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ローマの平日
- 頬杖をついて、俺が朝飯を食うのをじっと見つめている白い顔。
昨夜シャワーを浴びてそのままなのか、ノーメイクだ。
いつも完璧を誇る美貌に、今朝は疲れを感じた。 考えてみれば当たり前だ…。
聞けば一昨日の20時にニューヨークでの仕事を終え、その足でJ・F・ケネディ空港に向かって、22時の便に飛び乗り、
8時間30分かかってフィウミチーノ空港、そして俺の働くトラットリアに来たという。
その上、昨日は7時間も俺の仕事が終わるのを待って、それから俺を連れまわして深夜まで歩き回り、俺が寝るのを
確認し、そして、今朝早起きして朝食を用意したのだ。 おそらく3時間ほどしか寝ていないだろう。
全く…。 俺にはもったいないくらい、いい女だよ、こいつは…。 時計はまだ朝の7時30分。
今日は亜美のことを出来る限り労わってやりたい。 よって、俺が今やるべきことは、親方への電話だ。
親方の答えは 『愛は最高の調味料だ』 これだけ…
これって、休んでいいってことだよな? …よくわからねぇが、そう解釈させてもらおう。
「今日は俺も休むことにした。」
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「えっ! 大丈夫なの? また親方にどやされない?」
「おう。 ちゃんと許可は取った。」 …筈だ。
「亜美ちゃんは嬉しいけど…、でも、竜児はあたしのこと気にしなくていいんだよ?」
「いや、本当に大丈夫だ。 たまにしか会えないんだし、これくらいいいって。」
-
「そっか…。」
さっきは遠慮したけど、やっぱり嬉しそうだ。 でも、それ以上に疲れているのがわかる。
「お前、疲れてんだろ、すこし寝ていいぞ。」
やや疲れた表情が、たちどころに般若の面に変わった。 なまじ綺麗なだけに、怒った時の迫力は凄い。
「竜児…。 わざわざ休み取って、亜美ちゃん寝かしてどうすんだっつーの。 マジ馬鹿なわけ?」
「お、おぅ、悪かった…。」 それで思わず俺はそう答えちまってた…。
ローマの平日 uno
シャワーを浴びて着替え、亜美が居るってだけで、すこしだけ優雅に感じる朝を過ごした後、街に繰り出す。
もう時計の針は9時あたりを指していたが、朝方の張り詰めた冬の空気はまだ残っている。
ピンクやオレンジや黄色、暖色系の色でまとまったトラステベレの町並みですら、どこか寂しげだ。
しかし、そんな景色でさえも、こいつが纏えば、一枚の名画に早変わりしてしまう。
流石に元カリスマファッションモデルだけあって、着こなしのセンスは抜群。
なんでもないワンピースやコートが、ベルトやアクセサリーの使い方一つで化けてしまう。 とても俺には真似出来ない技だ。
昨日は着膨れした不審人物だったが、今日の亜美は見違えるようにカッコイイ。
本人も自覚しているのだろう、絵になる風景を見かけると、すぐにポーズをとる。
そして、悔しいことに、それがまた決まっているのだ。
「どーお? 竜児ぃ〜。 亜美ちゃん、可愛い? 綺麗?」
「どっちかってーと、綺麗、だな。」
「ぅぐ… なんか、最近可愛くない…。」
「ん? どーした?」
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「何でもない…。 ねぇ、竜児、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「そうだな…。」
あまり遠くへいって、こいつを疲れさせたくない。 なんとか、近場でお茶を濁して、休ませてやりてぇ…。
「おぅ、そうだ、あそこに行くか。 たしか、まだ行ってなかった筈だ。 時間も…丁度だな。」
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「どこ?」
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「サンタ・マリア・イン・コスメディン教会だ。」
そこはトラステベレ地区からパラティーノ橋でテベレ川を越えるとすぐのところにある小さな教会だ。
パラティーノ橋の袂につくと、すでにその7階建ての鐘楼の先端が見えてくる。
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「あ、竜児、あれ?」
「おぅ。 そうだ。」
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「うっそ、超近くね?」
「どうした?」
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「うん… 実はさ、ローマで初めて竜児と会った日ね、ここ探して見つけられなかったんだ…。」
「へぇ、そうだったのか。 じゃあ、もっと早く連れて来るんだったな。」
「ううん、別に、そんなに来たかったって訳じゃないしね。」
橋をわたりきると、教会はすぐ其処。
「あ。 あの茶色い所?」 「おう。」 「思ったより小さいんだね。」 「ああ、俺も最初見た時はそう思った。」
柵が張られたアーチ回廊には人影は無い。
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「やっぱり丁度だったな。」
俺達が着いた時、まさに門が開いたところだった。 観光客はまだ来ていないようで、教会の前は閑散としている。
アーチ回廊の左の突き当たりに、仰々しく掲げられているのが、此処を有名にしている物体。
海神の息子が描かれた石の円盤―――真実の口。
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「へぇ… これが…」
「偽りの心持つ者は、深淵の王にその手を引き摺りこまれる。 この顔は海神であるトリートーンを象ったと云われている。」
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「ローマの休日でグレゴリー・ペックが手を噛まれたふりするやつでしょ。」
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「おう。 あれで一躍有名になったが、そもそもこの話は教会の説教で使われていた話らしい。」
「ふ〜ん。 ねぇ、竜児、手入れてみてよ。 亜美ちゃんを愛する気持ちに偽りがないか。」
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亜美にしちゃ、珍しいな、墓穴掘りやがった。 俺の心には一片の曇りもねぇ。
「おう。」
