願い下げだ」
榊は、脂汗を浮かべて苦々しげに吐き捨てた。
だが、瀬川は、眉一つ動かさず、冷たい切れ長の双眸で榊を愚弄するように一瞥すると、竜児に向き直った。
「うふ、じゃあ、高須くんだったかしらぁ? いい機会だから、ちょっと特許法の問題を出すから答えてくれないかしら? あなたに弁理士試験を受験する素養があるかどうかを見極めてあ・げ・る」
竜児と亜美の周囲には、瀬川を含む上級生の人垣ができ、逃げ場がない。
「俺は、未だ初学者で、条文や青本を読み始めたばかりなんです。ですから、先輩の出題にはお答えする能力がありません。すいません、本当に勘弁して下さい!」
悪意がある者に許しを請うことほど無意味なものはない。それは竜児にも分かっていたが、答えられそうにないのだからどうしようもない。
「ふふふ、答えられるかどうかは、問題を聞いてからにしてもいいんじゃない? とにかく、私が出題するって言ったら逆らっちゃダメよ。じゃあ、行くわよ。『特許法第二十九条の二の規定と特許法第三十九条の規定の違いについて説明しなさい』。どう、簡単でしょ? 青本にも書いてあるしぃ〜」
冗談じゃない、昨日や今日になって特許法を学び始めた者が答えられる問題ではない。それでも、僅か一度か二度、目を通したに過ぎない青本の内容を思い出そうと、竜児はじっと黙って必死に考えを巡らせる。
「どうしたの? 黙ったままではダメよぉ。何か言ってくれなくちゃ、面白くないじゃない?」
「う…」
そもそも、特許法第二十九条の二と特許法第三十九条がいかなる規定なのかすら分かってないのだから、答えようがない。たしか、両方とも先の出願が特許を受けられる、と規定したものだったとは記憶しているが、それ以上のことは全く理解できていないのだからどうしようもない。
脂汗を流しながら苦しむ竜児を瀬川以下四人の女子がせせら笑っている。
「ま、待って下さい!!」
唐突なタイミングで発せられた声の主に、悪意のこもった眼差しが四人分注がれる。
その眼差しに晒されながら、亜美が、うっすらと双眸を開いていた。
「あ、あたしが代わりに答えます。で、ですから、高須くんは許してやって下さい」
「川嶋、寝てなくて大丈夫か? 未だ酔っぱらっているんだろ?」
亜美は、頭を左右に振って、竜児に微笑みかけた。
「うん、ちょっと、ふらふらするけど、さっきよりは幾分まし…。呂律だって大丈夫だし。それに、この問題なら、あたし答えられるから、任せて…」
「お、おう…」
「これは、これは…、王子様を救いにお姫様がお目覚めとはねぇ〜。面白いじゃなぁ〜ぃ? それじゃぁ、川嶋さんとやら、さっそく答えて貰おうかしら」
亜美は、落ち着くために一回だけ深く息を吸い込んだ。そして、双眸を大きく見開いて、瀬川たちの目を見ながら答え始めた。
「特許法第二十九条の二は、同日出願には適用がありませんが、特許法第三十九条は同日出願にも適用され、先願の特許請求の範囲に記載されている発明についてのみ適用があります、また特許法第二十九条の二は、先願が出願公開等がなされていない場合は適用されませんが、特許法第三十九条は…」
蕩々とまくし立てられる亜美の答えが妥当なのか否かすら竜児には分からなかった。しかし、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべていた瀬川たちの表情が、予想外と言いたげに硬直したのを見て、亜美の答えが正しかったことを確信した。
「ま、まぁ、いいわ…。では、次の問題…」
「ちょっと待て! 川嶋さんは君らの質問に正解をもって答えた。もう、二人を解放してあげなさい。二人へのこれ以上の干渉は、いじめ以外の何ものでもない」
榊が、竜児たちと彼らを囲む学部生との間に、割って入ろうとした。
しかし、女子三人がバリケードのように立ちふさがって、それを阻止した。
