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厨房にて
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鍋の中では、根菜類と鶏肉の煮物が、ふつふつと煮えている。 竜児は、薄口醤油を目分量でその煮物に加え、一煮立ちさせてから味をみた。
「これぐらいかな? だしが利いているから、強い味付けは不要だろう」
その傍らに立つ亜美が、不思議そうに目を細めて竜児の手つきを観察していた。
「ねぇ、どうして、和風料理の調味料は、『さしすせそ』の順に入れるの?」
「お、おう、それはだな、『さ』の砂糖は分子のサイズが大きく、『し』の塩とかの電解質に比べて
食材に浸透しにくいから早めに入れるんだ。
それから『す』の酢、『せ』のせうゆ、これは醤油のことだが、これらはあまり早く入れてしまうと揮発性の成分や 香りが飛んでしまう。それで、砂糖や塩の後に入れるんだ」
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「へぇ、そうなんだぁ…」
亜美は、細めていた目を心持ち見開いて、竜児の博学ぶりに感心した。
「『さしすせそ』のルールは、単なる経験則なんだが、科学的にも矛盾がない。昔の人の知恵は侮れないな」
その言葉を受けて、亜美は、ふっ、と脱力したように微笑した。
「そう、侮れないわね、何事も…」
その微笑にただならぬものを感じたのか、竜児は「ん?」と、一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。亜美がこういった謎めいた
微笑みを浮かべるときは、何かをネタに竜児を追及する場合が少なくない。それを、亜美との短からぬ付き合いを通じて、
竜児も把握していた。
「何だよ、意味深だな」
「別にぃ〜。ただ、この前、誠実だけど朴念仁な高須くんの意外な一面を見ちゃったからねぇ。ほ〜んと、侮れない」
そう言って、竜児の顔を覗き込むようにして、白磁のような頬を近づけてきた。
「な、何だよ?」
不安そうに、どもっている竜児に、目を細めたお馴染みの性悪笑顔で迫ってみせる。
「ねぇ、実乃梨ちゃんとは、完全に吹っ切れたんじゃなかったのぉ? この前、かのう屋のレジの前で、何だか楽しそうに
二人でいるところを亜美ちゃんは目撃してしまったんですけどぉ、あれって、どういうことかなぁ? 亜美ちゃん、わかんなぁ〜い」
そう言いながら、ラックから、おもむろに出刃包丁を取り出し、その刃先を、爪の先で軽くなぞって見せた。
竜児の顔が蒼白となり、額には脂汗が滲んでいる。
「あ、あぶない。そ、そんなもん仕舞ってくれぇ!」
亜美は、取り乱している竜児に、にっこりと微笑みかけた。しかし、右手に持った包丁の刀身を、ぺたぺたと左掌に当てながらである。
「まぁ、実乃梨ちゃんにやさしくしてあげてもいいんだけどぉ、亜美ちゃんのことは実乃梨ちゃんよりもやさしくしてくれるんでしょうねぇ?」
竜児は慌てて首を縦に振っている。
「するする、や、やさしくする」
「な〜んか、嘘くさいんですけどぉ〜。まぁ、いいわ。嘘だと分かったその時は、亜美ちゃん、さくっとやっちゃうぞ」
そう言って、包丁を仕舞い、うふふ、と意味ありげな含み笑いを、竜児に向けるのだった。
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