何の迷いもなく手を突っ込む。 5秒数えてから手をゆっくり抜いた。
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「どうだ。 次は亜美の番だぞ。」
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「あ、あたしはいいの。」
「そうか… 亜美が俺を愛してるって言ったのは嘘だったんだな……。」 たまには反撃しても罰はあたるまい。
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「そ、そんなことない!」 「じゃ、どうぞ、お姫様。」
「くっ…」
なんか意外だ。 こういう迷信なんか無視して、自信たっぷりに手を入れるかと思ったんだが…
オードリー以上におっかなびっくりで、つい悪戯したくなっちまった。
そろそろと手を入れていき、指が半分入ったところで…
『ぱん』 手を叩いた。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
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びっくりした。 超びっくりした。 こいつのこんな反応なんて、初めて見た。 が、なんだ? なんか様子がおかしい。
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「はぁ、は、はぁ」 亜美は妙に息が不規則に乱れていて、目尻に涙を溜めていた…
やべぇ…。 なんだか知らねぇが、地雷踏んじまったようだ。 しかも、飛び切り深刻な奴。
「り、竜児の馬鹿っ! き、嫌いよ……。」
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「す、すまねぇ、そんなに驚くとは思ってなかったんだ。 この通り誤る。 ………許してくれ。」
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とりあえずこの場を離れよう。 人がいない所がいいだろう。 どこか… そうだ。
「亜美、とりあえず、中に入ろう。」
亜美は一応、俺に従ってくれた。 しかし、間違いなく怒っている。
そして何より、息が乱れたままなのが心配だった。
細かいモザイクが施された教会の内部は滅多に人が入ってこない。
小さいながら、見事なフレスコ画に飾られた、ローマでも特に美しい教会の一つなのは意外に知られていない。
5分ほど休んでもなお、亜美の呼吸は乱れている。 やばい。 これは交感神経の過度緊張状態だ。
俺はなんて馬鹿なんだ、畜生……。 亜美はへとへとに疲れて、しかも睡眠不足だったってのに……。
とにかくリラックスさせるしかない。
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「亜美、悪かった、大丈夫だ。 お前のことは信じてる。 大丈夫だ。 大丈夫。 ……。」
子供をあやすように肩を軽く叩きながら抱きしめる。 亜美の体は微かに震えていた。
10分ほど経つと、やっと亜美は落ち着いてきた。
「ごめん、竜児、もう大丈夫。」
「謝らねぇでくれ、俺が全面的に悪かった。」
「ううん。 ほら、あたし、嘘つきだからさ、ああいうのダメなんだ。 迷信だってわかってても……。」
実際、こいつは息をするみたいに嘘をつく。 だが、この怯えようはちょっと違うような感じがする。
なにか、亜美には気にしてる事があるような気がする。 そして、それは俺には言えない事なのだろうか?
そう思ったら、腹が立った。
隠し事をしている亜美にではない。 自分が手伝ってやれない事に対してだ。
だが、俺の力が必要なら、今の亜美はちゃんと俺を頼ってくれる。
だから今はもどかしくても、亜美を信じて待つしかないんだ。
「それにしても…」
「ん、なんだ?」
「すっごい綺麗だね、此処。」 「おう。 高須スペシャル、ローマの穴場その1だ。」
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機嫌が直ったのか、亜美は教会内部を見物し始めた。
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「あ、ガイコツ!」 「おう。 聖人の聖遺骨ってやつだな。」
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「これ、マリア様だよね?」「ああ。キリストを抱いている、典型的な聖母子像だ。」
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よかった。 もう大丈夫みたいだ。 無理してる様子もない。
教会内部は誰もいなくて、神秘的な雰囲気だ。
隅々までゆっくり見て周って、教会内部から出ると、いつの間にかアーチ回廊には観光客が大勢並んでいた。
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「さっきはゴメンね、竜児。」 「頼むから、謝らねぇでくれ……。 さっきのはどう考えたって俺が悪い。」
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「そうじゃないの。 あたしが、真実の口が怖い理由。 まだ、教える勇気ないんだ。 今は、もうちょっと…待って。
必ず、教えるから。」
やっぱりだ。 こいつ、また何かくだらねぇ事で、自分を責めてるのか…。
まったく、こういう所は、変わらねぇな…。
器用に世の中渡ってるように見えて、その実人一倍不器用な所もたまらなく愛おしくて、珍しく俺の方から肩を抱いた。
一瞬、亜美の肩に力が入って、…そして心地よさげにすこしだけ体重を預けてくる。
言葉は要らなかった。 ただ、お互いの信頼感が俺達を暖める。
そして、どこへ向かうともなく歩いているうちにチルコ・マッシモに辿り着く。
亜美はもう限界のようだ。
昨日とうって変わって、今日は日差しも温かく、風もない穏やかな日。
広々とした古代の競技場跡は人の気配が無い。
パランティーノの丘を眺めるベンチに腰掛け、露店で買ったカプチーノを二人で啜る。
俺の肩に頭を預け、両手でカプチーノを抱える亜美。
「なんだか、幸せだね。」
不意に舌足らずな口調で亜美が呟いた。
俺はゆっくりと傾いていく亜美の手から、飲みかけのカプチーノを優しく奪う。 こぼして服を汚さないように…。
それは……最高に幸せな、そんなローマの点描。
おわり。
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