「触らないで下さいねぇ。少しでも私たち女子に触れたら、酒宴でのセクハラだって主張できますからぁ〜。
それに、あと一問です。この一問に川嶋さんが解答できたら、二人は解放します。いいですね?」
なす術もなく悔しそうに歯噛みする榊に侮蔑の一瞥をくれてやると、瀬川は亜美と対峙した。
「じゃあ、川嶋さぁん。川嶋さんは法学部だそうだからぁ、民事訴訟法の問題に答えて貰いましょう。『既判力と一事不再理の違いを説明しなさい』。さぁ、答えてぇ!」
亜美は、ぎょっとした。たしか必須科目の民事訴訟法の講義で、既判力と一事不再理について説明された記憶はあった。たしか、どちらも判決が確定すると、前訴で主張した同一の事実及び証拠に基づいて新たな訴えをすることができない、というものだったはず。しかし、両者の違いが分からない。
とにかく、分かる範囲で言ってみるしかない。
「既判力も一事不再理も、前訴で主張した同一の事実及び証拠に基づいて新たな訴えをすることができないという効力を有しています…」
「それだけぇ? じゃあ、川嶋さんは、既判力と一事不再理は同じものだと言いたいのねぇ?」
瀬川以下の四人が意地悪く笑っている。
「い、いえ、違うものだと思います…」
「思います、って、川嶋さんの感想を聞いてるわけじゃないのよぉ? 両者の差異は何?」
「う、あう…」
亜美は畳に両手を突いて、嗚咽のような声にならない呻きを漏らしながら、必死で考えた。たしか、一事不再理は、同一事件の訴権が消滅し、再訴は常に不適法なものとして取り上げないが、既判力はそうではなかったはず。だけど、どういった場合に同一事件の再訴に既判力が及ばなくなるのかが思い出せない。
焦れば焦るほど考えがまとまらず、じりじりと時間だけが過ぎていく。
「は〜い、そこまでぇ! ダメじゃあない、この程度の問題に苦戦しているようじゃぁ。この問題は、去年の民事訴訟法前期試験の小問なんだけどなぁ〜。これが完璧でないと、下手すれば留年よねぇ。どっかのサークルの前リーダーみたく…」
一瞬、言葉を切って、侮蔑の目線を榊に放った。
「ま、川嶋さんは弁理士試験に挑戦する前に、日頃の勉強をしっかりやることの方が大切みたいだけどぉ〜」
瀬川がせせら笑うと、他の三人も笑った。その無慈悲な笑いがうつむいている亜美を苛むように居酒屋の店内にこだました。
「それに川嶋さんって、ちょっとかわいいけど、取り柄ってそれだけなのね。勉強はダメだし、月曜日に見聞きした限りだけど、料理もダメ、毎日のお弁当は彼氏である高須くんに作って貰ってるんでしょぉ? ほーんと、女として失格ね。これじゃぁ、あの元カノに彼氏奪い返されちゃうわよぉ」
そのとどめとも言える辛辣な一撃に、亜美は竜児に縋って、堰を切ったように泣き出した。
「う、う、うぇ〜〜ん!!」
「か、川嶋…」
「ひろいよぉ〜、ひろすぎゅるよぉ〜! 亜美ちゃん、にゅあんでぇ、こんら目にあうのらぁ〜〜!! あらしが、いっらい、にゃにをしふぁっていふにょらぁ〜〜〜!!」」
竜児は、号泣する亜美を抱きしめながら、瀬川たちを睨み付けた。
「先輩方、俺たちに何の恨みがあるっていうんですか! どうしてこんなむごいことをするんです!」
「どうしてかしらねぇ、まぁ、要は公共の場である学食で騒いだ君たちが迂闊なのぉ。で、それを聡明な私たちにつけ込まれた。ちょうど、今日のコンパを利用して、テロっていうか、クーデターを起こすつもりだったから、何らかの騒ぎを起こす糸口が欲しかったのねぇ。で、お誂え向きに、何か弱みがありそうな君たちがサークルにやって来た…」
「そ、そんな…。あんたらは、サークルの実権を握る私利私欲ために俺たちを利用したんですか?!」
「人間なんて私利私欲で生きている動物よぅ。その私利私欲に利用される方がバカなのぉ〜。で、君たちはまんまと私たちに利用された。おかげで、思い通りの結果になったわ。感謝してるぅ」
そうして、瀬川は、竜児に色っぽく投げキスをした。その何ら屈託ない立ち居振る舞いは、彼女らに慚愧の念や良心の呵責が皆無であることを物語っていた。そう言えば、先ほどまでのへべれけな様子は微塵も見られない。竜児や榊を油断させるために、酔ったふりをしていたのだろう。
「でも、それなら、俺や川嶋に意地悪い問題を出す必要なんかなかったんじゃないですか! リーダーから『勝手にしろ』という言質を取れば十分だったはずでしょ!!」
「そうねぇ、君にちょっかい出したのは、ペットにしたかったから。君って、目つきが鋭いけど、結構イケメンだよねぇ? で、そっちの小生意気な小娘は、君をペットにするのに邪魔だから…。それで、ちょっとかわいがってあげたんだけどぉ〜。まぁ、理由としてはこんなもんかしらねぇ」
竜児は、怒りよりも、そのどす黒い悪意に戦慄した。
「でもぉ〜、君ってさぁ、その小娘に何か思い入れがあるみたいだから、ペットにするのは難しいかもぉ〜って…。だから、もう、理由なんてないのも同然ねぇ。まぁ、君が面白そうだからちょっかい出した。で、そっちの小娘は、多分、私たちに逆らうような気がしたから叩きつぶした。強いて言えば、こうかもねぇ」
「多分、って、そんな曖昧なことで、人を貶め傷付けるのかよ!」
「あ〜ら、いやだ、熱くなっちゃってぇ〜。やっぱ、君、ペットには不向きだわぁ〜。それに、世の中は、やるかやられるか、のどっちかなのぉ。やられる方や利用される方がバカなのよぉ〜」
二十年に満たない人生ということもあるが、竜児にとって、これほど邪悪な存在を目の当たりにしたことはない。正直、吐き気がしてきた。
「さぁて、やるべきことはやったし、帰ろうかしらぁ〜」
瀬川のその一言が号令であったかのように、残りの女子と四人の男子学部生が、席を立っていった。
後には、榊と小林を含む主には院生からなる古参メンバー四人と、泣き続ける亜美を抱いた竜児だけが残さ れた。
「くそ、なんてこった…」
サークルが乗っ取られたことのショックで、残された古参メンバーは茫然としている。
瀬川たちは、今日という日にかけて派閥工作を行い、メンバーのうち女子を支持する若い男子学生を取り込んでいたらしい。
しかも、造反組の男女比は一対一だ。瀬川たちはマンツーマンで色香を武器に男子学生を籠絡していたのかも知れない。
「やられたな…」
物静かであるはずの小林が、悔しそうに顔を歪め、吐き捨てるように呟いた。
こうまで鮮やかに造反されると、二の句が継げない。
癪な話だが、瀬川をはじめとする女子の学部生の方が、術策に長けていたということだろう。
「それはそうと、高須くん、今日はとんでもないことになって済まなかった…。川嶋さんもいじめられて、本当に気の毒だ」
榊が、竜児に向かって頭を垂れた。
竜児は、あわてて、首を左右に振った。
「とんでもない、奴らにつけ入るきっかけを与えてしまった俺たちに非があります。本当にすいませんでした。俺たちが迂闊なばっかりに…」
そうして、がらんとした居酒屋の部屋を見渡した。
「本当に、みんな居なくなっちゃいましたね…」
榊は、瞑目して、さも無念そうに唸るように言った。
「このサークルも、俺たちの代でお終いだな。ちょっと、メンバーの自主性を尊重するという名目で放任状態だったのがまずかったようだ。結果、こんな形で乗っ取られるとは…。俺たちは、もう来年や再来年には卒業だから、まだいいとして、君や川嶋さんは、今後どうする? 瀬川たちとは明らかに反りが合わないから、彼女らと一緒に勉強するのは本意じゃないだろう。これからだっていう君たちに済まないと思うよ…」
「いえ、先輩方のそのお気持ちだけで結構です。俺と川嶋は何とか別の方法で勉強することにします」
「そうか…。でも、俺たちも、未だ学内に居るから、何か勉強で困ったことがあれば、いつでも相談に来てくれ。答えられる範囲で対応しよう」
「はい、ありがとうございます…。先輩方は、来月の二次試験、頑張ってください。」
「ありがとう、これが最後のチャンスのつもりで頑張るよ」
竜児は、べそをかいている亜美の肩を支えながら、コンパの会場だった居酒屋を後にした。サークル自体のぬるそうな雰囲気は気にはなったが、サークルに参加できなくなった竜児たちを気遣ってくれる榊はやはりいい人だった。
「川嶋、歩けるか? 俺の肩につかまれ」
「う、ううう、く、くやしい、くやしいよぉ〜」
「相手が悪すぎたんだ。まさか、あそこまで悪辣な女だとは…、サークルのリーダーだって把握していなかったようだし、俺たちにはどうしようもないさ」
「う、うん、でもぉ…、あいつの言うことももっともだから、悔しいんだよぉ…。勉強はダメだし、料理も
ダメ、高須くんを助けるつもりで、あの女に立ち向かったけど、やられちゃって…、本当に悔しくて情けなくて悲しいよ…。あたしって、本当に無力なんだ…」
「川嶋、そんなに自己を卑下するな。最初の特許法の問題には正解して、奴らに一矢を報いたじゃねぇか。
川嶋は無力なんかじゃねぇよ。ちゃんと俺をフォローして助けてくれた。感謝してるぜ」
亜美は、それには応えず、竜児に縋ってうつむいたまま泣き続けた。
竜児は、これからどうしたものかと思い、深く嘆息した。
第一に亜美の様子が気がかりだが、サークルがダメになったことも大問題だ。こうなると、資格試験の予備校とかに行くべきなのだろうが、そんな時間的余裕も経済的な余裕も今の竜児にはない。
電車の中でも亜美は泣き続け、下車駅である大橋の駅が近づいた頃になって漸く落ち着いてきた。
改札口を出て、タクシー乗り場を目指す。ひとまずタクシーで亜美を自宅に送り届けるのが先決だ。普通なら徒歩で十分にいける距離だが、酔いが覚めても情緒が不安定な状態の亜美を駅から徒歩で帰らせるわけにはいかなかった。
だが、亜美は竜児の袖を引き、ネオンサインが輝く彼方を指さした。
「あっち…、あっちへあたしを連れてって…」
「お前、あっちは風俗街じゃねぇか。いかがわしい店や、ラブホテルとかがある…」
亜美は泣き腫らした顔を、思いつめたように引き締めて、竜児を見ていた。
「だから、そのラブホテル…。そこへあたしを連れてって。そして、あたしを高須くんの女にしてよ…」
「て、お、おい、川嶋…」
咎めるような竜児の口調にもかかわらず、亜美は竜児の背後にまわり、両腕を竜児の首筋に絡めるようにして抱きついた。
「足手まといにしかならない亜美ちゃんだけど、高須くんの好きにしていいからね…。だから、あそこにあるホテルで、あたしたち一つになろう…」
「川嶋、早まるんじゃない。もっと自分を大事にしろ。お前は、酔っ払って、その挙句に、たちの悪い奴にからまれて気が動転しているんだ。そんな心理状態で俺とエッチしたって、痛い思い出にしかならない…。だから、やめたほうがいい」
「そんなことないよ…。こうして高須くんと一緒に居られるだけで亜美ちゃんは癒される気がする…。だから、高須くんと一つになって、もっと癒されたい…。痛い思い出なんかにならないよ…。今、心も身体もボロボロの亜美ちゃんだから、高須くんに癒してもらいたいんだよ…」
竜児の首筋に絡めていた亜美の両腕に力がこもり、亜美の華奢な身体が竜児の背中に強く押し付けられる。
その儚げなぬくもりに、竜児はたじろぎ、いっそ亜美と一つになれたら、という思いをよぎらせる。
だが…、そんな勢いだけの無計画なセックスは竜児にはできない。そんなことをしたら、泰子を犯したヤク な父親と同列に堕してしまう。
「川嶋、無粋なことは言いたくねぇが、今日は危険日なんだろ? 勢いでエッチしたら、絶対後悔する。悪いことは言わない。今のお前は、精神的に参っているから、誰かに縋りたいだけなんだ。一晩、ゆっくり休んで、落ち着くんだ。そうすれば、きっと大丈夫だ」
「ばか…、高須くんに縋りたいから縋るのよぉ、それのどこが悪いの! 高須くんにエッチしてもらえることでしか今の亜美ちゃんは癒されないんだよぉ! ゴム付きでもいいから亜美ちゃんを犯してよ! 犯して、犯して、犯しまくって、高須くんの女にしてよ!!」
「だから、そんなように『犯して』なんて軽々しく言ってる時点で自暴自棄になっているってのが分からな
いのか? それにだな、ラブホは、俺は賛成できねぇ…」
「どうして? あたし自暴自棄なんかじゃないし、なんで高須くんはラブホがダメなの? それもこれも、本当は亜美ちゃんのことが嫌いで、亜美ちゃんを拒絶するための方便なんでしょ!!」
竜児にしがみついたままの亜美が再び火がついたように泣き出した。
「違う、違う、川嶋、とにかく落ち着け!」
亜美がひとしきり泣き、竜児にしがみついていた腕の力を緩めた頃合いを見計らって、竜児は亜美の両腕を首筋から解き、亜美と向かい合った。
「なぁ、ラブホって、どこの誰だか分かんない奴が、それこそとっかえひっかえ、性欲を満たすためだけにそこでエッチしてきたんだよな?」
「そうね、でも、それが当たり前じゃないの、所詮はラブホなんだから…」
亜美は、それのどこが問題なのかと不満げだ。
「そう、所詮ラブホだよな? そんなところで一生の思い出になるはずの体験をしていいのか? それに、まっとうなホテルに比べれば衛生面でも不安がある。何せ、誰だかわからない奴が、エッチしまくってきた場所だ。中にはエイズとは言わないまでも、変な病気を持っている奴が利用していたかも知れねぇ…。それでも、いいのか?」
竜児のもっともな指摘に、亜美が「うっ!」と絶句した。
「どうせ、一生の思い出になるんなら、清潔で安心できる場所でやりたいとは思わないか? 一時の衝動に駆られて、いかがわしい場所で身体を重ねたら、絶対後悔する。少なくとも、俺も川嶋との初めてのエッチは、思い出に残るような場所でやりたい。これから結婚して一緒になっても、『あの時は』っていうように美しい思い出として語り合える場所でやるべきだと思う。どうだ?」
言い終えて、諭すような眼差しを意識して亜美を見た。
亜美は、竜児の視線を避けるようにうつむき、羞恥からか頬を赤く染めている。
「う、うん。たしかに、高須くんの言う通りだと思う…。ラブホに行こうといったのは、勢いだけの考えのない行為だよね…。ごめんなさい、そして、ありがとう…。高須くんが押しとどめてくれなかったら、大切
なものを失っていた…」
竜児は、ほっとしてため息をついた。川嶋は納得してくれた。これで一安心だ、と。
「だから、あたしたちの思い出の場所は、あの別荘、高二の夏休みに一緒に行った、うちの別荘にしよう…」
「そうだな…」
別荘に行くといっても、終電が終わった今日はもう無理だ。それに、明日は必須科目である線形代数学の講義があるし、もうチャラになっているかも知れないが、日曜日はデートということになっている。当面は、竜児も、亜美も、スケジュール的に行けるような状態じゃない。そのうちに、亜美の昂っている精神も落ち
着いてくるに違いない。
「じゃぁ、高須くん、今からタクシー拾おうか…」
「お、おう…」
これで亜美を自宅に送り届ければ、今日のミッションは終了だ。
「そのタクシーで、別荘まで行こう。最近のタクシーはカードでも支払えるから何とかなるよ。で、別荘に
着いたら、この週末は、なぁ〜〜んにもしないで、二人抱き合ったままで過ごそう。テレビもインターネッ
トも何も見ないで、窓辺から海を見ながら、ただひたすうら抱き合って愛し合うの…。ねぇ、お願いだから、
あたしと一緒にタクシーで別荘へ行こ…」
竜児は耳を疑った。
「正気なのか? 川嶋。明日は、お前だって必須科目の講義があるんじゃなかったのか? それに出席しな
いということは、下手したら留年を喰らうおそれすらあるってことなんだぞ?」
「別にいいじゃない、もうどうだって…。世間から隔絶したような辺鄙なところにある別荘でしょ? あた
かも、この世の中に、あんたと、あたししか存在しないような…。そんな二人だけの世界に居るんなら、他
のことなんかどうでもいいわ…」
「川嶋、それじゃ単なる現実逃避じゃねぇか! そんなことをしたって何の解決にもなりゃしない。それど
ころか、別荘から帰ってきてから、現実に向き合ったときの辛さが、前にも増してひどくなるぞ」
亜美は竜児の説得をうるさそうに聞いていたが、やがて癇癪を起こしたように、怒鳴った。
「もういい! 高須くんは、やっぱり亜美ちゃんのことなんか好きでも何でもないんでしょ! ラブホは不
潔だ、別荘に行くのは現実逃避だ、って、そんなことを口実に高須くんは、あたしから逃げて、逃げて、逃
げてばっかりじゃないのぉ!!」
「か、川嶋、落ち着け! お、俺は、お前の要求通りの行為には賛成しかねるが、決して、お前から逃げているわけじゃねぇ、だから、ひとまず、喚くのはやめてくれ!」
竜児にとっては、必死の説得のつもりだったが、亜美にとっては、それは不誠実な対応でしかなかった。
そして、あることに思い至り、声を張り上げた。
「そうよ、思い出したわ! 明日は実乃梨ちゃんのソフトの練習試合がある日じゃない! あんたが、亜美ちゃんとの別荘行きを拒むのは、こういうことだったのね。許さない、許さない、本当に許さない!!」
そうして、泣きながら闇雲に青本や条文集が入った重たいショルダーバッグを振り回した。
「ま、待て、そんなもん振り回すな! 危ない!!」
亜美がバッグを振り回すのをやめさせようと、竜児は亜美の間合いに飛び込もうとした。その竜児の鼻面を亜美のバッグがかすめた。
「うっ!」
直撃ではなかったが、鼻骨とその軟骨に、ぐにゅっ! といういやらしい感触が響き、一拍おいて鼻全体が熱を帯びたような鈍い痛みを覚えた。そして、鼻腔からあふれ口蓋に伝わってくる粘っこい血の味。
「う、うあっ…」
竜児は、その場に跪き、鼻面を右の掌で思わず押さえた。その指の隙間から臙脂色のようにくすんだ色合いの鼻血が、ぼとぼとと地面に滴った。
「ひ、ひぃいいいい!!」
めくら滅法振り回したバッグが当たり、竜児が顔面を血だらけにしていることに恐怖し、亜美は、絶叫して、その場に尻もちをついて、引っくり返った。
「か、川嶋…。ま、待て…」
竜児が右腕を伸ばし、血にまみれた掌を亜美に向けてくる。
「きゃぁあああああ!!」
「お、おい、川嶋、大丈夫だ、大したこっちゃない。だから、落ち着いてくれ…」
だが、亜美は双眸を大きくまん丸に見開き、尻もちをついたまま、じりじりと後ずさりする。
怖い、とにかく怖かった。自分の振り回したバッグで、竜児を傷付けた。その事実と、そんなことをしでかした自分自身がたまらなく恐ろしかった。
「俺なら、この程度のことは平気だから。ガキの頃は鼻血なんてしょっちゅうさ。だから、川嶋、怯えてないで、じっとしていてくれ…」
だが亜美は、不安と恐怖で大きく双眸を開いたまま、竜児を拒絶するように首を左右に振った。
「あっ! か、川嶋ぁ!!」
次の瞬間、亜美は地面を蹴って、立ち上がり、バッグを持って闇雲に駆け出していた。どこへ向かって走っているのかすら分からない。
暗い路地、その闇の中に自分自身も溶け込んでしまいそうな錯覚に陥りながら、亜美は走った。
走っても、走っても、何の救いにならないことを知りつつ、それでも亜美は闇の中を走り続けた。
『我らが同志』後編に続く